魔女の月からハイビスカス
黄色のパレオを身にまとったリタのたわわな胸は、まるでお月様のようだと僕は思った。
まんまるなふたつの月の間には、小さな赤いつぼみがついていた。それは祈るように組まれたリタの手とともに月明かりを浴びて、ゆるゆると花開いていく。
潮風に長い黒髪をなびかせて、リタは琥珀色の瞳で海を見つめ続ける。濡れた唇はたえずなにごとか囁き続け、彼女が呼吸をするたびに、胸のつぼみがほどけ、花びらが広がっていった。
彼女の胸で咲いたのは、大輪のハイビスカスだった。
まるで鼓動を刻むかのように、赤い花はどくんどくんと花びらを揺らす。荒い呼吸とともに大きく上下する、ふたつの満月から咲いた花。それをリタは、なんのためらいもなく摘み取った。
そしてそれを、僕の口元へと寄せた。
「どうぞ、レンケン」
それが僕の食事だった。
○
リタの身体にはいつも、真っ赤なハイビスカスが咲いていた。
「レンケン、そろそろお客様が来ると思うから、お店の準備をしておいてもらえる?」
色鮮やかな赤いハイビスカスが咲き乱れる黄色のパレオが、リタのお気に入りの服だった。腰まで届くほど伸ばした黒髪に、これまた赤いハイビスカスの髪飾りをつけながら、彼女は寝ぼけ眼で二階から降りてきた。
床一面に敷きつめられた、青いタイルの上を裸足で歩き、僕は窓を開けて店の中に風をいれていく。今朝は二人とも、朝日がのぼってもだらだらと寝過ごしてしまっていた。窓から差し込む光とともに、海から吹くなまあたたかい風が僕の耳元をくすぐった。
リタに言われて、僕は店の真ん中に置いたテーブルを濡らしたタオルで拭く。貝殻の装飾をほどこした、白いテーブルと一組の椅子。お世辞にも広いといえないけど、この店はテーブルを置く場所さえあれば十分だった。
リタは寝起きの渇いた喉をジャスミンティーで潤わせ、ようやく店の扉を開いた。
白いレースのカーテンが風にはためき、店の入り口から臨む海をよりいっそうまぶしく見せる。思わず目を細めてしまうほどに、太陽の光を受けてきらめく海と白い砂浜が、この店からは抜群の眺めで見ることができた。
「……あら、思ったより早かったわね?」
店先に、一人の女性が立っていた。
リタよりも年上であろう、二十代半ばをすぎたころの女性が、店が開くのを今か今かと待ち構えるように立っていた。その金色の巻髪を見て、すぐにこの島の人ではないとわかる。端の破れ始めた古びた旅行雑誌を腕に抱えて、彼女は突然開いた扉に驚いて灰色の瞳を見開いていた。
「あの……ここが、未来が見える魔女のお店ですか?」
「そうよ」
今日、いちばんはじめに来るお客は、異国の女性であろう。リタの言っていたことが、まさしく、あたった。
「あなたが来るのはわかってたわ。くわしくは店の中で話しましょう」
小柄な女性の背中にそっと手をまわし、リタは店の中へと招き入れる。褐色の肌に妖しく光る濡れた唇は、微笑みを絶やさなかった。
リタはこの島唯一の、魔女だった。
魔女といっても、リタは空を飛ばない。おどろおどろしい魔術を使うことも、誰かに呪いをかけることもない。リタは優れた占いの力で、未来を見ることのできる魔女だった。
「レンケン、海の水を汲んできてもらえる?」
リタが占いに使うのは、この島の海の水。水晶ではなく、その水面を見て占う。海の水は占いの都度新しいものを用意しなければならなくて、僕は忙しい日には一日に何度も海と店とを往復していた。
ガラスのボウルを腕いっぱいに抱えて、僕は砂浜を歩く。見晴らしの良い小高い丘の上に建ったリタの店から、海までは一本道だった。照りつけた太陽で砂が温まっていて、足の裏が熱い。この島ではほとんどの人が靴をはかなかった。
青い海と白い砂浜が自慢のこの島は、異国からやってくる観光客を相手に仕事をすることが多い。ビーチでの海水浴を楽しむ客よりも、海は波が高い日が多いため、サーフィン目当てでやってくるひとのほうが多かった。
僕には毎日見る海で、その透き通るような青さにとくに感動するわけもなく、半ズボンを足の付け根までまくりあげて生ぬるい海を一歩一歩進んだ。
ボウルに海水を汲む前に、僕は波の合間に映る自分の顔を、リタがいつも占いでそうするように、覗き込んでみた。
リタと同じ、島の人が持って産まれるのと同じ、黒い髪をした少年がそこにいる。ようやく声が低くなった、丸みを帯びたほほが少しずつ細くなっていく年頃の少年だった。ひょろひょろと細い手足は日に日に長くなり、すこしずつたくましくなってきていた。
これが、僕の姿。
「僕はいったい、誰なんだろう……?」
水面にうつる、不安そうな少年の顔。見つめてくる瞳は、この海と同じ抜けるような青色をしていた。
僕は自分のことがなにもわからない。
レンケンという名前はリタがつけてくれた。何もわからない僕を、店の手伝いをするという条件をつけて、住まわせてくれた。あの店の二階は住居になっていて、僕が来るまでは、早くに両親を亡くしたリタが一人で住んでいたらしい。
僕を見つめてくる、水面にうつる少年。その顔が波で消されて、僕は自分がずいぶん長く立ち尽くしていたことに気づいた。
早くリタの元に戻らなければ。急いで、ボウルに水を汲む。そして僕は、自分の足が動かないことに気づいた。
一瞬、砂に足が沈んだのかと思った。けれど、違う。褐色であるはずの肌が、砂の色がわかるほどに白く透けてしまっていた。つま先の輪郭はもう、なくなっている。
足が海に溶け出していた。
あわてて海から出ようとしても、足は砂と一体化してしまって動かない。ボウルを砂浜に放り投げ、手で足をつかんで引き抜こうにも、波をかぶるすねや膝までが色を失い海と混ざり合ってしまう。
溶けた足を波がさらい、身体が傾ぐ。
倒れこむよりも早く、僕の身体は輪郭を失い、水音をあげて海に溶けてしまった。
僕は海から生まれた。
それをリタが拾ってくれた。
だから僕は、自分が何者なのか、わからなかった。
「レンケンったら、またやったのね?」
リタが海に来たのは、日が沈みあたりがすっかり暗くなってしまってからのことだった。
「帰ってこないから心配になって探したくても、今日はお客が多くて店を出られなかったのよ。いつまでたっても道具が来ないから、占うの大変だったのよ?」
リタの店は、日没で閉める。きっと彼女は、次々と来る客を占い道具のないまま相手をしていたに違いない。さほど難しくない依頼なら、リタは道具がなくても相手の目を見て話せば未来を見ることができた。
パレオの裾が濡れるのもかまわず、彼女はずかずかと海の中に入ってくる。どうして僕のいる場所がわかったのか、それは放り投げたままにしたボウルが目印になったからだった。
膝まで海につかったところで、リタはようやく歩くのをやめた。そして、潮風に遊ばれて顔にかかった黒髪を乱暴にかきあげる。足元に広がる海を――正しくはそこに漂う僕を見下ろすその表情には、店で浮かべるような微笑みなんてひとつもなかった。
「いつも海に入るときは気をつけるようにって言ったでしょう!」
仁王立ちしたリタの顔は、月明かりを背負って暗がりになっていてもなお、柳眉を逆立てているのがよくわかった。長いまつげが縁取るそのまなざしは怒るとさらに強くなって、僕は居心地悪くさざ波にゆられていた。
ごめんなさい、とあやまりたくても、今の僕には口がない。ただただ海の中、波とともに砂浜を行ったりきたりするしかない状態で、リタのお説教はまだまだ続いた。
「そうやって何度も海に戻っちゃったら、せっかくわたしが毎日やってることも無駄になっちゃうのよ? 二度と海から出られなくなるかもしれないのよ? レンケン、あなたそれわかってるの?」
波の動きに合わせて、海に浸ったパレオも行ったりきたりを繰り返す。そのたびにリタの健康的な太ももが見え隠れして、僕は目を閉じようとしても、閉じるためのまぶたがなくて困り果てるしかなかった。
「今日いちばんに来たお客さん、本当に大変だったのよ! 突然姿を消して、何年も返ってこない恋人は今どこにいるのかっていうから見てあげたら、その恋人ったら奥さんがいるのを言い出せないまま付き合ってて、子供ができたからその人の前から姿を消しただけだったの。実際は隣町に住んでたのよ。ばったり会わないように、彼がとても気を配っていただけ。それ聞いてお客さん泣き出しちゃって、なだめるの大変だったんだから! ああいうのはレンケンが一番上手なのに!」
息もつかずに一気にまくしたてるけど、その話、愚痴だ。
「海に流されて沖まで行っちゃったら、身体のないレンケンのことなんて見つけることができるかわかんないんだからね!」
怒るあまり、リタの目に涙が浮かぶ。今にも降りそそいできそうな星空を背負いながら、彼女はひとつ大きく深呼吸をすると、僕を見下ろすのをやめて空を仰いだ。
両手を高く伸ばし、まるで月をつかまえるかのような動作をしてから、リタはその手を胸の前で祈るように組む。そして瞬きひとつすることなく、月明かりの浮かぶ水面をじっと見つめた。唇は声にならない声でなにかを囁いていた。
これがリタの、一日の最後の仕事だった。
こうやってリタは、海と会話をする。この島の海には魔力が宿っているのだと、彼女は教えてくれた。
海は教えてくれる。これからこの海に起きること、この島に起きること、リタの身に起きること。この海からどこまでも続いていく広大な世界でいま、何が起きているのかそしてこれから何が起きるのか。話しかければ、海がそれを見せてくれるのだという。
こうしてリタは未来を知るのだった。
幼いころから、リタの占いはよく当たると評判だったらしい。そして海の事故の多かったこの島で、海の荒れる日や鮫の出る日をぴたりと言い当て、海で命を落とす者を出さなくなったのだった。
「……っ、う」
海と話すのは、ほんのわずかな時間。けれど彼女の額には大粒の汗が浮く。そして話を終えた彼女はまぶたを閉じ、眉間にしわを寄せて苦い吐息を漏らしながら背中を丸めた。
「……レンケン」
名前を呼ばれて、僕はさざ波で返事をした。
彼女の胸から、赤いハイビスカスが咲いていた。
惜しげもなく摘み取ったそのみずみずしい花を、彼女は海に浮かべる。そして腰をかがめて、砂をすくいあげるように、僕の手を引き海から出してくれた。
「……ありがとう」
僕はようやく、身体を取り戻した。
海に溶けてしまったときに、買ってもらった服は沖に流してしまった。なにも身につけない僕の胸には、リタが今まさに咲かせたハイビスカスが咲いていた。
これが僕の命だった。
リタは僕を拾った夜、海に聞いた。僕は何者なのかと。そして海は答えた。毎晩月夜に咲く花を食べさせなさいと。
それから、一年。リタは毎日欠かさず、僕のために胸から赤い花を咲かせてくれていた。リタの咲かせた花を食べると、僕の胸の花が元気になる。僕は食事を取らない。毎晩彼女が咲かせてくれる花だけが、僕の食事だった。
「……帰ろう、レンケン」
僕が無事、身体を取り戻したことを確認して、リタは砂浜に向かって歩き出した。
「裸のままうろうろして、誰かに見つかったら大変よ。走って帰るわよ」
言って、リタは一目散にかけだす。僕のほうは決して振り向かない。少なからず、裸の僕を見ることに恥ずかしさがあるようだった。
なぜだろう。僕はリタを見ていると、ずっと前から彼女のことを知っていたような気がしてならなかった。
○○
翌日。リタが買っておいてくれた深緑のシャツを着て、僕は胸のハイビスカスが見えないようにきっちりとボタンを留めた。
昨日海に溶けてしまったことなんて忘れたかのように、僕の足はしっかりと大地を踏んでいた。肌も島の人たちと同じように、日に焼けて褐色の肌がさらに色濃くなっている。リタは昨日とは違う、けれど同じ赤いハイビスカス柄の黄色いパレオを着て、開口一番「レンケン、出かけるわよ」と言った。
「出かけるって、今日のお店はどうするの?」
「今日は誰も来ないわよ」
「どこに行くの?」
「ちょっと島の反対側まで」
有無をいわさず、リタは藁で編んだ帽子をかぶせてくる。どうやら今日は、『何か』見えた日らしい。そうでなければ彼女はこんなに突然出かけるなんて言い出さない。
「今日は波が高いのよ。胸騒ぎがするわ」
リタの胸騒ぎは、必ずといっていいほど、当たる。ジャスミンティーの入った水筒を首から提げて、僕はリタとともに店から出た。
島の反対側は、観光客の集まるいわゆるビーチがある。土産物屋も充実していて、人が集まってにぎやかだった。
リタのこぐ自転車の後ろに乗れば、小さい島のこと、反対側はあっという間だった。昨日店を訪れた金髪の女性のように、異国の人たちがたくさんいる。島の人たちはリタの姿を見ると、口々に声をかけて集まってきた。
「リタ、今度店に行ってもいい? 相談したいことがあるの」
「リタ、最近漁の調子がいまいちなんだ。また魚の群れの動きを占ってくれないか?」
「リタ、孫が海にでて遊びたがるんだけど、あの子に水難は出ていないかい?」
老若男女問わず、リタにお願いをしてくる。僕はその様子を見て悟った。だからリタはあえて店を人気の少ないところに開いたのだと。
僕を後ろに乗せたまま、リタは自転車から降りて手で押しながら歩いている。頼みごとをされては「今度ね」とかわし、ひたすら歩きながら観光客ばかりを目で追っていた。
誰か探しているんだと、すぐにわかった。
ビーチを臨む道を端から端まで歩き、リタの表情が険しいものに変わる。今日は波が高いので、海にいるのはサーフィンを楽しむ人だけだった。他の観光客たちはみな、土産物屋をめぐったりマッサージ屋で旅の疲れを癒したりしている。リタは店のひとつひとつを覗き、そして収穫がないたびに、どんどん顔色を暗くしていった。
「……リタ?」
たまらず、僕は声をかける。手伝おうかと言っても、彼女は首をふるだけだった。
そして再び自転車にまたがると、立ったまま猛然とこぎだした。帽子が風に飛んでしまったけど、リタはかまわない。僕は振り落とされないように彼女の細い腰にしがみついて、鼻先をくすぐるリタの髪にくしゃみを我慢するのに必死だった。
再び人気が少なくなり、相変わらず白波の立つ海にぽつねんとかかる桟橋が見えてきたところで、リタは自転車を投げ捨てるように降りた。
なにがなんだかわからない僕を小脇に抱え、彼女はずんずんと地響きでも起こしそうな勢いで歩き出す。桟橋は漁に出る船がつながれるところだけど、波が少し高いくらいじゃ漁はやめない。桟橋には船がひとつもなかった。
その桟橋に、一人の女性が立っていた。
この島は、海は綺麗だけど、岩場が多いこともあり遊泳禁止の場所が多くあった。この桟橋に訪れる人は、漁師かあるいは沖釣りを楽しみに来た観光客のどちらかだ。けれど彼女は釣りにいく様子なんてさらさらなく、ただただ海を眺めているだけだった。
僕はその金の髪を見て、昨日リタのもとにやってきた女性だとすぐにわかった。
「いた……!」
声をあげるなり、リタは僕をまるでバッグかなにかのように簡単に放り投げてしまう。運よく砂浜に転がって衝撃は和らいだものの、僕はごろごろと転がり、女性に向かって一目散に駆け出すリタの背中を呆然と見つめた。
女性は今まさに、桟橋から飛び降りようとしていた。手すりを越え、よりによってハイヒールでぎりぎりの足場に立っていた。
「あなた、待ちなさい!」
リタに叫ばれ、驚き振り向いた女性の目は、涙に濡れ真っ赤になっていた。あの桟橋から降りたら、小柄な女性の背丈じゃまず足はつかない。そして今日の波なら、あっという間に沖まで流されてしまう。
「――待って!」
リタが叫ぶよりも早く、彼女は海に落ちた。自ら飛び降りたというより、この島に不向きなハイヒールの足が、波にさらわれて滑ったというほうが正しかった。
白波にさらわれ、女性のあげた甲高い悲鳴で、僕はようやく我に返り、痛む身体を押さえながらリタに続く。リタは女性を助けるべく桟橋の手すりを越え、飛び込む寸前、こう叫んだ。
「この海で身投げしようなんていい度胸だわ!」
女性はどうやら泳げないようで、波にもまれて息もできていないようだった。あれよあれよという間に流されていくのを、リタが見事なクロールで追いかける。僕は桟橋から、荒れた海の中を進むリタの黄色いパレオを見つめることしかできなかった。
飛び込めば、僕は間違いなく、また海に溶けてしまう。これだけ荒れていては、波にもまれて散り散りにされて、もう二度とこの身体に戻ることはできないだろう。
「リタ、気をつけて!」
僕はただ、叫ぶことしかできなかった。
溺れた女性を助ける魔法はないのだろうか。リタは魔女であるはずなのに、自分の身体で女性を救おうとしている。女性が沈みそうになる寸前、その白く華奢な手をとらえたリタは、パニックのあまりしがみつこうとする女性をまず、海に沈めた。
混乱してしがみつかれて、二人ともども沖まで流されてしまっては元も子もない。気を失ったのかぐったりと動かなくなった女性を連れて、リタはこちらに泳いで戻ってくる。ただその動きは、女性を助けに飛び込んだときよりあきらかに体力を消耗し、水をかく手も弱々しかった。
「リタ!」
桟橋の柱にしがみつき、リタはどこからそんな力を出したのか、女性を抱き上げて僕に託す。僕も渾身の力をこめて、手すりから落ちそうになりながらも女性を引き上げた。
「しっかり! 大丈夫ですか?」
濡れた髪が顔に張り付く女性の頬を叩くと、彼女は自ら水を吐き、咳き込んでいた。波にもまれた際、岩場で足を傷つけたらしいけど、傷は深くない。意識を失っているだけなのだろう、僕はほっと安堵の息をついて、女性は無事だとリタに呼びかけた。
「……リタ?」
返事がなかった。
しがみついていたはずの柱に、リタの姿はなかった。そして白波の合間、沖へと続く潮の流れの中に、僕はもみくちゃにされる黄色い布の端を見た。
「――リタ!」
僕は迷わず、海へと飛び込んだ。
○○○
荒波をひとつこえるたびに、僕の身体は少しずつ肌の色が抜けていった。
波の音が、やけに耳に響く。海がにごっていて視界も悪かった。けれどよく目立つパレオのおかげで、僕はリタの姿を見失わずにすんだ。
手で波をかくたびに、力が抜けていく。指先はもう、海に溶け始めていた。急がないと、リタにたどり着く前に、僕は溶けてしまう。
「リタ!」
叫んだ口に波が入って、僕はたくさん飲んでしまう。とくに苦しくはない。ただ、口の中に、海水だけではない何かが入ってきた。
「……?」
顔いっぱいにあびた波しぶきの中に、僕は赤い花びらを見つけた。
泳げば泳ぐほどに、その花びらは増えていく。いったいどこからそんなものが。思って、僕はそれが自分の胸に咲いた花と同じものだと気づいた。
けれど僕の花はなんともない。ではこの花は、いったいどこからくるのか。なぜこの花びらに触れると、溶けかけていた僕の身体は力を取り戻していくのか。
「――リタ!」
ようやく追いついたリタの太ももに、大きな傷ができているのを、僕は見た。
リタが毎晩僕にくれたあの赤い花は、彼女の心の臓から咲いていた。あの鮮やかな色は、リタの中で脈打つ、彼女の身体を流れる血だ。リタは毎晩すこしずつ、その血潮を花に変えて、僕に与えてくれていた。
まるで花びらを敷きつめたかのような、赤い道が波間を漂いリタへの道しるべを作ってくれる。花びらに触れるごとに力を取り戻していった僕はようやく、今にも沈んでしまいそうなリタの腕を掴んだ。
「……レン、ケン?」
たくさん水を飲んだのだろう。意識ももうろうとなったリタが、僕の名前を呼んだ。
「見た未来に、あなたはいなかったのに……」
「……え?」
力なく笑うリタの言葉に、僕は意味がわからなかった。
それはどういうことか。聞くよりも先に、僕らはひときわ大きな波に、あたりに浮かんだ花びらもろとも飲み込まれていた。
手だけは決して離さなかった。
波に海の底まで押し込められ、僕は意識を失ってしまったリタをしかと抱きかかえ、なんとか海面に出ようともがいていた。
リタの足から、出血が続いている。このまま血を流してしまえば、リタの命が危ない。なによりまず顔を出さないと、息ができない。
彼女のおかげで、この島の海では死者が出ていないというのに。
僕は自分の身体が、再びもろく崩れそうになるのを感じていた。
ゆらゆらと、まるで海草のように波にもまれる僕の身体は、膨張してリタの身体をすっぽりと腕に抱いていた。先ほどまであんなに大きかったはずのリタが、とても小さく、弱く感じる。
リタを離すまい。僕は力の限り、リタの身体を抱きしめた。
――リタは今日、死ぬんだ。
流されるままの、激しい潮の流れの中。見開いた僕の眼に、まさしく今日、家を出て自転車に乗ったリタの姿が見えた。
リタは、今日、この海で溺れる。身投げしようとした観光客の女性を助けようとして、かわりに自分がこの海で命尽きてしまう。
これがリタの未来だった。
彼女はいつもこうやって、海をとおして未来を見ていのだろう。幼いころからすぐそばにいた海の力を借りて、これから先、永遠に続いていく未来をその目で見つめ続けていた。
そしてリタは、自分の死を知っていた。
海も辛かったに違いない。海の声を聞きそれを島の人に伝え、この島と海を守っていてくれたリタが。自分の子供のように、あるいは、恋人のように、いつも寄り添ってくれていたはずのリタが、まさか自分の懐の中で命尽きてしまうことになるなんて。
リタは自分の未来を受け入れた。知ってもなお、逃げることなく、海の声を聞き続けてくれた。
海だって、リタを死なせたくなんてなかった。どうにかして、リタの未来を変えてみせたかった。彼女がこの島で、いつまでも微笑みながら生きていけるように。
海はリタに、恋をしていた。
「――リタ!」
僕は叫び、海をかいた。
リタを助けなければならない。死なせてはいけない。その一心で、荒れた海を泳ぐ。リタの血を浴び、力がみなぎっていく身体は崩れ、溶けていき、一筋の潮の流れとなり、リタの身体を包み込んでいた。
僕はリタを守るために、産まれたんだ。
○○○○
「……ケン、しっかり! レンケン!」
頬を叩かれて、僕は鉛のように重いまぶたを開いた。
「レンケン!」
ぼんやりと、視界が白くかすむ。僕の頬を叩くのは、間違いなくリタだ。仰向けになった身体を起こそうと、地面についた手が砂を掴んで、僕は自分たちが海に打ち上げられたのを知った。
僕らはいったい、どれほど海に流されていたのだろう。夜の闇が海におとずれていた。桟橋が遠い向こうに見えて、ライトを手に口々に叫ぶ島の人たちの光と声が聞こえる。女性も無事、保護されたようだった。
「僕は……」
なぜ、僕はまだここにいるのか。てっきり、海に溶けて消えてしまったと思っていた。けれど胸に手をあてて、僕は花が残っていることに気づく。リタが与えてくれた命の花は、まだ枯れていなかった。
「ありがとう、レンケン」
月明かりの下、濡れたパレオが身体に張り付いたリタの姿は、身体の線がむき出しになり息を呑むほどに妖艶だった。
リタが手を伸ばし、僕を抱きしめてくれる。彼女の身体は小さくふるえていた。
僕はこうして、リタに触れてみたかった。
ずっと、リタを見ていた。いつも海の声を聞いてくれるリタを、いつからか、恋しく思う自分がいた。その肌に触れてみたかった、髪を撫でてみたかった。
リタの死が近いことを知ったとき、とても辛かった。
だから僕は、海から出た。
リタが僕をそばに置いてくれたら。すぐに海に溶けてしまう、もろい身体しか持つことのできない僕に、命の花を咲かせ続けてくれたなら。自分の死を知ってなお、海に寄り添い続けてくれるのなら。
僕はリタの命を守ろうと。
「僕、リタのことが好きだ……」
声を押し殺して泣く、その震える唇に口づけをして、僕はその耳に囁いた。
「リタのこと、守れてよかった」
僕の胸に咲いたハイビスカスが、見る間に、枯れていく。リタを守るために手に入れた身体だった。リタを守ることができた以上、僕はもう、海に戻らなければならなかった。
「……レンケン!」
崩れ落ちそうになる身体をかき抱かれ、僕は彼女の胸から咲いた赤い花に気がついた。
「消えないで。海になんて戻らないで。レンケン、あなたが変えてくれた未来よ」
豊かな胸はまるで月のようで。そのふたつの月の間に、大輪のハイビスカスが咲いている。僕の命をつなぐ血の花を、リタはまた、咲かせてくれていた。
「新しい未来に、あなたの姿が見えるわ、レンケン。あなたは海に戻らずに、私と一緒にこの島で暮らすのよ」
リタが、天寿をまっとうするそのときまで。彼女は胸に、この花が咲かせ続けるのだろう。
その柔らかな胸に顔をうずめて、僕はそっと、命の花に唇を寄せた。
END