1章5節 月の見える街1
アンカイラ。
マルクト共和国の西側の国境辺りに位置する、月の名所と歌われる地。
セーナリオの街のすぐ隣、一日ほど行程を行ったところである。
ここは不思議な場所で、雨が少ないわけでも風が強く吹き付ける場所でもないのに、空が幾分他の土地と比べて澄んでいるところだった。そして、すこしだけ、他の土地より月が大きく見える。主神エファロンが月を恋しがった場所だとか、そういう伝説がいくつかあるが、何故そうなのかは誰も知らない。
そういったちょっとばかり神秘的な場所であるアンカイラは月が美しく見える場所であると同時に、貴族や、貴族をパトロンとする芸術家たちの保養地としての側面も有していた。
季節の頃合がよければこの街は昼夜問わず、観光客や彼ら目当ての屋台、店が賑わいを見せるが、まだ時期の初めの頃の今は、そこまで人がいるというわけでもない。
幸いなことに、宿に困るということはなかった。
いつもなら高くて泊まれないような宿も、中流くらいであれば値も下がっており、メオは少し贅沢して泊まることにした。
――というより、この町の宿は比較的安い値段で泊まれるらしい。
メオは一部屋をエラインと折半してとった。当然の如くエラインは嫌がったが、部屋にはベットも二つあるし、一人にはやや広いものだ、それに折半した方が金銭的にも良いとメオがなだめて、渋々彼はそれを了承した。
宿帳へ記入を済ませ、荷物を置くために部屋に入ってみると、確かにベットは二つあり、部屋は一人で使うには広いものであった。
さすがに風呂はなかったが、窓の向こうにバルコニーが備え付けられているのが見える。
(やっぱり観光地だね。設備が違うわ……)
後で聞いた話だと、メオたちの泊まった宿はこの町全体から言えば中の下くらいのランクらしい。高級ホテルというものが、一体どんなものか。あまり想像すると悲しくなるので、メオは考えないことにした。
いつもするように、荷物を置き酒場に出て夕食をとった。
その日はエラインと一緒に飲んだ。彼は、話し掛ければ答えてはくれたが、自分から話すことはなかった。
からかうと今度は本当に怒ってしまい、エラインは席を立ってとっとと外に出て行ってしまった。
怒ってはいるものの、彼はどうやらメオの道案内をするという提案に乗ったらしく、説き伏せたものの宿は折半しているし、その宿に荷物もおかれたままだ。時折警戒する素振りも見せるが、メオと共に宿を取ることにも彼なりに利益があると踏んでいるのだろう。
マルクト共和国あたりまでくると、赤い瞳の人間に対しての偏見や締め付けといったものはだいぶ減っているようだ。しかし、それでも宿に泊めるのを渋る者は多い。同伴者がいれば、それなりに融通が効く。そんなところかな、とメオは思っていた。
メオはいつもより早めに切り上げて、遊びにも出ずに宿に戻ることにした。
部屋に入るとエラインはまだ帰ってきていなかった。やはり荷物は置かれたままだ。
どこに行ったのかとすこし苦笑しつつ、メオはすぐに夜着に着替えてベットにもぐりこむ。
あの日以来、どうも遊びに行く気が起きない。懐具合の心配もあるが、遊びに行きたい心境になれないせいだろうと、メオは自分でもわかってはいた。
寝台に横たわりつつも、目は冴え渡っていた。一日歩きずめで疲れているはずなのにどうも眠れない。
小一時間ほどベットの上でもぞもぞとしていたが、やがておもむろに起き上がった。
(少し夜風に当たろう……)
窓を開き、バルコニーに出る。
ここの宿の部屋は二階。ちょうど窓側にはそれ以上の建物がなく、見晴らしが良かった。
外は暗かったけれども、空には赤い三日月が輝き、地には街の家の明かりがまだほんのりとともっていた。
その夜景は美しかった。しかし赤い月にはエファロン教徒でない彼でさえ、少し不気味さを覚えてしまう。
「まこと、アンカイラの月は美しい」
「…?!」
突然背後から聞こえた声に驚いて、反射的に振り向く。
メオの背後…つまりは部屋の中…に見知らぬ者がいた。
暗くて顔までははっきりとわからなかったが、それは立っていたのではなく……浮いている。
赤の月明かりにうっすらと映し出されたその姿は、異国風の白いマントとターバンに包まれていた。
「誰だ…?」
メオは声が聞こえるまで、それが背後にいることに全く気付かなかった。今、信じられないほどの存在感をこちらにあたえているというのに。
まるで――
(そこにいきなり現れたみたいだ)
「君がそれを知ったところで、何の意味もない」
メオの問いにそう答えて、彼は肩をすくめる。
「君は何も知らないし、教えたところで理解できないだろうから」
そのまるで何もかも知っているかのような言い振りとうっすら笑った顔に、メオはただ不気味さを覚えた。突然現れて、この余裕な態度はいったいなんだというのだろう。物盗りとも思えない。
「……じゃあ、名無しのゴンベサン。人の部屋に入り込んできて一体何の用なのかな」
口調は軽かったが、メオは警戒は解かず、やや引きつった顔をしてその侵入者を見据える。腰に手をやりかけたが、得物はベットの上だったことに気づき心の中で舌打ちをした。
そんなメオの様子を面白そうに眺めながら、彼は答えた。
「用? ……そうだね……見に来ただけ」
何を、と尋ねようとするメオを、彼は見つめたまま手で制す。
「言ったでしょう。教えたって分からないだろうって」
余裕たっぷりの謎めいた物言い。実際、何がなんだかさっぱりわからない。
彼は目を細めてメオを見つめたまま、言った。
「なるほど……君は型があったというわけか」
「型? 一体何の話をしているんだ?」
「そのうちわかるさ。否が応にも」
問いかけくるメオをやはり面白そうに見て彼は笑みを深める。
そして、身に纏った白い――今は暗さで濃い灰色がかった――マントをふわりと翻した。
「それより、身の安全を心配した方が良い。
来たよ……君を屠る者が」
彼が言い終わらぬうちに、背後に悪寒がするほど冷たい気配を感じたメオは、とっさに身をかがめる。
何かが真上を通り過ぎていき、部屋の向こうで硬い音を立てた。
メオはその音を聞いた瞬間それが何であったかを認識し、すぐに体勢を立て直して部屋に入り、愛銃を手に持つ。それから付けていた部品を無造作に外した。これを付けた状態は接近戦には向かないし、第一に威力が大きすぎて街中では使えない。
彼は窓側の壁に張り付き、窓の外を慎重に確認しようとした。
顔を出した瞬間、再び空を切って何かが、今度はメオの鼻先を掠めていった。
床に刺さったそれは、矢。
次々とそれは打ち込まれていき、やがて止んだ。
しかしメオはそれで気を緩めなかった。今度は安全装置を外し、窓際にしゃがみこんで銃を構える。
メオには何が起きたのかはよくわからなかったが、矢を放っている誰かが、自分の命を狙っているらしいことはわかった。
(命を狙われる覚えはないんだけど)
ふと部屋を見回すと、先程までいた「彼」の姿はなかった。
どこに行ったのかと考える暇もなく、窓際の床から影が生えているのが目に入った。