忌わしい瞳、冷たい朝日
荒地。
干からびた草木と、何の役にも立ちそうに無い岩だけがそこに存在していた。
生物はわずか。昼も夜も、風だけが吹き、ただ静かに時がすぎていく場所。
ある日、その静寂を破るような悲鳴が、荒地に響き渡った。
「やめて!やめてよ!!」
子供の声だった。その子供は、背の高い老人に押さえつけられ、泣きながら必死に拒絶の声を上げている。
その子供は、少年だった。
「じっとしていなさい」
声をあげ、もがく少年を片手で押さえながら、老人はもう片方の手で短剣を抜いた。
少年はその刃物が太陽の光に反射してぎらりと光ったのを見て、恐怖が高まり更に暴れた。
「イヤだ! どうして?! 僕、何も悪いことしてないよ!」
頭を振ろうとした少年だったが、今度は老人に頭を押さえつけられた。
自分の頭に張り付いた老人のしわだらけの手を外そうと、少年は両手でそれに立ち向かったが、敵わなかった。
「お前のその目は、いずれ世に不幸をもたらす」
少年の左眼に刃をあてがいながら、老人は無感動にしわがれた声で言った。
刃をあてがわれたその瞳は、色が無かった。
彼は恐慌状態のまま暴れた。
老人は、その皺と血管が見える細い腕で、がっしりと少年の頭をつかみ、彼の抵抗にも微動だにしない。無駄な抵抗であった。
「その前に、儂が潰してやるのだ」
「……ころさないで……!」
「殺しはしない」
老人は小さな掛け声と共に少年の左眼を突き刺す。
大きな大きな悲鳴が荒地に響き、風にのる。
「ああ、あ、ああああああ……」
老人は短剣を少年の眼から引き抜き、彼を解放した。
少年は、かすれたうめき声をあげながら崩れ落ちる。
ポタリ、ポタリと血が荒地の地面に落ちた。
眼が熱い。やけるように『熱い』。
少年は潰された目の辺りを両手で覆う。ぬっとりとした感触と暖かさが手を襲い、彼は気を失いそうになった。
そこに、潰されなかった瞳に老人以外の人影が映る。
彼と同じぐらいの年頃の、子供。金色の髪のその子供は、老人の後ろで彼を見つめて口で笑みの形を作っていた。
「よく、気を失わなんだな……ルビニ」
遠くの方で老人の声がした。
「何故、元に戻っている?」
その翌日。
老人に眼帯を外された少年の眼は、すっかり元通りになっていた。何処をどう見ても、傷一つ無かった。
老人、そして彼も驚くしかなかった。潰されて、半分になったはずの視界。それが広くなっている。
「………」
だが、少年は喜べなかった。
「化け物」
金髪の子供がそうつぶやいた。少年には訳がわからない。ただ、幼い頭でも、これから起きそうな事はなんとなく分かっていた。
そのことが少年に再び恐怖を抱かせていた。次第に震えが身体を支配していく。
金髪の子供のことなど、頭に無かった。
「こいつは、化け物なんだ。殺しちゃえばいい」
「お前は黙っていろ、レイトル」
クスクスと笑うその子供を老人は静かに黙らせた。
「殺してはならぬ」
老人は苦悩した風に言った。言葉を発しつつ、そこには苦味があった。「本当は殺したい」とでも言うかのように。
「……潰しても元に戻るのなら……また潰すまで」
そうつぶやいて、老人は再び短剣を取り出した。昨日と違い、刃は鈍く光っていた。
「いや、いやだ……やめて……!!」
少年はへたり込んで、頭を抱えてかすれた声で請うように言ったが、それが聞き入れられることは無かった。
悲鳴がまた、荒地に響き渡った。
そして、次第に静寂がその地を包む。
……悪夢が、息を吹き返した。
*
ドレスト大陸の、遥か彼方。
小さな部族の、小さな村の小さな建物の中。小さく、簡素な部屋。
毎日、数え切れぬほどの生物が死んでゆく中で、一人の老人の生がそこで終わろうとしていた。
その老人は横たわるベットの中で、大きく呼吸をした。そして、枕もとに立っていた少年に視線を向ける。
立て付けの悪い窓が風でカタカタと鳴る。その部屋は、老人が感じているよりずっと寒かった。
「……っ」
少年は顔をゆがめ、老人の死の影が色濃い顔を見つめた。
「……儂は、もうすぐ死ぬ」
かすれて弱々しいその声に少年は何度も首を振った。
目には、涙が今にも零れ落ちてしまいそうなほどあふれていた。少年はぎゅっと目を閉じ、大粒の涙を己の手の甲に落とした。
少年は老人の皺だらけの少し暖かい手をとり、やがて小さくつぶやく。
「……死んじゃうの……リエル…?」
老人は小さく頷いた。視線はもう少年にではなく、天井に向けられている。
「良いか……これからお前は一人になる……。儂、が……教えてきたことを忘れず……生きよ」
荒い呼吸の中で老人は言った。少年はまた激しく首を振った。自然と、つかんだ手に力を込める。
「生きろって……! 僕―—どうしたらいいかわからない! 教えてよ、リエル!」
少年の叫びを聞いて、老人は目を閉じ薄く笑った。
「お前のしたいように生きればよい…レイトル」
「!!」
そう呼ばれて、少年は顔色を一変させた。涙で上気していた顔が一気に青白くなる。
次の瞬間には老人の手を払いのけ、ベットから後ずさった。
「違うよ……! 僕、レイトルなんかじゃない!」
少年が叫んでも、老人は動じることは無かった。ぜぇぜぇと呼吸をしながら、老人は静かに言い放つ。
「ならば―—お前は誰……だというのだ」
少年は答えられなかった。口を真一文字に閉じ、俯く。老人はそれを、彼がそれを認めたものとみなして続ける。
「儂はあの目をつぶせな……あの目が、世に破戒の……日が……」
老人の途切れ途切れの言葉を聞くことなく、少年は頭を抱えた。そして耳を塞いだ。
「……もはや、逃れられまいな……」
「……リエル?」
少年がいぶかしんで顔を上げたとき、老人は大きく大きく息を吐いて、小さくつぶやいた。
「これは……永遠にまわるかたち……」
翌朝、風が身に染み渡るほど冷たい、静かな朝。
朝もやも晴れぬうちに、黒い葬送行進が黒い棺と赤い十字架を掲げ、小さな村の中に続いていた。
それらが通りすぎていく家々の玄関先にも、死者を悼む赤い十字架が掲げられている。
向かう先は、墓地。
明らかにただ通りがかった旅人に対するそれではなく、黒い装束に身を包んだ者たちが数多くそれに参列した。
顔は皆隠しているため、分からない。だが、すすり泣くような、呻くような、呟くような、ささやくような祈りの声が静かに続いている。それは重なり合い、言葉の意味をなしているか怪しいほどの音であったが、彼らにとっては死者を悼む音だった。
その中に、老人を看取った少年らしき姿は無かった。村の誰かが彼を探そうとしたが、見つからなかった。
少年は葬送行進から離れた、村の一番高い所……誰かの家の屋根に立っていた。
上から見たその様子は、なんとも不気味で、恐ろしささえ感じる。少年は涙の後を残した顔でぶるっと震えた。
……もう一度、行進の中心にある黒い棺をじっと見つめる。
棺で眠る老人に小さく別れの言葉をつぶやいて、屋根から軽々と飛び降りた。
降り立った場所には、少年の身体より少し小さめの荷物。それを抱えて、村とは反対方向に歩き出す。
あの家を貸してくれたおばさんが、老人の最期を看取ったあと少年に「ここに住めばいい」と言った。「大人になるまで面倒をみてやる」とまで言ってくれた。
少年にとってその言葉ほどありがたいと思ったことは無かった。だが、今、少年はその彼女に黙って村を出ようとしている。
この場所には、居られない。居たくない。
本人にもよく分からない、そういった衝動が、今彼をあてもなき流浪の旅の道へと導いていった。
―—そう、終わらない旅への。
昇り始めた冷たい朝日の光が、より空気を冷たく照らし、少年の影を伸ばしていた。