その⑫ 怪物
人浪は大地を揺るがすほどの咆哮を浴びせ、同時に〝Z〟に折れ曲がった足を力強く前に出し、両手に備えた長く鋭い爪を構えた。
森がおびえるようにざわざわと騒いだ。
「うそ……でしょ?」
ミコは座り込んで、呆然と人浪を見つめた。巨人のような体躯に、狼の凶暴さと強靭さを兼ね備えた野獣。本や口頭でしか知らなかったそれが、今まちがいなく自分の前に存在していて、あろうことか自らを殺めようとしている。
力の抜けたミコを担ぎ上げ、ポセットは大きく息を吸った。足に力の限りを込め、女の子たちの柵を跳ね越えて、近くの木へと弾丸が弾けるように走り行った。
急な行動に興奮と衝動に駆られた人浪は、ポセットを追って疾風のように走り出した。僅か四、五メートルという距離を進むだけのポセットに対して、その三倍はあろうかという距離を、人狼は風のように近づいてくる。
「急いで、ポセット!」
「しっかりつかまって!」
ポセットは地面に穴が空いてしまうのではないかと思うくらい強く大地を蹴り、木の太い幹をもう一度蹴り、幾重にも重なる丈夫な枝々にしがみついた。そのまま、少しでも高くへ木を登っていく。
「すっごいジャンプ……」
ミコはまるで翼の生えた天馬に乗っていたかのような感覚を味わい、ちょっともう一回やって欲しいくらい感動していた。でも、下を見たらその気も一瞬で失せた。
木の下では、人狼が悔しそうに吠え、その爪で木を倒そうと乱暴に爪を振るっていた。大木もその猛攻に耐えかね、ぐらぐら大きく揺れる。今にも切り倒されてしまいそうだ。
「ちょっと、どうするのよ! このままじゃこの木が倒されちゃうわよ!」
「大丈夫ですよ。ちょっと下りてもらえますか」
ポセットはミコを枝に座らせ、ナットをその膝の上に下ろした。
「ど、どうするのよ」
「ナット、ミコさんを頼むよ。うまく逃げてね。このまま真っ直ぐに行けば森の出口があるから。あと、この鞄の中に消毒薬が入ってる。これでなんとか怪我を手当てするんだ。……頼んだよ」
ポセットは森の出口のある方向を指さして、ナットの頭を軽く撫でた。
「うん、わかった」
「ちょっと、どうする気なの?」
ポセットは答えることなく、木の幹を強く蹴って、人狼の頭上を遙か飛び越えて着地した。
人狼は木を襲うのを止め、ポセットに向きなおった。
「まさか囮になる気なの?」
ポセットがトンファーを抜くが早いか、人狼はあっという間にポセットに駆け寄り、その五本の爪を大きく横へ薙いだ。ポセットの小さな体が、まるでかんしゃくを起こした子供が人形を投げ捨てたように、いとも簡単にすっとんだ。
「ポセットくん!」
「ポセット!」
ポセットは両手をついて何とか立ち上がり、ふらふらとトンファーを構えた。紫の火が激しく空気を打ち、乾いた破裂音が響く。
恐れも手加減もない野性の一撃をトンファーが捉え、ポセットの足が地面を削りながら少し後退した。スタンガンを当てる暇もなく次の一撃。肘まで覆った黒のトンファーが衝撃を流し、爪をそらし、体勢を崩す。
しかし、バネのような速さで次々に容赦のない攻撃が襲ってくる。
ポセットの回避行動はすさまじい集中力と機敏な動きでしばらく続いた。しかし、大きく力いっぱい振られた人狼の右手が、ついにポセットの体を宙へと放り上げた。
「あぁ!」
落ちてくる少年にとどめを刺そうと待ちかまえる人狼を、回転する二本のトンファーが襲った。ひるんだ隙にポセットは体勢を立て直して着地、すぐさま距離をとった。
「すごい! 空中でトンファーを投げたのね!」
「でも間違って二本とも投げちゃってるよ。手が滑ったのかな……」
「そんな。ここまであの怪物の攻撃をかわし続けて、おまけに空中でトンファーまで投げて一矢報いたのよ? そんなドジするわけないわ!」
ポセットは、怒りのあまり天を仰いで叫ぶ人狼の足下に目をやって、二本の愛用武器を見つめた。
「手が滑った……。もう武器がない……」
やっぱり手が滑ってた。
「どうしよう……」
続きます。