その⑪ 一難去って
何もかも見えなくなった。真っ暗。音もない、風もない、光もない世界が広がって、何かが体を離れていくような気がした。
しかし。
僅かに開いた目の前に竜巻がおきたように、狼も木々も空の月も消え失せたかと思うと、次は時間が止まってしまったように目の前がピタリとスローに見えた。
「あれ……?」
不思議ではあったが、不自然には感じなかったその僅かな時間。今度は目の前が、大きな一枚の絵のように見えた。外から、それを見ていた。
それはとても不思議な絵だった。空を何匹もの狼が舞い、砂埃が長く尾を引いて、目の前にはこちらに背を向けた少年が、痛手を負った黒猫を肩に乗せ、紫の光と砂利を散らせながら立っていた。
やがて絵は崩れ、音と風が帰ってきた。
「ポセットくん……」
ミコの口が勝手に動いた。
突然の乱入に怒りと興奮が限界に達した狼たちが、怒濤の大波となってポセットに襲いかかる。
「危な……――」
瞬間、見えたのは円。紫の閃光の軌跡が宙に描かれる。そこに舞い上がる黄土色が加わって、月の光が加わって。星の色も、深い森の緑も、全て混ざり合って、嵐を思わせるグラデーションを作り出した。
「――い」
言い終わる前に片付いていた。
泡を吹き、倒れ込む狼たち。残りと、早く気がついた狼たちは怯えて逃げていった。静かになった後、周りを見渡してから、彼はミコを振り返った。
「――大丈夫でしたか? 遅れてすいませんでした」
ミコの目から、水をいっぱいに溜めたコップを倒したように涙が流れ落ちた。あごを伝って、ベージュの服を濃く染める。
「だ、大丈夫ですか? あ、怪我してるじゃないですか! 早く森を抜けましょう、出口を見つけましたから」
ポセットは鞄から消毒液と包帯を取り出して、ミコの肩を手当てした。巻いた包帯にはすぐに赤い点ができて、だんだん大きくなった。
「急ぎましょう、立てますか?」
「ポセットぉ、オイラも手当てしてよぉ……」
「待ってな、今消毒液を……。骨とか折れてないか?」
「たぶん、ない」
ぼろぼろの猫一匹と女性一人。それに対して、狼を倒してのけた少年はかすり傷一つ無い。
ミコは肩を預け、一緒にのそのそと歩き始めた。
「あなた、どうなってるの? すごく強いのね……」
ミコの真面目な口調に、ポセットも正直に答える。
「普通の人間じゃ……ありませんから」
ポセットの顔に笑みが浮かんだ。それは今にも消えそうなほど儚く、切ない笑顔だった。
「そう……なの……」
一歩一歩ゆっくりと進んでいく。すると目の前に、女の子がひょこっと現れた。
「あ……」
「ポセット! この子がミコさんをこんな目に遭わせたんだ! 狼たちのグルだよ!」
ナットが吠えた。ポセットはなだめるようにナットを軽くなでると、女の子を真っ直ぐ見つめた。
「悪いけど、僕の勝ちだ。まだやるかい?」
女の子は睨むようにポセットを見ると、両手を大きく広げて、通せんぼした。
「無駄だ。君たちの事情は大体飲み込めた。でも、僕たちは簡単にやられるつもりはないよ。君たちがどんなに抵抗しても、僕たちは生きてこの森を出て行く」
それでも女の子は動じることなく通せんぼを続ける。
「ごめんね」
横を通り過ぎようとしたその時、白い手がポセットの胸を強く押した。
「な、なによこれ!」
ミコがうろたえた。
目の前に現れたのは、さっきポセットが置いてきた女の子達だった。いや、もっと増えているかもしれない。大勢の同じ顔をした女の子達が両手を大きく広げて二人と一匹を取り囲む。
「一体、どうなってるのよ!」
「うわわ、双子だったんだ! いや、えっと……、たくさんいすぎて何子かわからない!」
ミコとナットが混乱する中、ポセットが冷静に言い放った。
「通さないつもりなら、君たちを焼き払ってでも出て行く」
そして空いている左手をトンファーに伸ばし、威嚇でスタンガンを何度か鳴らした。
緊張と胸騒ぎで汗ばんだミコの首筋を、風だけが緩やかに吹き抜けていった。
女の子達は表情一つ変えることなく、置物のように通せんぼを続ける。しびれを切らしたポセットが、トンファーを握りなおした。
――グオォォォォォォッ!
何よりも早く反応したのはナット。耳が雄叫びの方向をとらえ、髭が風を読み、鼻が臭いを探る。ポセットは凍り付いたような険しい表情でナットと同じ方向を見た。ミコは雷でもなったのかと不安げにキョロキョロ辺りを見回す。
「ポセット、大変だ……。もうそこまで来てる――」
「何、何が来てるの? まさかまた狼……?」
「狼だったら、どれだけ良かったことか……。急ぎましょう!」
「待って! この子達はどうするの?」
「この子達は大丈夫です! それより僕らが危ない!」
「ダメよ! また狼が来るんでしょう? この子達も連れて行かないと!」
ミコはポセットの背から無理に降りて、肩をかばいながら一番近くにいた女の子の手をつかんだ。
「ダメだ、ミコさん!」
ポセットがその手を叩き下ろし、すばやく女の子から離れた。肩のナットが言った。
「さっきあの子に木から落とされたじゃないか! あの子たちは狼とグルなんだよ!」
「そんなこと分からないわ! さっきだって、たまたまかもしれないじゃない!」
「じゃあなんで今オイラたちを通せんぼするんだよ!」
「そんなの知らないわよ! とにかく、見捨てるなんてできないわ! 食べられちゃうかもしれないじゃない!」
「静かに!」
ポセットの声に、二人の声はおろか大きな森までが、しんと静まったように思えた。ナットの耳が的確に反応し、同時に毛がハリネズミのように逆立った。
「ダメだ……、もう、間に合わないよ」
その僅か数秒後、二メートルを超えんばかりの獰猛な獣が草木を掻き分けて現れた。
続きます。