婚約破棄ですね? ありがとうございます。王太子妃の仕事も、今日で全部お返しします
「アリアナ。君との婚約を破棄する」
王立学院の卒業記念舞踏会。
大勢の貴族が見守る中、第一王子レオナード殿下は、私にそう告げた。
隣に立っているのは、男爵令嬢のリリア。
彼女は潤んだ瞳で私を見上げている。
「僕は真実の愛を見つけた。これからはリリアを妻に迎えたい」
広間がざわめいた。
当然だ。
私は公爵令嬢。
殿下とは十歳の頃から婚約していた。
そして今夜は、卒業と同時に正式な婚姻の日取りを発表する予定だった。
それを、この場で破棄する。
普通なら、私は泣くべきなのだろう。
怒るべきなのだろう。
あるいはリリアに掴みかかってもいい。
けれど。
私は思わず、笑ってしまった。
「本当ですか?」
「……ああ」
「婚約を、破棄してくださるのですか?」
「そうだ」
「まあ」
胸の前で手を合わせる。
「ありがとうございます」
殿下の顔が固まった。
「……は?」
「ですから、ありがとうございます」
「な、何を言っている?」
「婚約を破棄してくださるのでしょう?」
「そうだが……」
「では、今日から私は好きにしていいのですね?」
「…………」
殿下が黙った。
私は笑顔のまま続ける。
「それなら、ぜひお願いいたします」
広間が静まり返った。
リリアが目を丸くする。
「え……?」
「リリア様。殿下とのご婚約、おめでとうございます」
私は優雅に礼をした。
「どうぞ、お幸せに」
そして私は、ようやく肩の荷が下りたような気分で微笑んだ。
「これで毎朝五時に起きなくて済みます」
「…………」
「毎日六時間の王妃教育を受けなくてもいい」
「…………」
「王家の財務報告を三日以内にまとめる必要もない」
「…………」
「週に三回、殿下の公務予定を確認する必要もない」
リリアの顔から、少しずつ血の気が引いていった。
私は首を傾げる。
急に体調でも悪くなったのかしら。
「本当にありがとうございます」
「ちょ、ちょっと待て」
「はい?」
「君は……何を言っている?」
「何を、と申されましても」
私は不思議そうに答えた。
「婚約を破棄してくださったのでしょう?」
「そうだ」
「なら、私はもう王太子妃候補ではありません」
「…………」
「つまり、王太子妃になるために必要だった仕事も、しなくていい」
「…………」
「とても助かります」
リリアが殿下の袖を掴んだ。
「レオナード様……?」
殿下は答えなかった。
私は最後に一礼する。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
「待て!」
背中を向けたところで呼び止められた。
振り返る。
「何でしょう?」
「王妃教育は……その……」
「はい」
「途中まで受けていたのだから、卒業まで続けてもらえないか?」
私は首を傾げた。
「なぜですか?」
「それは……」
「もう私は王太子妃になることはないのですよね?」
「そうだ」
「では必要ありませんよね」
「いや、しかし……」
「殿下」
私はにっこり笑った。
「ご自分でお決めになったことです」
その瞬間。
殿下は何も言えなくなった。
私は今度こそ会場を出た。
◇
「お嬢様、本当に婚約を破棄されてしまいましたね」
馬車の中。
向かいに座った侍女のミーナが、心配そうに私を見る。
「そうね」
「悲しくはないのですか?」
「まったく」
即答すると、ミーナは目を丸くした。
「本当に?」
「ええ」
窓の外を眺める。
王都の明かりが流れていく。
私は十歳の頃から、王太子妃になるために育てられてきた。
朝は礼儀作法。
昼は政治。
午後は経済。
夜は外国語。
休みの日には領地経営。
王妃になるのだから当然だと思っていた。
殿下が王になるなら、私は王妃になる。
そういう人生なのだと思っていた。
けれど。
「婚約がなくなったのなら……」
私は小さく呟く。
「明日から朝少し寝坊してもいいのよね?」
「……はい」
「好きな本を読んでも?」
「はい」
「王都を出て領地へ好きに行っても?」
「……はい」
「研究所を作っても?」
「はい?」
ミーナが固まる。
私は笑った。
「ずっとやりたかったのよ」
私は魔導具が好きだった。
特に水を汲み上げる魔導ポンプ。
領地では毎年、井戸の汲み上げに多くの人手が必要になる。
私は昔から、魔力を利用して自動で水を運ぶ装置を作りたいと思っていた。
でも王太子妃になるなら、そんなことをしている暇はない。
そう言われてきた。
だから諦めていた。
「婚約破棄って、素晴らしいわね」
「お嬢様、言い方が怖いです」
私は笑った。
その夜。
公爵家に帰ると、父が待っていた。
「アリアナ」
「お父様」
「……本当に婚約を破棄されたのか?」
「はい」
父はしばらく黙った。
そして。
「よし」
「え?」
「明日から領地へ戻りなさい」
「いいのですか?」
「むしろ、なぜ今まで王都にいた?」
「王太子妃教育の引き継ぎなどで...」
「それは王宮が考えることだろう?」
言われてみると確かにそんな気がする。
何故か必死に呼び止められて、せめて引き継ぎだけでも、と先生方に言われたから残っていたけど、それはあちらのお仕事ではないか。
うん。
絶対私の仕事ではないわ。
......一応今まで勉強してきて、ポイントをまとめた物なんかは残してきたし、もう十分でしょう。
少し考えて、父の言葉に返事をする。
「はい」
「なら好きにしろ」
父は少し笑った。
「お前が十歳の頃から欲しがっていた魔導工房も作ってやる」
「本当ですか?」
「婚約者がいなくなったくらいで人生が終わるわけではない」
もちろん、淑女教育は続けてもらうがな、と言いながら、父は私の頭を撫でた。
「むしろ始まったんじゃないか?」
私は、その言葉を聞いて。
初めて実感した。
私は自由になったのだ。
◇
三か月後。
私の領地には、小さな研究工房が建っていた。
最初に作ったのは魔導ポンプ。
失敗した。
二号機も失敗。
三号機は爆発した。
「お嬢様! また爆発しました!」
「大丈夫。想定内よ」
「絶対に嘘です!」
四号機。
成功。
井戸から水が自動で汲み上げられ、畑へ流れていく。
農民たちは目を丸くした。
「これなら水汲みの人手が半分で済むぞ!」
「畑も広げられる!」
「お嬢様、ありがとうございます!」
私は嬉しくなった。
王太子妃教育では、一度も聞かなかった言葉だった。
ありがとう。
それだけで、十分だった。
その後も私は研究を続けた。
水車を改良した。
農具を改良した。
保存用の魔導冷蔵箱を作った。
領地の税収は増え、農民の負担は減った。
そして一年後。
私は王都から届いた手紙を見て、首を傾げた。
差出人は、レオナード殿下。
『一度、話がしたい』
それだけだった。
「……何の話でしょう?」
「さあ」
父が手紙を覗き込む。
「行ってみるか?」
「嫌です」
即答した。
「そうか」
父も即答だった。
「では断っておこう」
「お願いします」
ところが翌日。
今度は王宮から使者が来た。
「アリアナ様。殿下が直接お話をしたいと」
「お断りします」
「ですが……」
「婚約は破棄されました」
「……はい」
「なら、私が王宮へ行く理由はありません」
使者は困った顔をした。
「しかし殿下は、王太子妃候補として受けていた教育の続きを……」
私は笑った。
「まだ言っているのですか?」
「え?」
「もう私は王太子妃ではありません」
「…………」
「ですから、王太子妃教育を受ける必要もありません」
使者は何も言えなくなった。
そのままとぼとぼと帰っていった。
その日の夕方。
また手紙が届いた。
今度は殿下本人からだった。
『頼む。少しだけ話を聞いてほしい』
私はそれを読んで。
「仕方ないわね」
父が驚く。
「会うのか?」
「いいえ」
「…………」
「手紙なら読みます」
私は便箋を開いた。
そこには、王都の財政が悪化していること。
新しい側近たちが政務を処理できていないこと。
リリアが想像していた王太子妃の仕事をこなせないこと。
そして。
『君がいなくなって初めて、君が何をしていたのか分かった』
と書かれていた。
私は少しだけ悲しくなった。
遅い。
本当に、遅すぎる。
私は返信を書いた。
『そうですか。それは大変ですね』
それだけ。
◇
さらに半年が経った。
私は新しい魔導ポンプの開発に成功した。
領地では農業が大きく発展し、周辺の領主からも注文が殺到した。
そんなある日。
工房の前に、一人の青年が立っていた。
「久しぶりだな、アリアナ」
「……アルベルト殿下?」
第一王子だった。
レオナード殿下の兄。
私は慌てて礼をする。
「お久しぶりです」
「やめてくれ。今は公務で来ただけだ」
「公務?」
「君の魔導ポンプを王国全土に導入したい」
「まあ」
私は笑った。
「それなら喜んで」
「話が早いな」
「商売ですから」
アルベルト殿下は苦笑した。
そして少しだけ黙る。
「……弟が君に復縁を申し込むらしい」
「そうですか」
「驚かないのか?」
「もう慣れました」
「そうか」
アルベルト殿下は空を見上げた。
「君は、弟と婚約していた頃より楽しそうだな」
「はい」
「……それならよかった」
彼はそれだけ言った。
帰ろうとする殿下を、私は呼び止めた。
「あの」
「なんだ?」
「一つお願いがあります」
「何でも言ってくれ」
「魔導研究所を王都にも作りたいのです。勿論、私も研究員として参加します」
「……いいのか?」
「はい」
「弟のいる王宮にも近くなるぞ?」
「構いません」
私は笑った。
「もう、私の人生を誰かに決めてもらうつもりはありませんから」
◇
数日後。
レオナード殿下本人が領地を訪れた。
一年半ぶりだった。
「アリアナ」
「お久しぶりです」
「……相変わらずだな」
「何がですか?」
「僕を見ても、何とも思わないのか?」
「どういう意味でしょう?」
殿下は苦笑した。
「君は、本当に強くなった」
「元からですよ」
「……そうだったな」
少し沈黙が落ちた。
そして、彼が口を開く。
「もう一度、婚約してほしい」
私は黙って殿下を見た。
「今度は、君を大切にする」
「そうですか」
「君が望むことは何でも認める」
「研究も?」
「ああ」
「領地経営も?」
「ああ」
「王太子妃にならなくても?」
殿下は少しだけ困った顔をした。
「……それは」
私は笑った。
「やっぱり、お断りします」
「……そうか」
「はい」
「理由を聞いても?」
私は工房を見る。
そこには今日も、多くの人が働いている。
魔導具を作る職人。
研究する魔術師。
農作物を運ぶ農民。
笑い声が聞こえる。
「今の人生が好きだからです」
殿下は何も言わなかった。
「昔は、誰かの妻になることが私の人生だと思っていました」
私は続ける。
「でも違った」
研究することも。
領地を豊かにすることも。
誰かの役に立つことも。
朝寝坊することも。
好きな本を読むことも。
全部、私の人生だった。
「だから、ごめんなさい」
「……いや」
殿下は微笑んだ。
「君らしい答えだ」
そう言って背を向ける。
私は小さく礼をした。
「殿下」
「なんだ?」
「婚約を破棄してくださって、ありがとうございました」
殿下は振り返った。
そして苦笑した。
「……今度は、心からそう思えるよ」
馬車が去っていく。
私はその背中を見送り。
工房へ戻った。
すると。
「お嬢様!」
ミーナが走ってくる。
「大変です!」
「どうしたの?」
「新しい注文が三十件も来ています!」
「まあ!」
私は笑った。
「今日は徹夜ね」
「お嬢様、王妃教育より大変じゃないですか?」
「え?」
私は少し考える。
そして笑った。
「でも、自分で選んだ仕事なら楽しいでしょう?」
ミーナも笑った。
「はい」
私は工房の扉を開ける。
そこには、私が自分で選んだ人生が待っていた。
婚約破棄の日。
私は自由になった。
そして。
自由になったその日から。
私はようやく、自分の人生を始めたのだった。
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