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婚約破棄ですね? ありがとうございます。王太子妃の仕事も、今日で全部お返しします

作者: 黒色鮎
掲載日:2026/09/15


「アリアナ。君との婚約を破棄する」


 王立学院の卒業記念舞踏会。

 大勢の貴族が見守る中、第一王子レオナード殿下は、私にそう告げた。


 隣に立っているのは、男爵令嬢のリリア。

 彼女は潤んだ瞳で私を見上げている。


「僕は真実の愛を見つけた。これからはリリアを妻に迎えたい」


 広間がざわめいた。


 当然だ。

 私は公爵令嬢。

 殿下とは十歳の頃から婚約していた。


 そして今夜は、卒業と同時に正式な婚姻の日取りを発表する予定だった。


 それを、この場で破棄する。


 普通なら、私は泣くべきなのだろう。

 怒るべきなのだろう。

 あるいはリリアに掴みかかってもいい。


 けれど。

 私は思わず、笑ってしまった。


「本当ですか?」

「……ああ」

「婚約を、破棄してくださるのですか?」

「そうだ」

「まあ」


 胸の前で手を合わせる。


「ありがとうございます」


 殿下の顔が固まった。


「……は?」

「ですから、ありがとうございます」

「な、何を言っている?」

「婚約を破棄してくださるのでしょう?」

「そうだが……」

「では、今日から私は好きにしていいのですね?」

「…………」


 殿下が黙った。

 私は笑顔のまま続ける。


「それなら、ぜひお願いいたします」


 広間が静まり返った。

 リリアが目を丸くする。


「え……?」

「リリア様。殿下とのご婚約、おめでとうございます」


 私は優雅に礼をした。


「どうぞ、お幸せに」


 そして私は、ようやく肩の荷が下りたような気分で微笑んだ。


「これで毎朝五時に起きなくて済みます」

「…………」

「毎日六時間の王妃教育を受けなくてもいい」

「…………」

「王家の財務報告を三日以内にまとめる必要もない」

「…………」

「週に三回、殿下の公務予定を確認する必要もない」


 リリアの顔から、少しずつ血の気が引いていった。

 私は首を傾げる。

 急に体調でも悪くなったのかしら。


「本当にありがとうございます」

「ちょ、ちょっと待て」

「はい?」

「君は……何を言っている?」

「何を、と申されましても」


 私は不思議そうに答えた。


「婚約を破棄してくださったのでしょう?」

「そうだ」

「なら、私はもう王太子妃候補ではありません」

「…………」

「つまり、王太子妃になるために必要だった仕事も、しなくていい」

「…………」

「とても助かります」


 リリアが殿下の袖を掴んだ。


「レオナード様……?」


 殿下は答えなかった。

 私は最後に一礼する。


「それでは、私はこれで失礼いたします」

「待て!」


 背中を向けたところで呼び止められた。


 振り返る。


「何でしょう?」

「王妃教育は……その……」

「はい」

「途中まで受けていたのだから、卒業まで続けてもらえないか?」


 私は首を傾げた。


「なぜですか?」

「それは……」

「もう私は王太子妃になることはないのですよね?」

「そうだ」

「では必要ありませんよね」

「いや、しかし……」


「殿下」


 私はにっこり笑った。


「ご自分でお決めになったことです」


 その瞬間。

 殿下は何も言えなくなった。


 私は今度こそ会場を出た。





 ◇


「お嬢様、本当に婚約を破棄されてしまいましたね」


 馬車の中。

 向かいに座った侍女のミーナが、心配そうに私を見る。


「そうね」

「悲しくはないのですか?」

「まったく」


 即答すると、ミーナは目を丸くした。


「本当に?」

「ええ」


 窓の外を眺める。

 王都の明かりが流れていく。




 私は十歳の頃から、王太子妃になるために育てられてきた。


 朝は礼儀作法。

 昼は政治。

 午後は経済。

 夜は外国語。

 休みの日には領地経営。


 王妃になるのだから当然だと思っていた。

 殿下が王になるなら、私は王妃になる。


 そういう人生なのだと思っていた。


 けれど。


「婚約がなくなったのなら……」


 私は小さく呟く。


「明日から朝少し寝坊してもいいのよね?」

「……はい」

「好きな本を読んでも?」

「はい」

「王都を出て領地へ好きに行っても?」

「……はい」


「研究所を作っても?」

「はい?」


 ミーナが固まる。

 私は笑った。


「ずっとやりたかったのよ」


 私は魔導具が好きだった。

 特に水を汲み上げる魔導ポンプ。


 領地では毎年、井戸の汲み上げに多くの人手が必要になる。

 私は昔から、魔力を利用して自動で水を運ぶ装置を作りたいと思っていた。

 でも王太子妃になるなら、そんなことをしている暇はない。


 そう言われてきた。

 だから諦めていた。


「婚約破棄って、素晴らしいわね」

「お嬢様、言い方が怖いです」


 私は笑った。


 その夜。

 公爵家に帰ると、父が待っていた。


「アリアナ」

「お父様」

「……本当に婚約を破棄されたのか?」

「はい」


 父はしばらく黙った。


 そして。


「よし」

「え?」

「明日から領地へ戻りなさい」

「いいのですか?」

「むしろ、なぜ今まで王都にいた?」

「王太子妃教育の引き継ぎなどで...」

「それは王宮が考えることだろう?」


 言われてみると確かにそんな気がする。

 何故か必死に呼び止められて、せめて引き継ぎだけでも、と先生方に言われたから残っていたけど、それはあちらのお仕事ではないか。


 うん。

 絶対私の仕事ではないわ。

 ......一応今まで勉強してきて、ポイントをまとめた物なんかは残してきたし、もう十分でしょう。


 少し考えて、父の言葉に返事をする。


「はい」

「なら好きにしろ」


 父は少し笑った。


「お前が十歳の頃から欲しがっていた魔導工房も作ってやる」

「本当ですか?」

「婚約者がいなくなったくらいで人生が終わるわけではない」


 もちろん、淑女教育は続けてもらうがな、と言いながら、父は私の頭を撫でた。


「むしろ始まったんじゃないか?」


 私は、その言葉を聞いて。

 初めて実感した。


 私は自由になったのだ。






 ◇


 三か月後。

 私の領地には、小さな研究工房が建っていた。


 最初に作ったのは魔導ポンプ。


 失敗した。


 二号機も失敗。

 三号機は爆発した。


「お嬢様! また爆発しました!」

「大丈夫。想定内よ」

「絶対に嘘です!」


 四号機。


 成功。


 井戸から水が自動で汲み上げられ、畑へ流れていく。

 農民たちは目を丸くした。


「これなら水汲みの人手が半分で済むぞ!」

「畑も広げられる!」

「お嬢様、ありがとうございます!」


 私は嬉しくなった。

 王太子妃教育では、一度も聞かなかった言葉だった。


 ありがとう。

 それだけで、十分だった。





 その後も私は研究を続けた。


 水車を改良した。

 農具を改良した。

 保存用の魔導冷蔵箱を作った。

 領地の税収は増え、農民の負担は減った。


 そして一年後。

 私は王都から届いた手紙を見て、首を傾げた。


 差出人は、レオナード殿下。


『一度、話がしたい』


 それだけだった。


「……何の話でしょう?」

「さあ」


 父が手紙を覗き込む。


「行ってみるか?」

「嫌です」


 即答した。


「そうか」


 父も即答だった。


「では断っておこう」

「お願いします」


 ところが翌日。

 今度は王宮から使者が来た。


「アリアナ様。殿下が直接お話をしたいと」

「お断りします」

「ですが……」

「婚約は破棄されました」

「……はい」

「なら、私が王宮へ行く理由はありません」


 使者は困った顔をした。


「しかし殿下は、王太子妃候補として受けていた教育の続きを……」


 私は笑った。


「まだ言っているのですか?」

「え?」

「もう私は王太子妃ではありません」

「…………」

「ですから、王太子妃教育を受ける必要もありません」


 使者は何も言えなくなった。

 そのままとぼとぼと帰っていった。




 その日の夕方。

 また手紙が届いた。

 今度は殿下本人からだった。


『頼む。少しだけ話を聞いてほしい』


 私はそれを読んで。


「仕方ないわね」


 父が驚く。


「会うのか?」

「いいえ」

「…………」

「手紙なら読みます」


 私は便箋を開いた。

 そこには、王都の財政が悪化していること。

 新しい側近たちが政務を処理できていないこと。

 リリアが想像していた王太子妃の仕事をこなせないこと。


 そして。


『君がいなくなって初めて、君が何をしていたのか分かった』


 と書かれていた。


 私は少しだけ悲しくなった。


 遅い。

 本当に、遅すぎる。


 私は返信を書いた。


『そうですか。それは大変ですね』


 それだけ。






 ◇


 さらに半年が経った。

 私は新しい魔導ポンプの開発に成功した。


 領地では農業が大きく発展し、周辺の領主からも注文が殺到した。


 そんなある日。

 工房の前に、一人の青年が立っていた。


「久しぶりだな、アリアナ」

「……アルベルト殿下?」


 第一王子だった。

 レオナード殿下の兄。

 私は慌てて礼をする。


「お久しぶりです」

「やめてくれ。今は公務で来ただけだ」

「公務?」

「君の魔導ポンプを王国全土に導入したい」

「まあ」


 私は笑った。


「それなら喜んで」

「話が早いな」

「商売ですから」


 アルベルト殿下は苦笑した。

 そして少しだけ黙る。


「……弟が君に復縁を申し込むらしい」

「そうですか」

「驚かないのか?」

「もう慣れました」

「そうか」


 アルベルト殿下は空を見上げた。


「君は、弟と婚約していた頃より楽しそうだな」

「はい」

「……それならよかった」


 彼はそれだけ言った。


 帰ろうとする殿下を、私は呼び止めた。


「あの」

「なんだ?」

「一つお願いがあります」

「何でも言ってくれ」

「魔導研究所を王都にも作りたいのです。勿論、私も研究員として参加します」

「……いいのか?」

「はい」

「弟のいる王宮にも近くなるぞ?」

「構いません」


 私は笑った。


「もう、私の人生を誰かに決めてもらうつもりはありませんから」






 ◇


 数日後。

 レオナード殿下本人が領地を訪れた。


 一年半ぶりだった。


「アリアナ」

「お久しぶりです」

「……相変わらずだな」

「何がですか?」

「僕を見ても、何とも思わないのか?」

「どういう意味でしょう?」


 殿下は苦笑した。


「君は、本当に強くなった」

「元からですよ」

「……そうだったな」


 少し沈黙が落ちた。

 そして、彼が口を開く。


「もう一度、婚約してほしい」


 私は黙って殿下を見た。


「今度は、君を大切にする」

「そうですか」

「君が望むことは何でも認める」

「研究も?」

「ああ」

「領地経営も?」

「ああ」

「王太子妃にならなくても?」


 殿下は少しだけ困った顔をした。


「……それは」


 私は笑った。


「やっぱり、お断りします」

「……そうか」

「はい」

「理由を聞いても?」


 私は工房を見る。


 そこには今日も、多くの人が働いている。

 魔導具を作る職人。

 研究する魔術師。

 農作物を運ぶ農民。


 笑い声が聞こえる。


「今の人生が好きだからです」


 殿下は何も言わなかった。


「昔は、誰かの妻になることが私の人生だと思っていました」


 私は続ける。


「でも違った」


 研究することも。

 領地を豊かにすることも。

 誰かの役に立つことも。

 朝寝坊することも。

 好きな本を読むことも。


 全部、私の人生だった。


「だから、ごめんなさい」

「……いや」


 殿下は微笑んだ。


「君らしい答えだ」


 そう言って背を向ける。


 私は小さく礼をした。


「殿下」

「なんだ?」

「婚約を破棄してくださって、ありがとうございました」


 殿下は振り返った。

 そして苦笑した。


「……今度は、心からそう思えるよ」


 馬車が去っていく。


 私はその背中を見送り。

 工房へ戻った。


 すると。


「お嬢様!」


 ミーナが走ってくる。


「大変です!」

「どうしたの?」

「新しい注文が三十件も来ています!」

「まあ!」


 私は笑った。


「今日は徹夜ね」

「お嬢様、王妃教育より大変じゃないですか?」

「え?」


 私は少し考える。

 そして笑った。


「でも、自分で選んだ仕事なら楽しいでしょう?」


 ミーナも笑った。


「はい」


 私は工房の扉を開ける。

 そこには、私が自分で選んだ人生が待っていた。


 婚約破棄の日。

 私は自由になった。


 そして。

 自由になったその日から。


 私はようやく、自分の人生を始めたのだった。

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