蝙蝠の男
「先生を御存じで、有難う御座います」
「そなた、我が近くに仕えてくれ」
「いえ、私のような新参が、いきなりお側近くというのは宜しくなかろうと思われます。まずは足軽から務めさせて頂きます」
さらに謙虚な言葉に左京之亮は物足らぬ様子であるが、満面朱を注いだようであった海老原は表情を和らげ始めている。
ここで小川が、その知恵を働かせた。
「これまで、どのような学問を積まれましたかな」
「とても人に誇れるような御座いませんが、史記や日本書紀、論語、墨子等は一通りは読ませて頂きました」
「それは、いい。東国の我ら、武にはひとかたの自信が有りますものの、書物は全く縁遠く御座います。是非とも、それを御教授下さいませ」
「はい。それは、私にとっても勉強になることです」
三人に向けて義長は深く頭を下げた。
栗林左京之亮は主君の岡見宗治へと直ぐに報告。
何しろ柳水軒白雲斎の教えを受けた者である。話はとんとんと進んで、講読は牛久城で行われた。
まずは史記である。
城主の岡見宗治も臨席するということで、広間には立錐の余地もない。
しかし、始まりは上手くいかなかった。何しろ書物を読むことはない者達、海老原などは最前列で居眠りばかりしている。
そこで義長は、三国志も入れることにした。
「蜀志の関羽は、あたかも怪力無双の海老原殿の様です」
すると海老原は、ぱちりと目を開く。
「知略に溢れる小川様はと言えば、諸葛孔明の公孫勝です。更には、器量人の岡見宗治の殿は蜀王です」
やがて座は少しずつ盛り上がってきた。そして講読は引きも切らぬ人気となり、牛久城だけではなく、支城の城でもでも行われるようになった。
足高は牛久沼を挟んで西の支城。多賀谷政常は狙いを此の城に変えつつある。
いずれ足高城を義長に任せようと、岡見宗治は考えていた。
と或る日のこと。義長は講読の面々の中の、一人の人物に注目した。これまでは見なかった顔である。それはいい。
学ぶ者は増えて新顔は次々と来る。ところが、その男。義長が人品骨相と仕草を観るにつけ不審である。これは何やら探りを入れに来たのだろうと観じた。
故に敢えて史記の『五帝本紀』。帝王がその位を世襲せずに人格者に譲った禅譲を復習し、更には墨子の非戦論を語った。
後になって分かることだが、この者は佐山久庵。元々は岡見の家臣であったが、今は医者になったと称している。しかし実のところは、多賀谷に内通している蝙蝠のような男。
柳水軒義長なる人物を見分して、それを多賀谷政常に報告するべく様子を探りに来ていたのだった。
戻って早速に報告する。
「あのような青二才では、今の世では生き残れませんな」
佐山は得意気である。
「夢のような事を語っても戦に負ければ首を刎ねられる。それが、今の現の世です」
と、多賀谷政常に義長の講読を語って聞かせた。
多賀谷は頷いて聞いている。
「ではまた、戦の準備であるかな」
しかし、義長は察知していた。
だろうと予知して、敢えて高い理想で佐山久庵を煙に巻いた。つまり油断させる為である。
安高城の近くには小貝川が流れる。下妻を根拠地とする多賀谷の下流に当たる。故に川の流れを利した舟で兵を運べる。その迅速には岡見軍は劣勢に立たされることが多かった。
多賀谷の下妻の方角からは、筑波颪と呼ばれる北西の風も吹く。それもまた舟の迅速となる。岡見の陸路の移動では、とても間に合わない。
風が吹くのを察知出来ればということになるが、それは人知の及ばぬはず。




