狐のユキ
払暁。
旅装束の千代松に白雲斎が餞する。
それは文字であった。柳水軒義長という命名。
美濃紙に流麗に認められていた。しばし見惚れる。これが我が名。やがて懐へと戴いて、深々と辞儀して歩き出すのであった。
中山道を東へ。
その健脚は通り掛かる者が振り返るほどであった。そして、迷うことなく女化が原へと辿り着く。
一度は焼き払われてしまったのだろう。呆れるほどに茫々としてしまった風景である。
しかし、道の名残りはあった。ハヤテが言っていた通りだ。
道はもう一つ通っていて、辻。
これも言っていた通りである。そして女化稲荷がある。
その辺りから緑の木々が残るのは、火を防いだ者があるのであろう。
歩み寄れば、狛犬ではない狐の阿吽。
義長は稲荷の拝殿に額づいた。更に歩めば社森であり、櫟などの樹木である。
森は台地へと連なり、そこからは切り払われて砦が聳えた。
砦は小さいながらも櫟などの堅牢な材質を用いたものと思われた。社を巻き添えにすると紙一重だが、進軍に対しては此処に備えを置いておかねばならないだろう。
やがて一匹の狐が現れた。
真っ白な狐であった。
ハヤテではないが、前足を揃えて御辞儀をした。
「若様」
「ユキと申します」
「君も若様と言うのかい……で、ハヤテはどこだい」
「父は先月、亡くなりました」
義長は狐の命は人よりも短いものであることを、今になって悟った。そして、あと半年と尾を垂れたのを思い返して言葉を失う。
「父が、くれぐれも若様によろしくと」
「すまなかったねえ」
義長はハヤテの面影を残すユキを見詰め、約束を深く念じるのであった。
翌日は砦へと向かう。
確かめれば女化に火を放ったのは、これよりは西方の下妻の多賀谷であった。
東国の勢力と言えば何より早雲以来の北条である。しかし隣国の今川、武田、更には上杉との軋轢がある。故に下総と常陸の境の此の辺りまでは余り進み出て来ない。
常陸は佐竹もあるが、こちらも伊達との闘争に忙しい。下総には千葉も名門だが、北条と佐竹に挟まれて、自国を守るのに精一杯。
故に、この辺りは勢力の隙間となって麻の如く豪族入り乱れているのだ。
女化が原に砦を築いたのは牛久城の岡見宗治。
それを護るのは家臣栗林左京之亮であった。
砦の佇まいを見るに、女化稲荷を火から防いだのは、その人で間違いがない。
「誰か」
砦から声が掛かる。
「柳水軒白雲斎の弟子義長と申す者に御座います」
隠す様なことは何もなかった。
門は義長を通すほどに開いたのである。
「御城主様に会いに参りました」
待たされたが、栗林左京之亮は現れた。
再度、名を尋ねられるので、義長は懐中より柳水軒義長の命名の一枚を出した。
「これが、そなたの名であるのか」
「はい」
柳水軒義長は竹中半兵衛の師であると言ってしまえば、話が早いのかも知れない。
しかし、義長はそうは考えていない。白雲斎の書も、仕官の為などではなく、ただ餞として貰い受けたのである。
だが、その筆跡に漂う気品は紛れもない。左馬之亮も感じ入って見詰めている。
「そんな紙きれ一枚が、何事か」
これは第一の家臣、海老原治郎。
他を圧するほどの巨漢である。
文字などには、まるで関心のない様子。
この様な人物は居るものだし、寧ろ清々しいとさえ義長は思う。
「男は、腕っぷしだ」
「はい」
その即答も海老原には気に入らなかった。
「なら、勝負だ」
「はい」
「木剣を取れ」
海老原はもう立ち上がっている。
「相撲で、勝負を決したいと思います」
海老原は呆気に取られた。
相撲は自分が最も得意とするものであった。暫くは、若く細身の身体の義長を見詰めた。
「相撲なら、幾度でも取り直せるという腹積もりでもいるのか」
「いえ、勝負は一度きりに御座います」
海老原の怒りは頂点だ。
この場で相撲を取ってしまう勢いだ。
義長は誘うように、すっと後ろに下がった。
「小癪な」
行司には老臣、小川雅之助。これもまた相撲好き、栗林家随一の智識人でもある。
海老原と義長。
見合う。
息合って立つ。
義長は横に飛んでいた。同時に海老原の向う脛を蹴り、且つ腕を手繰っている。
何とも驚くべき結果であった。巨漢の海老原が前のめりに倒れていたのである。
「蹴りが、相撲の技なのか」
海老原は立ち上がりなら、腹立ち紛れに言う。
であるが約束は守る。もう一度とは海老原は言いはしない。
「如何なれば、相撲に蹴りを用いたのか」
小川雅之介は尋ねる。
「野見宿禰と当麻蹴速が相撲の始まりと記紀に読みました。その相撲の結果は、宿禰が蹴り倒して勝ったとのこと」
義長は丁寧に答える。
「しかし私は、力などありませんから、横に躱してから蹴り、前に手繰ってみました」
海老原に向け頭を下げながら、付け加えた。
「実力で海老原殿に勝てるはずなど,毛頭も御座いません」
なかなかの智識と戦略。
行司の小川雅之介は頷いて、義長に軍配を上げた。義長は慎んだ表情のままである。
「やや」
栗林家随一の智識人。
此処でようやく気付いたのである。
「そなたは、柳水軒白雲斎の弟子と申したな」
「はい」
小川は栗林左京之亮に申し上げる。
「殿」
暫し言葉が無く、ようやく続ける。
「柳水軒白雲斎と言えば、あの竹中半兵衛の師匠に御座いますぞ」
「それは、まことか」
竹中半兵衛と聞いては、左京之亮も驚きを禁じ得ない。




