柳水軒白雲斎
次の日から、千代松は寺の行き帰りに走った。そうすれば体も鍛えられる。
「走ることならお任せください」
ハヤテが先を行く。
「千代松の若様は……足の力だけに頼り過ぎです」
「足で走るのではないのかい」
「いえ、尻尾も大事です」
「私に尻尾はないよ」
「足だけでなく、体で拍子を取るのです。狐の場合、それは尻尾になります」
千代松は自分の心に尻尾を描いて、走る時に拍子を取るようにした。思いがけないほどに走るのが楽だった。やがては息も切れずに駈け通すことが出来るようになった。
「若様には、もう尻尾があるかのようです」
ハヤテが目を細める。
瞬く間にひととせが過ぎる。今では、千代松はハヤテと同じ速さで走れる。やはり常人とは違う人物である。
「若様、もう、わたしめには、お役に立てることはないようです」
「そんなことはないだろう。あと半年。そうしたら一緒に女化が原に参ろう」
「いえ、まだ走れるうちに戻って、若様のお越しを仲間たちと共に待ちとう御座います」
ハヤテの尾が垂れている。少し細くなったような気もする。
千代松は頷くしかなかった。
半年が過ぎた。
ついに別れの時が来る。
旅支度を整えた千代松が歩く。
行く手の空に朝露が未だ漂っている。父の竹松と母の、しげも歩いて来た。
道が辻になる所で二人もついに足を止めるのであった。
「ここからは、もう一人だな」
竹松が言う。
去りがたい気持ちで千代松が立ち尽くしている。
しげが、手を握る。
やがて、その手が、そっと千代松の背を押す。
千代松は歩き出すのだ。
朝露の空が明るくなり始めている。
中山道。
木曽山中の辺りで迷った。いや、早くも上がった白き月に誘われるようにして山道に踏み入ってしまったようでもある。
山中に庵。
老人がやはり望月を眺めている。
すると、歩いて来る者があるではないか。美しいような若者である。
老人は、初め物の怪の類かとさえ思った。しかし、足取りが如何にも気楽である。骨相にも品があり、邪心などは露も無しと観じられた。
此の人は柳水軒白雲斎。
実は羽柴秀吉の軍師竹中半兵衛を導いた人物である。
「道に迷うたのかな」
「はい」
素直である。白雲斎は好感を覚えた。その夜は、互いに月を眺めたのみではあった。
翌日に問えば、寺で書物を読み尽くし今は東国へ参ると言う。本当かと試みれば、史記や三国志を語るのには驚いた。
更に問答するならば、我が国は刀槍を尊重するのに比べて、唐国の武器術は各人の体に応じて獲物を用いる等と言うのには目を見張った。
白雲斎は才気を好む。
しかしながらと白雲斎は思い淀む。下剋上の世の中に、軍学の才などは殺戮の種に過ぎないのではなかろうか。老いた白雲斎は、そうとさえ思うのである。
たがらこそ、この木曽山中に隠棲している。
「東国で何をするのか」
いちおう尋ねてみた。
「狐の棲む地へ参ります。約束なのです」
奇を衒っているのだろうか。
白雲斎は、改めてこの若者を見詰め直す。
奇を衒うのでなく、寧ろ真逆なのであろう。清らか過ぎる程の性質なのだ。
人を見れば、その上に立とうとする下剋上の世の物差しならば、ただの阿呆かもしれない。しかし、白雲斎はそう観じない。
この人物、育ててみたい。
そう思った。
しかし、内心のことである。
「陋屋ではあるが、蔵書は少なくない。少し読んでから参れば良かろう」
「有難う御座います」
改めて見れば、体付きなども未だ若年のそれではあるが、実に、伸びやかな体躯である。
この者は、何を言わずとも書は読むであろう。
故に体術等についても語って聞かせた。
「唐手というものもある。唐の国の体術であり、足の技が多彩という」
白雲斎が武術に精通している訳ではない。
「我が国の武術では、正面から対することにも、又かなり拘る。だが唐手は、後ろからの蹴りも用いるという自由さであるそうだ」
ただ知識の一つとして話す。聞き手がどう理解して行動かるかは、その本人の問題。きっかけとして話すだけである。
しかしその内心には、やはり屈託が渦となっている。刀槍とは、やはり殺人を助長するに過ぎないのではなかろうか。この下剋上の世の中では。
であるから、この陋屋にただ一人。
人の世に、いちいち絶望するほどの未熟ではないが、期待する気持ちも失せつつある。しかし偶然か必然か、この若者が訪れて来たのだ。




