第40話 死ぬ時に後悔すること
丸い木製のテーブルの奥に車椅子を留め、俺たちは反対側の椅子に腰を下ろした。
天板の中央には正方形のガラスが埋め込まれている。
その中で、ピンク色の桜が静かに眠っていた。
密閉されているからだろう。色はまだ鮮やかで、時間の流れだけが置き去りになっているみたいだった。
ユキナは、俺の視線に気づいたように桜へ目を向け、穏やかな声で言った。
「私たちの家系はね、伝統を重んじる傾向が強かったの。昔ながらのやり方を守ることが、正しいと思っていた」
指先が、ガラスの縁をなぞる。
まるで、触れたら壊れてしまうものを確かめるみたいに。
「世の中は変わっていくのに。時代は進むのに。私たちは、それを受け入れられなかった」
「そのせいで、世界の経済成長に置いていかれて……気づけばトーフ帝国は停滞した、貧しい国になってしまったのよ」
ユキナは続けた。
「そんな状況を憂いた夫がね、提案したの。私の家系に代々受け継がれる能力を、公にして……人を呼び込むのはどうか、って」
なるほど。
このアスファレイアでは、健康知識がまだ十分に広まっていない。
糖質――魔糖素に振り回される人間は多い。
糖質量を可視化できる能力は、確かに強い武器になる。
戦争じゃなく、マーケティングの意味で。
ユキナは、見透かすように微笑む。
「でも、私も先代も、その意見を受け入れられなかった。この能力は、安易に見せびらかすものではない……そう思っていたの」
「結局、何も変わらないまま、経済はずるずる傾いていって……皇族ですら節約を余儀なくされるほど困窮した」
声は淡々としている。
なのに、言葉の端々に“疲れ”が滲む。
「責務と生活の維持、その両方に配慮する余裕もなくなって、生活リズムも大きく崩れていったわ」
多忙な公務。偏った食事。
現実世界で言えば、終わらない残業と、コンビニ飯で一日をやり過ごす毎日――そんな感じだろう。
睡眠も削れる。
ストレスも溜まる。
それが長く続けば、体だけじゃない。心まで削られていく。
ユキナは、少し間を置き――それから、静かに言った。
「偏った食事が原因で、夫と衝突するようになって……やがて、彼は宮殿を出て行ったの」
「まだ幼かったシラユキも、いつしか塞ぎ込むようになってしまって……」
そして。
彼女は、左半身へ視線を落とした。
後悔の色が滲んでいる。
「魔力回路閉塞症――過度な糖質とストレスで、魔糖素が脳で詰まることで引き起こされる病よ」
「私はたまたま脳の右側が詰まったから、言葉には支障がなかった。でも……左半身は麻痺してしまった」
魔糖素が脳内に詰まる。
麻痺。
――同じだ。母さんと。
喉の奥が苦くなる。
無意識に、歯を食いしばっていた。
「シラユキはね……ああ見えて、勉強熱心だったの」
ユキナの声が、少しだけ揺れた。
「私の生活を、極端に反面教師にしてしまったのよ。私が倒れて、政権を引き継いだ途端……小麦と糖質の摂取を全面的に禁止した」
なるほど。
町の人々がゾンビみたいに疲れ切っていた理由は、それだ。
糖質を“断つ”ことで、国そのものが息切れしている。
「あの子は忙しさを理由に、私に会いに来ることもほとんどなかった」
「きっと、この国と皇族を崩壊させた私や先代を……恨んでいるのね」
恨み。焦り。責任。
それらが一つに絡まれば、判断は鈍る。
ストレスがかかった状態で、まともな意思決定なんてできない。
視野は狭くなる。世界は敵に見える。
……俺も、知っている。
家族関係。受動的な引っ越し。食生活の乱れ。
環境の変化が、想像以上に心を削ること。
気づかないうちに、“戻れないところ”まで追い詰められていくこと。
もう……あんな経験はしたくない。
させたくない。
俺には国を救う力なんてない。
俺は、自分の健康が守れればそれでいい。
でも――
立ち止まる理由が“健康”なら。
不幸に感じる原因も“健康”なら。
手を差し伸べたい。
同じ痛みを知っている相手なら、なおさら。
体の調子がいいというのは、それだけで人を救う。
ほんの少し、世界がうまく回り始める。
それを、知ってほしい。
俺は、ゆっくり息を吸ってから言った。
「ユキナ。もう一度、生活を立て直さないか」
「皇族の経済を立て直すのは、俺にはどうにもできない。でも……健康のことなら、少しは力になれる」
ユキナの灰色の瞳が、大きく見開かれる。
「……え?」
「でも……あの子ならまだしも、私はもう……手遅れでは……」
確かに麻痺はある。
けれど、症状は中程度に見える。
時間はかかるかもしれない。
それでも、脳内の魔糖素が“流れる”状態にできれば、改善の余地はある。
必要なのは、血圧のコントロール。
そして、ストレス管理。
確信はない。
彼女の了承も、まだ完全には得ていない。
それでも――何もしないで諦めたくなかった。
この人のことは。
俺は、ユキナの目を見て言う。
「ユキナ。人は死ぬ時に、何を一番後悔するか……分かるか?」
「死ぬ時に……?」
胸に手を当てる彼女へ、そっと重ねるように言葉を添える。
「やらなかったことだ」
その瞬間。
ユキナの瞳に、小さな光が宿った。
「君は、シラユキのことも、自分自身のことも諦めている」
「どうせ何もせずに時間を費やすなら……試した方がいい。そうすれば、何かが変わるかもしれない」
ユキナは、力強く頷いた。
「……あなたの言う通りね」
「私は、まだ何も試していない。このまま何もせずに終わるのは……嫌」
「もう一度、あの子の笑う顔を見たい」
まずは、やってみる。
試してみる。
たったそれだけのことが、俺にはできなかった。
きっとこれは――
彼女に向けた言葉であり、俺自身に向けた言葉でもある。
今度こそ、一歩前へ進むために。
「もし上手くいかなくても……これで死ぬのが怖くなくなるだろ」
「ふふっ……そうね」
照れ隠しの冗談。
それでも、空気はさっきより軽い。
そして――
彼女の車椅子を押す手は、さっきよりもずっと力強かった。
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