4:静寂
砂の大地に沈む陽が、廃墟の影を長く伸ばし、空に残る紫がかった残光が次第に闇へと溶けている。
柔らかな薄明の光は、かつての文明の残骸に最後の敬意を捧げるかのように、静かにその輪郭を照らしている。
崩れたコンクリート、歪んだ鉄骨、風化した標識。
ヒースとレイは、そのすべてを乗り越えてようやく噂の遺跡の入り口にたどり着いた。
「……ここまで来たな」
ヒースが荷物を降ろし、肩を回す。
「ここで休もうか?」
レイが周囲を見回しながら提案する。
「そうだな。日が落ちたし、今進むのは無謀すぎる」
ヒースは地面を軽く叩き、適当な平らな場所を選んだ。
レイの背負う大きなザックを降ろして、中から支柱を取り出し、紐で縛り付けてある天幕を広げた。
その傍らレイは、遺跡の入り口に向かって背を向けるようにして、バーナーと携帯用の小鍋を取り出す。
「じゃあ、私はご飯作るね」
レイが手際よく荷物を広げ、乾燥牛肉や干し野菜、スパイスの詰まった小袋を取り出した。
「お前は、本当にお前は器用だね。料理だっていつも美味しいし」
ヒースは彼女の手元を眺めながら、少し感心したように言う。
「好みを学んで蓄積している、経験則が違うよ」
レイはバーナーに火をつけ、小鍋にオリーブオイルを垂らす。
「さてはメシオンに少しずつ教わっていただろう、今考えればお前とメシオンはスパイスの具合がよく似ている」
「素晴らしいことだ。僕の手を加えたアンドロイドはいつだって優秀だ、それも街一番だね」
オイルが温まると、レイは乾燥牛肉を入れて炒め始めた。
肉がじわじわと焼ける香ばしい匂いがあたりに漂う。
「いい香り。こういうのって、贅沢だよね」
レイがそっと言葉を漏らす。
「まぁな。俺は料理できねぇし、お前がいなきゃまともな飯も食えねぇ」
「お前が来る前はビスケットと脱脂粉末豆乳を水に溶いただけの……思い出したくないなぁ」
ヒースはペグを打ちながらも、バーナーの炎を眺める。
レイはクミンとコリアンダーを加え、ネギ、ニンジン、レタス、コーンなどの干し野菜を投入する。
スパイスの香りが強く立ち上る。
「スパイスってすごいよね。保存がきくのに、ひと振りで食べ物の印象を変えられる」
「お前はアンドロイドだけど、スパイスの魅力が分かるよね」
ヒースが意外そうに聞くと、レイは少し考え込むようにして言った。
「うん。データでは知ってるし……でも、香りの記憶はまた別物だから」
ヒースは手を止め、レイをちらりと見た。
「レイは、そういう感覚を大事にしてくれているのを嬉しく思うね」
レイは水を加えてクッカーの中身を煮込む。沸騰すると、乾燥豆を加えてさらに煮続けた。
「ヒース、久々の遠出はどう?」
レイが尋ねながら、スープをかき混ぜた。
「……正直、疲れるな」
「ふふ、わかるよ。普段は店で機械ばっかり直してるもんね」
「そういうこった。もうちょい楽な仕事にしときゃよかったって、今さら思うな」
レイは小さく笑った。
「でも、たまにこうやって遠出するの、悪くないでしょ?」
ヒースは肩をすくめる。
「まぁ、気分転換にはなるかもな」
「うん、そういうの、大事」
レイは静かにバーナーの炎を見つめる。
「ねぇ、ヒース」
「ん?」
「メシオンが言ってたよね。ヒースは昔、壊れたこの世界を直すって言ってたって」
ヒースはスプーンを止め、わずかに目を細めた。
「そんなこともあったな」
「それって、もうやめちゃったの?」
レイの問いに、ヒースは少し考え込むように視線を落とした。
「いや……やめたってわけじゃねぇ。ただ、世界があんまりにも壊れすぎてて、どこから直せばいいのか、もう分かんなくなったってだけだ」
「街そのものがゴミの山で、だれがどう偉そうに生きようとゴミ山の中のボス猿以上には成れないと思ったりさ」
「たぶん、直すって言うよりは元からいろいろ間違ってたんだ、いや、きっと間違ったから俺たちはこの広い砂の上に見放されたのだろうね」
レイは静かに頷いた。
「ヒースのね、そういう哲学きらいじゃないよ。」
「でも賢くないとか、見放されたとか、そんな事言っても、そんな苦しみの中で精一杯賢く生きようって君はいつだって行動するじゃないか」
「ずっと直してきたじゃない。機械だけじゃなくて、誰かの役に立つように、必要なものを」
「なんなら砂に埋もれた歴史たちがヒースに感謝してるんじゃないかな?」
簡易テントの設営の終わったヒースはため息を漏らした。
「でもさ、俺がオンボロ直したところで、世界の本質は変わらねぇよ」
「本当にそうかな?」
レイの言葉に、ヒースは少しだけ顔を上げた。
「言うほどかぁ?」
レイは答えた。
「ヒースは昔、自分の手で何かを直せるって信じてたんだよね」
「そんな言葉に喜んで背中を押された人が誰もいないってことは無いと思うしさ」
「メシオンはね、そんな君に背中を押されたから、ほかの人の背中を押せるんだって思うよ」
「それって結局ヒースなりの祈りなんじゃない?」
レイは塩と胡椒で味を調えて、スプーンを回す。
表面に浮いた調味料が料理に混ざっていく。
「私はね、ヒースが直してくれた機械の一つだから。ヒースが今でも何かを直せるって、信じてるよ」
「お前は本当に、おせっかいだよな」
そう言いながら、ヒースは少しだけ口元を緩めた。
レイもまた、静かに微笑んだ。
スープが煮込み終わり、レイはヒースの分をよそって、家で事前に焼いてきた薄焼きのロティと共にヒースに手渡した。
「はい、できたよ」
ヒースは器を受け取り、湯気を立てるスープを眺める。
「こんなに美味しそうなのにお前は食わねぇんだよな」
「うん。でも、一緒にご飯を作るのは楽しいよ」
レイはそう言って、ヒースが食べる様子をじっと見つめる。
「……うん、うまい」
ヒースがぼそりと呟く。
レイは嬉しそうに微笑んだ。
「ごちそうさま、レイ」
「どういたしまして」
夜の帳が二人を包む。
遺跡の入り口を前に腰を下ろす二人を照らすのは、温もりある食事とこの地平線に広がる静寂だった。
それはまるで、心に灯った優しさと祝福であり、冷たい運命の呪詛でもあった。