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失墜  作者: ゆかこ
5/32

5

「麻ちゃん、ちょっといい? 話があんの、あとで私の部屋に来て」

「はい、依子さん」


 依子が、訝しげに自分を見ている。麻は、昨夜の耀や陽との出来事のせいで心臓がびくりと跳ねるような感覚を覚えた。いつもはニヤニヤとうれしそうな笑いを浮かべている依子だったが、今日の彼女にいつもの余裕は見えなかった。


「あの」

「ん?」

「いま、丁度仕事が終わりましたので。お話を、いま伺うことはできませんか」


 麻に背中を向け、去りかけた依子を小さな声で呼んだ。相変わらず曲がった表情は変わっていない。大きな城の廊下では足音が響くため、麻は履いていたヒールの音を鳴らさぬよう、絨毯の上をそっと走り依子に駆け寄った。


「ん、いいよ。じゃ、おいで」


 依子は再びくるりと踵を返し、事務所と部屋のある、社員専用の西棟へと歩き出した。麻たちが住むのは東棟なため、西棟へはエレベーターと廊下の両方を渡らなければならない。いそいそと依子のあとを歩きながら、麻はついつい汗ばむ手を握り締めた。

 東棟では、余程のことがない限り、メイド課のものが呼びにくる。商品候補たちにとって社員から直接誘導されることは極めて少なかったため、耀を含む世話係や数人のメイドたちが不思議そうに麻と依子を眺めながら通り過ぎていった。が、いつもは陽気な依子も、今日は堅い表情のままで、通り過ぎる者には一切興味を示さない。


『どうしたの?』


エレベーターへと繋がる広く長い廊下を歩いていると、麻の秘書課の友人である未波が口だけを動かし、麻に視線を投げた。麻は目だけを合わせ、わからない、と首を振った。だが、その動作に気づいた依子がギロリと睨みつけたため、未波は慌てて去った。やがて、エレベーターに乗り、中庭へと通ずる地下道を越えたあと、依子の事務室のドアが見えた。


「さ、入り」


ドア横でちょこんと立っていたメイドがドアを開け、依子が柔らかく入室を促す。麻は依子に軽く会釈をし、失礼します、と呟き入室した。


「そこ、座って。あ、琳ちゃん、オーナーが呼んでたし、あとで行ってきて」


琳とは、先ほどドアを開けていたメイドだ。そばかすだらけの顔をぱっと明るくさせ、軽い会釈をすると、彼女は静かに出て行った。良い引取りの話でも出たのだろう。麻はそんなことを考えながら、震える膝を右手で軽く押さえ、指定された椅子に腰掛けた。


「さて、と、麻ちゃん。今日は怒る為に呼んだんと違うから」


依子は大きなソファに腰を掛け、表情を崩しながら言った。怒っているというよりも、どうやら何か心配事があるらしい。


「あのね。社長が気づいてんの、陽とあなたのこと」


社長とは百合のことである。


「陽さんと、私?」

「そう。社長、ああ見えて結構鋭いしね」


依子は深くため息を吐き、椅子から立ち上がり身を固くした麻に、近づいた。


「陽は麻ちゃんを気に入ってるし、無理にやめろとは言わんよ。けど、気をつけて、ね」


 その言葉に、麻はうつむいた。自分を心配してくれている依子に、どうして、好きでやっているわけではない、などと言えようか。教育期間中の商品は、社員の私物も同然なのだ。社員である陽に、口答えや拒否などできるはずがない。麻は陽に対して特別な感情は抱いていなかったが、陽が麻を狂うほどに愛しているのは明確だ。麻がそんなことを考えているとはそ知らぬ依子は、俯いた麻に、さらなる言葉をかけた。


「麻ちゃんの家族のため、知り合いのため、それに麻ちゃん自身のためやからね」


 麻はその台詞に、大きな疑問を覚えた。金だけのために自分を売った家族、利用した末に自分を見捨てた何人もの知人、そして、他人にされるがままになっていた自分自身。そんな者たちに、どんな価値があるというのだろう。麻は口惜しさと悲しさに歯を食いしばりった。


「依子さん」


枯れた声で、麻が囁く。その目は今にも泣き出しそうなほど、赤く潤っていた。


「なに?」


依子の返事はそっけなかったが、その声はひどく優しく穏やかだった。その声のせいか、麻はぽろり、と涙を流した。依子には、その涙が本物なのか偽物なのかの区別がつかなかった。それほどに儚い色を見せていたのだ。


「どうして、なのでしょうか。私は」

「……私に、そんなこと聞くの?」


 依子は軽く苦笑いした。曲がりなりにも、依子は麻を売る立場なのだ。柔らかく麻の背中を撫で、依子は呟いた。


「分からへんけど、麻ちゃんには、なんかある。愛されすぎてんのかな」

「愛、され?」

「そ。愛されすぎて、その重みをどこに持っていけばいいのか分からん状態」


麻よりもさらに重いため息を吐き、依子は微笑んだ。私が言うのもおかしいかもしれんけど、と付け足し、依子は言った。


「ちょっと、休憩しよ。ね? 愛はもらえる分だけもらっとけばいい」


 思いがけぬその言葉に、麻は脱力し、堪えていた涙を溢れさせた。

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