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失墜  作者: ゆかこ
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 今日は、明るい。カーテンを開けた麻は、うきうきとした気分で起き上がった。まなみと伊里はどこかへ行ったようだ。飲み物でも調達しに行ったのだろう。むくりと立ち上がり、窓の外へ顔を突き出した。爽やかな香りがする。外へ出たい。不意に彼女はそんな思いに駆られた。若者独特の、甘くささやかな若い気持ち。麻は自分のなかにあるそんなものに、傷ついた素手で触れていた。けれども、平和というものは不思議とすぐ壊れるものだ。部屋に鳴り響いた声に、麻ははっと顔を上げた。乾いた声が、再び彼女の名を呼ぶ。


「麻ちゃん、ちょっといい?」

 

 寮母だ。いつもの明るい雰囲気とは打って変わった、ひどく暗い表情をしている。

 何か、あったのかなあ。思わず麻は、体を硬くした。


「話があるの。依子さんの部屋で」

「私だけ?」

「ええ。とにかく、ついてきて」


 明らかに態度がおかしい。麻は瞬時にして異常を悟り、はっと立ち上がった。無言で、寮母の背後につく。するとすぐに、寮母の手によって寮の扉がかたく乱暴に閉じられた。


 長い廊下を通り、依子の部屋に着くと、がちゃりとドアが閉められた。

 それは陽の部屋に連れ込まれ、抱かれる直前に鳴り響く音とまったく同じだ。麻は思わずぴくりと肩を上下させた。同じドア、同じ構造の部屋なので当然のことだ。はっと部屋のなかを見回してみると、依子や百合、そして陽までもがソファーセットに座っていた。みな暗い面持ちで、なにやら思いつめたように俯いている。背後の寮母からも同じような気配が伝わってきた。


「あの、なにか、あったんですか」


 ぼそり、と囁くように麻は言いながら後ずさりした。


「……飛行機が。おちてん」


 恨めしそうに、自嘲ともとれるような不気味な微笑を浮かべながら依子は顔を上げる。その意味がわからず麻が首をかしげさらに近寄ると、陽が大きな重い溜息を漏らした。百合は先ほどからじっと腕を組み、ソファに沈み込んだままだ。その重苦しい雰囲気を悟った麻は、部屋の隅にしゃがみ込んだ。


「へ……飛行機が……」

「前から、会社のこと狙ってたらしくて……。それで、それで」

「飛行機が…?」

「……違う。テロ組織」


 依子はかこん、と履いていたヒールを脱ぎ、床に投げ捨てた。


「テロ、組織?」

「そう―。数十年も前から、本社がずっと問題としてきたテロ組織」


 テロ組織というよりは、人身売買反対派武装団体と言った方がいいかしらね。ま、同じようなものよ。どちらにせよ、何十年も前から狙われてたみたいなんだから。麻ちゃんも、知ってるでしょう? そして、15年前、今日とまったく同じことが起こった。飛行機が墜とされたのよ。何らかの手段で我が社の専用機に乗り込んで、ね。衝撃だったわ。あの頃、そんなのなかったんですもの。そして、今日も……。知ってるわよね、我が社―ここは支部だから、本部と人事交換や客人の訪問のための専用機を往復で飛ばしてるの。それが、また、墜ちたの……。


 百合は長々と語り、重く肩を落とした。あまりの驚きに麻はぽかんとしていたが、同時に、彼女は百合のあまりの冷静さにも驚いていた。そしてぐるりと見回してみると、その部屋に、耀がいないことに気づく。


「あれ……。耀、さんは?」

「耀は――」


陽が、睨むようなひどくきつい目つきで、顔を上げた。


「もういいわ、いいの。ごめんなさい、それが言いたかっただけだから」


 百合が静かに陽を遮る。なにが、良いんですか。そう言い掛けた口を、麻は慌てて噤んだ。どんな状況であろうと、失礼は許されない。静かに後ずさりをし、彼女は重い扉に凭れ掛かった。重く苦しく悲しい視線が、部屋中を惑う。


(言わない、ってことは。そういうことなんだよね? 耀が、その飛行機で……。冗談じゃ、ないはず。こんなひとたちじゃない……! 人身売買だなんて言ってるけど、あんな惨めな私を引き取ってくれて、こんなにしてくれた。女としての価値を、私に与えてくれたひとたち。そんなひとたちが嘘つくわけない、それに、どうしてこのひとたちを、この会社を……!)


 商品という立場。なかば娼婦のような存在。そして、自分たちの価値を上げ、伴う値段も高くしては売りさばこうと努める邪悪な集団。そんな状況のなかでも、やはり麻は、百合たちを嫌うことができなかった。人間として扱われたことなど、ここ以外でないのだ。社会的に言えば自分やこの会社の立場が非常に危なく悪いことなどとうに承知している。それなのに、どうして。そんな重い想いが頭のなかを駆け巡った。暴力派のテロなど何も今にはじまったことではない。数年前から同業の会社が同じような被害に遭っているのである。けれども、麻の脳はなかば停止しかけていた。


「ごめんなさい―。宮村を、寮へ帰して」

「はい」


 百合の命令に、寮母は機械的に答える。麻は何も口に出さなかった。ぽろりと頬から零れた涙を右手の甲で拭い、彼女は姿勢を立て直した。ぴしりと背筋を伸ばし、まるで何事もなかったかのように寮母のうしろに付く。そしてさっと一礼し、部屋を出た。


「麻、大丈夫?」

「大丈夫、ですから」


 いつも通りの笑みを貼り付け、声も元に戻す。どちらも、訓練を受けているうちに身についた業だった。売られる身たるもの、叱られた程度で顔がぐしゃぐしゃになってしまっては仕方ないのである。とにかく麻はそうして何事もなかったように微笑み、笑顔で廊下を通り過ぎたのだった。


 考えてみれば、人の死をこうも間近に考えるのは久々かもしれない。最後に死んだのは、誰だっけ。そうだ、同僚がつい最近死んだ。そんなことをぼうっと考えながら、麻は寮母と暗い廊下を歩んでいた。気分は暗かろうと、麻の笑顔は誇らしく険しくある。つい最近泣き崩れていた表情はどこへいってしまったのだろうと、寮母は妙な無情を感じるのだった。


 本性からは遠く離れた笑みを浮かべ、かつかつと床を踏みしめる姿。この女が誇りに思うものは、一体何なのだろう。数々の男に愛され抱かれた体? 億単位の商品価値がある身体? それとも、自らの愛くるしさを知っていての自信か。否、中身かもしれない。頭脳かもしれない。形容のしようがない気分になった。傍で見守るだけの、リンク外の女として、自分はどうなのだろう。寮母は、まるで花魁について歩く吉原の女将のような気持になるのだった。


「ね、麻」

「なんですか?」

「今日。研修とか休みなさいよ」


 意味もなく目を逸らすと、怪訝そうに見つめられた。ふわりと流れていきそうな視線に、酔わされそうになるのだった。


 男を馬鹿だと思えば大間違いだ。たしかに色事に関しては阿呆になる面もあるかもしれぬが、女でも十分酔う。いい女というものは、やはり生まれながらにしても素質を持つのだった。ある意味、いい女や美女とはみな生まれながらの娼婦なのかもしれない。春を売ることは果たしてそれほど大きな罪悪なのだろうか。


「別に、大丈夫ですから。そんなに気を使わないでください」


 大変なんだから、と恐らく言いかけたであろう麻の無邪気な言葉を寮母は遮った。麻は首を傾げる。無邪気な表情は、何も捉えていなかった。


 ああ。

 自分が今知っている事実を、すべてこの可愛らしい娘に吐き出してしまいたい! ああ! 懺悔とはどのような快楽にでも勝るのではないだろうか! あの痛みと心地よさは得体の知れぬほどのものに違いない。なによりも今この瞬間、寮母はそう確信する。より一層疑うような目線で麻に眺められ、寮母は理性を失ってとぼとぼと歩くのだった。


「あ、部屋……」


 危うく寮部屋を通り過ぎそうになった寮母に声を掛けると、寮母は半ば押し込めるように麻を部屋の中に放り込んだ。一瞬、驚きの目が向けられる。なんでもない。なんでもない、きっとそうだ。心のなかでそう叫び、ドアノブをがちゃりと回した。

 

 こんなに事故やら事件が多いと私まで壊れそう、ほんと冗談じゃないわよ。そう呟いた寮母は、珍しく壁など蹴飛ばし事務室へ戻ろうと踵を返すのだった。

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