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「待って下さい」
ふわりと、麻の香りが辺りに広がった。同じシャンプーの匂いがする。くしゃくしゃとその頭を撫でながら、耀は彼女を抱き寄せた。数センチ下に吐息がかかり、彼は柔らかい体をきつく抱きしめた。白いワンピースに皺がよるほどきつく掴み、部屋の中心で、彼女を捕まえるも等しく腕の中に拘束した。菊果と同じような香りがするのは、先ほどまで一緒にいたための残り香だろう。
「なに?」
「もう少しだけ。いいワインが入ったんです、ご一緒しません?」
「それ……は」
麻は気まずそうに下唇をかんだ。迷いが脳裏に広がる。後輩たちが自分のことで揃って悩んでいる不味い空気にあるだろう寮へ帰るべきか、それともこの上司とも友人ともつかない男と夜を飲み明かすべきか。迷い顔の麻に微笑しながら、耀は二本のグラスをテーブルに置いた。どこからともなく石榴色の瓶を取り出し、延々と音を立てながらワインをグラスに片手で注ぐ。麻は黙ってその様子を見ていた。
(どうしよう。マナちゃん、伊里ちゃん、ごめんね)
それだけを脳内で軽く吐き出すと、麻は抱かれていた耀の右手から離れ、ソファに座り込んだ。
「これ、何?」
「1992年のぺトリュス。サラミはありませんよ」
ニコニコと微笑みながら、耀はワインを口にする。麻は物欲しそうにその様子をじっと見ていた。そもそも麻のこの表情が耀の狙いだったのであろう。彼はもう一方のグラスを麻に差し出した。
「ありがと。……え?」
渡したかと思いきや、それを手繰り、やはり先ほどと同じように麻をこちらへと寄せる。
「え、なんで?」
「まだダメですよ。どうしても、ってのなら」
耀はこくっとグラスを傾けワインを少し多めに口にした。よくわからない、といった様子でこちらを眺めている麻を抱き寄せ、火照りで赤くなった唇に大胆に口付けた。衝撃で開いた麻の口へ、ワインが流れ込む。息苦しさに吐息を漏らしながら、口中のワインを処理するため、懸命に飲み込んだ。それでも耀が変わらず口付けながら、さらにワインを流し込むので追いつかない。とうとう麻が咽そうになるまで、耀は彼女を放そうとしなかった。
「ん……、はあっ」
苦しそうにけほけほと喉元を押さえ、息苦しさに眩暈を感じた麻は耀の胸のなかへ倒れこんだ。彼女の喉元から首筋へ、残ったワインの紅い水滴が落ちていく。耀は満足そうに、麻の背中を軽く撫でた。
「なにするの……っ」
麻は今にも泣きそうに苦しそうな表情で訴えたが、そんな様子にも耀は笑みを深くするばかりだった。
「これで、貴女は私のものも同然でしょう?」
「へ?」
信じられない、といった風に咳をしながら涙目で睨む。
「……絶対に寄越しませんよ、阿呆な財閥のドラ息子なんかに。絶対、絶対」
驚きで目を見開いた麻の耳たぶに、耀は何も言わずそっと触れた。クリスタルの小ぶりなピアスが光っている。それをそっと外すと、恐らく摩擦で赤くなっていた彼女の耳に口付けた。ワインの苦味がまだ口に残っている。ぞくぞくと押し寄せるような圧倒感に堪えようと、必死で麻はワンピースの裾を握っていた。
「今回ばかりは本気ですよ? 絶対にどこへも寄越しませんからね、たとえ貴女が社の商品であろうとね。いいです?」
麻はばつが悪そうに俯いたが、一応頷いている様子だ。耀は満足げな様子でワイングラスを放り出すと、部屋を出て行ってしまった。一人取り残された麻はぽかんと突っ立っていたが、沸いてきた鼓動の意味は彼女自身にもわからなかった。そして、まるで脚の骨でも砕け散ってしまったかのように、麻はぺたりと床に座り込んだ。誰もいない広い部屋の大理石では、音も大きく響く。冷たい床に体を預け、麻は考え込んだ。先ほど、まなみに言われた言葉をふと思い出したのだ。時刻は既に夜中の一時を回っていた。
「あなたの愛がそんな程度の軽いものなら、もう……、もう二度と耀様に近づかないでください」
彼女は確かにそう言ったのだ。
(もしかして……。もしかして、マナちゃんは耀のことが好きなのかもしれない。私が耀と遊んでるだなんて全然知らないのに。だって、私にああいうこと言うのは耀のことを想ってるからとしか考えられない! だとしたら、そうしたら……。私は、大事な後輩を裏切っているの? マナちゃんの想いを彼女の知らない間に踏みにじっているの? 耀は何も知らない、マナちゃんも。ましてや伊里ちゃんなんか、私たちのケンカのことだって知らないかもしれないのに……。私はなんてひどいことをしているんだろう? 商品の分際で、社員の耀に取り入るなんて。それも、マナちゃんの気持ちをぐしゃぐしゃにしてまで。マナちゃんは気付いてないんだ、私が裏切ってること。そうなんだ、マナちゃんは、純粋に耀が好きだから怒ったんだ……)
じわりと麻の目じりに涙が溜まり始めた。先ほどから握っていたワンピースの裾にくちゃくちゃに皺をつけながら、手首で溢れんばかりの涙が零れた目を擦る。広い部屋で月明かりに、麻は一人泣いていた。彼女は、誰よりもまなみを信頼し後輩、友人、同士として愛していたのだ。そのまなみを裏切ってしまったという罪悪感が、ひどい不安と自己嫌悪、己に対する怒りを植え付けた。
「ごめんね、ごめん、マナちゃん……。お願い、許して……」
この罪は、一体何なのだろう。置き去りの戒めだけが麻の心をひしひしと痛めつけていた。麻は自分がとんだ勘違いをしているなどとは知らず、罪意識に泣きじゃくっていた。 伊里に慰められながらぽろぽろと強さの証である涙を流すまなみと、要らぬ罪悪感による弱い涙を流す麻。二人は、確実に絶望の階段を一歩一歩踏み始めてしまっているのだろう。月明かりに包まれ、それぞれ別の部屋で二人は同じ原因の違う涙を流していた。