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「まーた麻さんとケンカしたんですかー?」
まなみが盛大なほどの大きな溜息を吐くと、伊里はまたかと呆れたように彼女を眺めていた。まなみが些細なことで落ち込むのは日常茶飯事のことだ。まなみの不安の原因が、鈍い麻の余計な一言であることは伊里にでも明確だった。まなみは麻の言動で知らず知らずに空回りし、麻は気付かずそのまま自由に振舞っているのだ。すっかり此処での生活に慣れた伊里にとって、先輩二人のすれ違った関係は悩ましいものだった。
「そんなに気にしなくていいと思いますよー、麻さんのことは。あの人、ああ見えて結構抜けてそうですしね」
伊里があははと怖気づきつつも笑うと、まなみは再度溜息を吐いた。
「んー、でもなあ」
「そんなにひどいケンカしたんですかー?」
「うん、相当」
まなみがこくりと頷く。伊里が興味深そうに、アイスティーのグラスを翳しながら問い詰めると、まなみは吐息交じりに囁いた。
「あのね、私、麻さん突き飛ばしちゃった」
「はあ?」
伊里が首を傾げる。まなみはさらに気まずそうに言った。
「ドン、って。どうしよう、怒ってるかなあ……」
伊里は思わず黙り込む。すると、まなみは酒で赤らめた頬をぽうとさせながら囁いた。部屋中の冷たい空気が、背中に集まるようになる。狭い部屋のなかでは何も感じられないようだった。ベッドにひとりで倒れこむ。
「ねえ、もう気付いてるんでしょー? ねえ、いおりん」
彼女は相当酔っているらしい。右手に持っているビールの缶と呂律の回っていない舌がそれを示していた。まったく数ヶ月前の麻と大して変わっていないではないか、と伊里は溜息を吐いた。ここにやってきてしばらく経ったが、最初はしっかり者だと思っていたまなみの印象がすっかり変わっていた。意外にも、彼女は一度何かに熱中すると周りが見えなくなるような性格の持ち主であったのだ。真面目さと几帳面さのあまりだった。何か自分に興味のあることや重要なこととなると怖いほどに真剣に取り組むのだが、そうでないとまるで脱力したようにくたりと萎びている。鈍感な麻も、真面目すぎるまなみも、伊里にとっては振り回される原因となる悩みの種の一つだった。半ば頭を抱えるような姿勢に座りなおしながら、伊里は仕方なく問い返した。
「何が、ですか。あとそのあだ名はやめて下さい」
「うん」
それだけ言い、まなみはにっこりと微笑んだ。素面のときと変わらない、人の良さそうな優しげな微笑だ。その笑顔のどこからこのセンチメンタルなマイナスさが来ているのだろうか、と伊里は思わずまなみの腕を突いた。
「で、知ってる、って何のことですか?」
伊里がいうと、まなみは酔いで火照った頬をさらに赤く染めた。最年長である麻がいないのをいいことに、まなみは麻の管理下にあった大量のビールを無断で山ほど飲んでいたのだ。まなみはそれに気付いている様子もなく、ぷはあと息を漏らした。
「だーかーらあ、私が麻さんのこと好きなの知ってるでしょー」
ぽたり、とアイスティーの入ったグラスの側面から透明な水滴が落ちた。氷がかたり、と伊里の手の中でグラス越しに揺れる。彼女はそっとそれをサイドテーブルにおき、姿勢を改めた。 ベッドに寝そべっていたまなみが、気だるそうに寝返りをうつ。
「はあ?」
「あたし、麻さんが好きなんだよねえ」
まなみが力なくへらへらと笑う。伊里は黙ってまなみの元に寄り、その抜けた笑顔を下からじっと眺めた。
「あ、気持ち悪いって思ってるでしょー、女同士なんて。残念、私、そういうひとなんだなあ」
「気持ち悪いだなんて、思ってませんけれど!」
ふふ、と自虐的に笑ったまなみを思い切り睨み、伊里はその勢いで思わず立ち上がった。膝に抱えていた雑誌が落ち、その衝撃でけたたましい音が床を叩いた。まなみはへらへらと笑ったままそれを黙って見つめ、ちらりと伊里の顔を見上げた。伊里もその瞬間、まなみを見ていた。結果的に二人は気まずそうに見つめあっていることになる。
「なんで、なんで気持ち悪いとか言うんですか。それに、まなみさん、さっき麻さんに『あなたの愛がそんな軽いものなら』なんて啖呵きってきたばかりでしょう? どの口がそんなこというんですか! 気持ち悪いなんて微塵も思いません。いいじゃないですか、好きなら好きで。そういう言い方するって、私、どうかと思いますよ。麻さんにも、まなみさんにも、良くない言い方だと思います」
相変わらずきつく睨みつけながら、まるで先ほどまなみが麻にしたように睨み付ける。まなみは急に神妙な面持ちで頷いた。開け放した窓から、寂しい風の声が聞こえる。それを無視してまなみは口を開いた。
「うん。ごめん。けど好き。なんかねー、もうあの人が耀さんとか陽さんとイチャイチャしてるの見るの、つらい」
「そうですか」
ぽふっとベッドに腰を下ろした。虚ろな目で枕を眺めるまなみに手を伸ばす。華奢な肩に触れ、小さく揺さぶった。なんだか、こう。沈黙を破ってはならないような気がして、伊里はさっと窓の外へ目をやった。深い闇が、建物を包んでいる。いっそ、あのなかに消えてしまえば良いのに、とでもまなみは思っているのだろう。つまらない気もちを察しながら、伊里は深い溜息を吐いた。