24
しばらくの間、閑静な和室で沈黙を守っていたまなみが不意に立ち上がった。数十分前の失言などなんでもないように立ち上がり、麻の肩に手をかけた。
「ね、麻さん。私が何とかします。私が」
「へ、何が?」
麻の目が驚きでぱちくりと瞬いた。普段のまなみからは想像できないような言葉がまなみの口から出たためだ。
「私が何とかしますから、絶対に。だから結婚なんてしないでください」
この後輩は気でも狂ってしまったのだろうかと麻は驚いていたが、まなみは至って冷静だった。何のことはない。ただ、大切な先輩を守りたかっただけだったのである。とにかく、まなみはそれだけ言い、それっきり黙ってしまったかと思いきや麻の頭上からぽろぽろと涙を溢し始めた。大粒の水滴が麻の髪や首筋、目元に零れる。それを拭いながら、麻は慌てて立ち上がった。
「マナちゃん、マナちゃん?」
いつもの優しく無邪気そうな麻の顔だ。先ほどまでは絶望で灰色に変わっているような錯覚を与えるほどに暗い表情をしていた麻だったが、その姿はどこかへ消えてしまっていた。まなみは黙ってしばらく嗚咽していたが、やがて麻を引き寄せ、抱きしめていた。まなみは麻より年下であるが、背はいくらか高い。抱きつこうとも振り払おうともしない麻を華奢な腕で抱きしめ、まなみはその肩に自ら頭を預けた。まなみの細い腕が麻の背中に絡む。麻は無意識にその細い腕をそっと握っていた。
「守りますから、私が。麻さんは何にもしないで、どこにも行かないで……」
はじめて触れたまなみの腰は、女性らしくふっくらとしていながらも、驚くほどに細くやつれていた。
「お願い、お願いですからどこへも行かないでください。どうしてそんなに苦しもうとするんですか。 ばっかじゃないんですか…」
「へ、あの、マナちゃん?」
ぽろぽろと尚も涙を流しながら、まなみは叫ぶ。その様子にさらに驚いた麻は彼女に抱きしめられたまま疑問を浮かべた表情で尋ねる。それにしても強い力だ。あの細い体のどこから来ているというのだろうか。麻は場に合わぬ疑問を浮かべる。
「麻さんのばか。なんで体と顔を利用してまでそんなことするの? 私には理解できません、たとえ同じ売られる身だとしても。愛される価値があるのに、愛される権利があるのに、愛する人がいるのに……。なんたってそんなに自分を‘物’扱いするんですか…」
「だって……物も同然だもん、私たちには値札がついてるんだよ」
訳も分からず掻き抱かれたままの麻はもごもごと囁いたが、まなみにそんなことを気にする余地はない。
「だから何なんですか! 私には愛する資格がないんです。愛したい人はいるのに愛する権利も度胸も何もありません。一文無しです。別にそのことに対して大きな未練も欲望も何もないですし……正直私の恋愛はそれでいいと思ってます。だけど、だけど」
「でもさ、そんなこと言っても仕方ないよ、結局はぜんぶ終わっちゃうものなんだから」
麻が思わず彼女の言葉をさえぎった。まなみは麻の発言に、信じられない、といった風な表情を見せた。そして、まなみは突然、思い切り麻の胸を押し、彼女を突き放した。当然、麻はその衝撃で床に尻餅を吐き、華奢な体ながら、大きな音を立てて床にへたり込んだ。彼女は一瞬声も出さずにじっとまなみを驚きの目で見つめていたが、まなみは涙目できつく麻を睨みつけた。麻は予想のつかない展開におどおどと戸惑っていたが、まなみはふん、とでも言わんばかりに先ほどとはうって変わった態度をしていた。だが、やはりまだ涙が次々と目尻からこぼれている。大粒の滴が畳を濡らした。
「あなたの愛がそんな程度の軽いものなら、もう……、もう二度と耀さんに近づかないでください」
そういい残し、彼女は不満そうに大きな音を立てながら和室のふすまを閉め、出て行った。辺りに響き渡るほどのけたたましい音だ。麻はただただ呆気にとられながら、へたり込んだまま乱暴に閉められたふすまをぼんやりと見つめていた。
まなみが出て行ったあと、驚きで誤解している箇所はあるものの、麻は相変わらず姿勢を整えずにいた。疑問で沸きそうなほどになりながら考え込み、先ほどまなみが言っていた言葉の意味を一生懸命汲み取ろうと考える。そうしているうちに、百合のところへ行っていたらしい菊果が戻ってきた。彼女は訝しげに麻を見、首を傾げながら部屋に入った。
「どしたの、麻ちゃん、そんな格好して。なんか出た?」
「幽霊なんか……」
どっかりと横に座った菊果の大きな笑顔を見つめながら、麻は震える声で応えた。この数十分の間に何があったのだろうか、と菊果は少しは気にしていたが、そこまで深く考えてはいなかった。気楽そうにどっしりと構え、彼女は冗談のつもりで腕を大きく広げた。
「そう、お化け出たんやぁ~。よしよし、おいで」
いつ麻が怒り出すだろうかと菊果は着物の袖をたくし上げながら愉快そうに麻の顔を見ていたが、やがて、麻の顔に張り付いていた不安そうな表情が変わった。どんどん、どんどん、力の抜けたものへと変わり、やがてその顔はこちらへ迫ってきた。さすがに驚いた菊果だったが、手を引っ込めようとはしなかった。麻はそれをいいことに、まるで気でも狂ってしまったかのように、菊果の腕に飛び込んだ。先ほどのまなみのようにしゃくり上げ、幼児のように泣きつく。その姿は、数年前と大して変わっていなかった。
「おねえさん……きくかさん……っ!」
子どものように顔をゆがめ、わあわあと泣き出した麻に、菊果はその展開を予想でもしていたかのように大人らしく彼女の頭をそっと撫でた。
「あらあら、何も変わってないし……。さっきの冷たい態度見てちょっとは大人になってくれたって思って期待してたのに~。はい、はい、もう泣かんといてよ」
菊果は口では母親のように麻を嗜めていたものの、その表情にはどこか嬉しそうな微笑ましい優しさが伺えた。久々に誰かに甘えられ、嬉しかったのかもしれない。泣き叫ぶも同然なほどに大きな声で嗚咽を漏らす麻の背中を強く摩りながら、菊果は彼女を抱きしめた。