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「やー、久しぶりね、麻ちゃん。まあ綺麗になってー」
「お姉さん、どうされたんですか、こんな遠くまで」
控えめながら美麗な色目の着物を着た女の行動に、麻は気づかれぬようそっと溜息を吐いた。廊下で呼び出された麻はそそくさと客人用の茶室へ向かったが、予想通り、そこに座っていたのはあの女だった。嫌な女でもなく、嫌いでもない。寧ろ愛していた。だが、彼女の雰囲気はとても絡みづらいものだった。花街特有の女性の上品さや鋭さ、そして会話の巧さが少し苦手だったのだ。人身売買の商品なら何ら変わりはないのでは、となるかもしれぬが、本人からすればこれは大きな違いなのである。何より、勤める世界と気力の度合いが違うのだ。
とにかく、麻は少々考え込みながらも、遥々やってきた客を一生懸命もてなそうと努めていた。傍にはまなみや数人のメイドの者たちが付いているが、みな目下にあたるため一言も口をきかないのである。麻の態度に気付いているのかいないのか、着物の女は大袈裟に肩を竦め、大きな声で言い放った。
「それがねぇ、うちのおかあさんがボケて。うちのお姉さんらも何かと手ぇ焼いてんだけどね、やっぱ婆さんだし、どうも大変で」
置屋の婆が認知症にでもなったということだろう。麻はピクリと眉を顰めた。だが、彼女も着物の女にも多少のプロ意識や慣れというものはある。二人は笑みを湛えたまま、数秒間見詰め合っていた。
「そう……。西のお家のおかあさまには、私もお世話になって」
「そ。ま、うちもその他の妓も座敷があるしさ。どうしようかって迷ってたのよ。まあ、気晴らしにってあんたに会いにきたわけよ」
「…うそばっかり。で、本当の用件はなんなんですか」
菊果の肩がびくりと動く。
「あー……。んーとね、結婚」
ばれてしまったからには。そんなことを言いたげな表情で、菊果は躊躇いもせず言った。けっこん。その四文字に、麻は文字通り飛び上がる。周囲にいたまなみやメイドたちも驚いてはいるが表情は崩していないようだった。菊果だけは、平然としている。
「あら、百合ちゃん、まだ言ってなかったんやー…」
菊果はふんと意外そうな言葉を出しながらもまったく驚いてはいないようだ。彼女は麻が考えていた以上に、この組織に精通していた。どうやら百合とも繋がりがあるようなのである。道理でこの待遇だ、と麻は周囲を見回し頷いた。
「それで、どう。やっぱり嫌?」
「別に……いいですよ」
「あら、そお?」
菊果は不敵に微笑み、まなみに目配せをした。麻は黙ってその様子を見つめていたが、何も答えない。驚くほどに、あっさりとした答えだった。まなみは眩暈もする思いで、二人の様子を眺めていた。お金、立場、愛情、結婚、あとは……? ぐるぐると、わからない世界の言葉が彼女の脳内を廻る。そうこうしているうちに、すっかり麻と菊果の話は済んでしまったようだった。
「じゃ、ちょっと百合ちゃんとこ行こうかな。30分ほどでまた話しに戻るから」
突然、軽い命令口調で言いながら、菊果はそろりと立ち上がった。そばで突っ立っていたメイドの一人が慌てて彼女に近寄り、茶室の外においてあった履物を差し出す。彼女は微妙な笑みを消さぬままそこを去り、残された麻とまなみに妙な空気を残していった。
「……っあの、麻さん」
「何?」
まなみの突然の言葉に、麻は白けた表情で膝を抱えた。正座をしていたので脚が痺れているらしい。まなみは下唇をかみ締めながら生真面目な表情で麻と向き合っていたが、麻はそっぽを向いて切なそうに天井を見上げていた。開いた窓から吹き込む風が彼女のワンピースの裾を翻す。己の裾をも掴みながら、まなみは麻に近寄っていった。畳と薄い生地が擦れる音が聞こえる。一人残されていたメイドは気まずそうに俯いた。相変わらず、麻の冷たい視線はまなみを見ていない。
「麻さん、あの、その……」
まなみが気まずそうに口ごもると、麻はこれまでとは様子を変え、ゆっくりと振り向き、ため息を吐いた。
「マナちゃん、もしかして」
表情を少し和らげながら、麻が言う。
「吃驚してた?」
無言で首を縦に振りながら寄り添ったまなみをじっと見ながら、麻は不思議そうにきゅっと自らの膝をきつく抱いた。
「たぶん」
「そっか」
短い言葉を交わした後、二人の間に沈黙が流れた。誰もそれを切り出そうとは思わなかったが、麻が不意にまなみの手をそっと取った。
「菊果さんね。私が子どものときに、すごくお世話になった人。いつもあの人に助けてもらってて、私が学校に行ってまともに教育を受けられたのも、殺されたりせずに済んだのも、毎日のご飯でさえ食べられたのもみんなあの人のお陰なの。私が売られた先――西家、さっき言ってたお家ね。そこのおかあさんがとて厳しくって」
麻はしんみりと寂しげに言った。この人はどこまで自己犠牲を徹すのだろうかとまなみは素朴な疑問を覚えたが、黙って耳を傾けることにした。麻はまなみの様子など微塵も気にせず話を続けてゆく。残されていたメイドは独り言のように、用事ができましたのでと呟き、そそくさと出て行ってしまった。
「あの人も相当苦労してきた人だから。お姉さんが必死の思いでやっと手に入れたものを、私なんかが壊したくない。だから、私が行かなくちゃいけないかなぁって」
微笑を浮かべたままきっぱりと言った麻に、まなみはやっとのことで声を絞り出した。まるでカエルのようにかすれてしまっている。放心したように、囁いた。
「耀さんは? 陽さんは? ……私や伊里ちゃんは?」
もともと大きくつぶらな瞳をさらに見開いたまなみを、今度は麻が凝視した。どうやらまなみが彼女に疑問を吐いたこと自体に驚いたらしい。和室の畳を半ば撫でるようにしながら、風で乱れた髪を麻は直しながらまなみをじっと見つめていた。彼女のきつい視線に目を逸らすことができず、まなみも戸惑いながら彼女を見ている。
「そんなの……。だって、マナちゃんや伊里ちゃんだっていずれ売られるじゃない、ここは人身売買をする会社なんだから」
考えてみれば、当然のことである。まなみは一瞬怯み、下唇をかみ締め、俯いた。そうだ、麻に限らず、自分だっていつかは売られるであろう身ではないか。どうしてあんなにばかなことを聞いたのだろう? まさか自分が永遠にここで暮らせるとは思っていないはずだったろうに。そう、いつかは誰かの奴隷となって生きるのに! 彼女は自身に対する怒りを覚え、黙って麻と同じように膝を抱えた。