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「お母さま、お父さまはお見えにならないのですか?」
娘の言葉に、レーナはほうと溜息を吐いた。母親の重苦しい態度にリリーは一瞬怯んだが、腰掛けた椅子から離れようとはしなかった。大きく円らな瞳、細い鼻筋、そして煌く金髪などは母親譲りだが、その度胸もどうやら母親からの遺伝であるようだ。
「こちらへいらっしゃい、リリー」
「はい」
座っていたソファーで手招きをし、リリーを隣に座らせると、レーナはその髪を母親らしく優しく撫でた。
(この子の実の父親は誰であろうと、この子が私の娘であることに変わりはないのだわ。たとえ独り身だろうと女社長だろうと、絶対に守ってやらなければ。ああ、私の可愛いリリー。本当はもっと抱きしめたい、愛してやりたい。けれど、それは私の立場上、今はまだやってはいけないことなのだわ。この子が私を、私の仕事を認めてくれるまでは。愚かなお母さまを許して頂戴、リリー……)
脳裏では涙を流しながらも、実際は感情を顔に表さない。長年の苦労と辛抱で身に付けた技だった。たとえ肉親であろうと娘であろうと、信用できるとわかるまで決して本心は見せず、自己防衛を徹す。それがレーナのやり方だった。
「あのね、リリー。お父さまとお母さまは、もう一緒には住まないの。分かるでしょう、リリーにも苦手な人はいるわよね。お母さまもお父さまも、一緒にいるのがとても苦しいの」
母親の言葉を聞いたリリーは、大きな目を見開き、何度か瞬きをした。
「お母さまはお父さまが嫌いなの?」
「ううん、嫌いじゃないわ。とても好き、大好きよ。でも、一緒には暮らせないの」
リリーが言う「お父さま」はリリーの実の父親ではない。レーナの再婚相手であるアランという男のことだ。リリーは実の父親である陽のことを知らないのである。
「でもね、リリーの本当のお父さまと一緒に暮らせるのよ。とっても優しくて絵が上手で素敵な人。その人があなたの本当の父親なの」
最後の部分だけにあえて「父親」という言葉を使った。レーナにしてみれば、敬称というものはただの飾りに過ぎない。彼女はそれよりも、あのすばらしい男が娘の父親であることを強調したかったのだ。
「本当のお父さま?」
「そうよ。あなたにそっくりだわ。もうすぐお会いできるのよ。だから、早くきれいなお洋服にでも着替えて、髪を整えてもらいましょう。人を呼ぶわ」
「はい、お母さま」
リリーは何が何だか分からないまま、曖昧に返事をした。いつもレーナはこうだ。だが、少女に逆らえるほどの知識や能力があるわけもなく、携帯電話を取り出した自らの母親を虚ろな目で見つめていた。
(わたしの、ほんとうのお父さま。わたしに似ていて絵がお上手ですてきでやさしい、ほんとうのお父さま。一体どんな人なんだろう)
幼い少女は僅かながらも儚げな希望を胸に抱いていたが、それでも母親に対する大きな戸惑いが消えることはなかった。