18
「あ、麻さん、お帰りなさい。……あれ、新入りさん?」
「ただいまー、マナちゃん。こちら伊里ちゃん、19歳」
10畳ほどの三人寮に着くと、麻はぽすっとベッドに倒れこみ、うつむいたままもごもごと話した。伊里はうつむきながら、大きな荷物袋を片手に、入り口で突っ立っている。彼女が頭を下げたときの風で、玄関に置かれた植物がふわりと揺れた。
飯田まなみは紅茶のマグを片手に、その姿をまじまじと見つめた。麻ほどに細くはないが、体型は悪くない。身長は155センチといったところだろう。かなりの小柄な19歳である。
可愛いけど、なんだか人形みたい。しかも麻さんみたいに体が弱そうだし。あたしは大柄だし健康だからいいけど、この子は大丈夫なのかなあ。顔は中の上くらいかな。さまざまな憶測をしているうちに、麻が再び口を開いた。
「伊里ちゃん、この子はマナちゃん。優しいから心配しなくてもいいよー、お茶はポットがあるから自由に入れて。ベッドは一番奥の窓際で、ワードローブもベッドの横にあるから」
よほど疲れているのか、ベッドにうつ伏せたままだ。ワードローブに近づく際、背中が大きく開いた制服のワンピースから、とても綺麗な背中が見えた。少し骨ばっているが、滑らかで柔らかそうな肌である。伊里は少し恐縮しながらも、さらに近づいた。すると、首筋の内側に、赤い痣が見えた。その痣があらわしている事は明確だ。だが、まなみの首筋にそんなものはなかった。やはり麻の外見上での影響は大きいのだろうか。
「見て驚くよー、その中身」
綺麗な四肢を半分晒したまま眠り始めてしまった麻からいったん離れ、ワードローブの扉に手をかけると、まなみがクスクスと笑った。 もしかするとああいうものが入っているのだろうか、と伊里はつい、考えた。B級の官能小説などで聞く、メイドにつきものの縛り縄や手枷を無性に思い出してしまうのだ。ここは高級なところであるため、やはり生々しい制服や場所などはないが、麻の体をみていればごく一部でもそういう部分があるのは明確だ。
「わっ、何これ……」
幸い伊里の予想は外れていたものの、中身は想像の範囲を超えていた。数時間前に自分が着せられた白いワンピースとまったく同じものが、30枚近くハンガーでぶら下がっているのである。その下の小物入れには指定の髪留めやネームプレートなどが丁寧にも入っている。
(一体何に使うのかしら、そんなに汚れるの? それにしても、綺麗な生地……)
自分の置かれている状況を忘れ、伊里はワンピースのなかから一枚を手に取った。ワンピースは、贅沢にも絹でできていた。柔らかいそれは、幼き頃に亡くした母を思い起こさせる。母はいつも絹のストールを纏っては「いおちゃん、いおちゃん」と可愛がってくれたものだ。今では伊里のことを「いおちゃん」という愛称で呼ぶ者もなく、温かく柔らかかった母も亡くなった。いるのは冷たい心の継母と、娘の気持ちなど考えずに後妻の言いなりになっている貧乏親父の父親だけだ。その事実が、無性に悲しみを呼び戻した。 ワンピースを胸に抱き、しゃがみこんだ。心が痛い。麻やまなみの前であるにも関わらず、伊里は再び嗚咽し始めた。
かあさん、かあさん、かあさん。優しい声で名前を呼んでよ、そっと包んでないで姿を見せてよ、わたしを家に帰してよ、「私の可愛い伊里」って言ってよ、ねえ、母さん……。涙がどうしようもなく溢れた。辛いでも悲しいでも苦しいでもなく、ただ心が痛い。一体、母以外の誰がわたしを愛してくれたことがあっただろうか。あんなにも温かい腕で包まれたことがあっただろうか。あれほどまでに大切にしてくれた人はいただろうか。
「あの、伊里ちゃん……?」
伊里の嗚咽を聞き、跳ね起きた麻がそっと聞く。だが、伊里は返答しなかった。きっと、麻は大勢の男に愛されてきたことだろう。そんな者にあたしの何がわかるというのだ。誰からも愛されず、一人寂しく生きてきたわたしの気持ちが誰にわかるというのだろう。
(父さんや家から引き離され、連れて行かれる場所を継母から聞かされたあの時のわたしは安堵していた。たぶん、人身売買の会社なら、わたしのように孤独な人が多いと思ったからなんだ。でも、違った。ここは身分と外見勝負。麻さんはわたしとは違う、きっと誰かに愛されてる。まなみさんだって、朝のあの女だって、あの小さな女の子だってきっと愛されてるのに)
「んー、伊里ちゃんまた泣いてるしー。あ、マナちゃん、その瓶まだ片付けないでよ」
「ちょっと麻さん、飲みすぎです。いい加減にしてくださいよ」
ちらりと麻とまなみの様子を涙目で伺ってみると、そこでは不思議な光景が繰り広げられていた。麻は自分のことを心配しているのかと思いきや、そうではなかった。先ほどの甘ったるい声は、恐らく酔っているためだろう。改めて顔を見てみると、ほんのりと頬が赤く染まっている。酔っているその姿さえも色っぽく美しく、伊里はさらなる嫌悪に落ち込んだ。 まなみと麻はそれでも気にせず、相変わらず酒の瓶の取り合いをしている。どうやら、麻は酒癖が悪いらしい。
「もう飲んじゃダメですって」
「いいじゃないー、別に。オーナーとか依子さまには呼ばれてないしー」
麻は酔っ払うと語尾が伸びるらしい。
「……と、いうことは陽さまにお呼ばれされてるんですね。あ、もう6時じゃないですか、お約束の時間なんじゃ…」
「ふーん、知らないもーん、あんな悪漢」
「麻さん! 社員に聞かれてたらどうするんですか!」
ふーんだ、と麻は派手にフローリングに寝転がった。ベッドとベッドの間に挟まるようにして転がり、嬉しそうにきゃっきゃと笑い出す。
「あー……。ごめん、伊里ちゃん。手伝ってくれる?」
「へっ?」
どういう意味での‘手伝う’なのだろうか。しかし聞くことはせず、伊里は赤く充血しているであろう目を軽く擦り、まなみの横に寄った。
「姉さ……ううん、このひと。酔っ払うとすぐに寝ちゃうの。今日は陽さんに呼ばれてるはずだから、着替えて行ってもらわなくちゃ」
まなみは呆れたように溜息を吐き、麻の体を揺さぶる。一向に起きそうな気配は無い。まなみは口を尖らせながら麻を抱き起こし、一番近くにあった自らのベッドに横たわらせた。 それは人身売買社の寮で行われていることでなければ、ごく普通の上司と部下が繰り広げるような光景だろう。だが、伊里は泣きたいながらも不思議な姿を目にしていた。
(まなみさん、目が笑ってる。ばかにしてるんじゃなくて……、そう、微笑んでる。呆れてるように見えるけど、この人本当は麻さんを微笑ましく思ってるんだ)
そんな考えが伊里の脳裏を過ぎった。その間にも、まなみは手を止めなかった。
「あの、すいません、陽さんって誰のことでしょうか?」
伊里が恐る恐る呟くと、まなみは彼女の方に振り返った。
「あー、言ってなかったんだ、麻さん。陽さんは社員の一人。絵がうまくて、あたしら商品候補に大人気」
「はあ……」
どうやらまなみはかなり大雑把で寛大な性格らしい。
「でね、麻さんがすっごくその陽さんに気に入られててさ。この人、こう見えてもう25歳だから、自分でも分かってるはずなんだけどね。でも自覚してないみたい」
まなみはにこにこと微笑みながら、なおも言う。これではまるでまなみが麻の年上のようである。
「あーっ、もうこんな時間。ちょっと着替え、手伝ってくれない? 初対面でこんなことさせるのも悪いんだけど……」
「だいじょぶ、です」
きっと目は赤く腫れている。だが、伊里は思わずまなみの言葉に頷いていた。
「ほいっと、あ、そこの引き出しから白いのを取って」
「うん、それ」
まなみは相当麻の扱いに慣れているらしく、するすると白いワンピースを眠ってしまった麻の体から剥がす。伊里は思わず目を逸らした。いくら女同士とはいえ、ごく普通にこのようなシーンを展開されては困惑するのも当然だろう。まなみは伊里が渡した白いブラウスを麻の肩にふわりとかけ、ボタンを留めはじめた。麻は相変わらずむにゃむにゃと寝言を呟いている。
「綺麗……」
伊里は思わず呟いた。どうして初対面の女の半裸を見ているのだろうかという疑問を抱きつつも、本当に麻の体は綺麗だった。細すぎるほどの腰はしなやかで美しかった。
「綺麗だよねー……」
まなみもほうっとした表情で答える。伊里がさりげなく彼女の手元を見ると、まなみの手先はまるで貴重な宝石か何かを扱うような丁寧な動きで動いていた。
「と、いうか。このままの状態で出すのは無理かな……」
まなみははっと気が付いたように手を止めた。麻はふにゃふにゃと眠っている。このままで社員の前に出すのは失礼極まりない行為となるだろう。 しかし、あの陽や耀のことである。気になど留めぬ、寧ろ喜びそうな気もする。が、ともかく内線で晴海に電話をかけた。
「もし、もし。すみません晴海さん、東棟2009号室の飯田です。同室の宮村麻が条芝さんに呼ばれてたみたいなんですけれど、本人が体調を崩してしまっていて、伺うのは無理だそうで……」
条芝とは、陽のことである。社内で商品が社員を呼ぶ場合、正式には苗字で呼ぶ方が正しいためだ。
『あら? 麻ちゃん、さっき見たときは元気そうだったけれど?』
「あ、その……急に胃の調子が悪くなったみたいで」
電話越しに、晴海は怪訝そうな声を出す。まさか、酔っ払っているからなどとは言えまい。とっさに出任せを口にした。
『あ、そうなの』
「はい。それで、条芝さんにご連絡して頂きたいのですが」
『分かったわ。あら、もうこんな時間。伝えておくわね。どうもご苦労様』
「いえ、すみませんでした」
『あなたが謝らなくてもいいわよ。麻ちゃんはあとでたんまり叱っておくから』
晴海の冷徹な笑みが脳裏にくっきりと浮かぶ。心のなかで溜息を吐き、麻を哀れに思いながらまなみは電話を切った。 おろおろと今にも泣き出しそうな伊里を尻目に、まなみは麻に布団を被せた。明日は長くなりそうだ。