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失墜  作者: ゆかこ
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 妹とは十年前に大喧嘩をし、離れた。原因は些細なことだったが、お互い大き憎悪を抱いてしまい、謝るに謝れぬまま家を出てきてしまった。考えてみれば、突発的で遊んでばかりだった自分や、自由すぎる両親の苦労や責任を背負ってくれたのは妹だった。今となれば、申し訳ない気持ちで一杯だった。だが、妹は兄が人身売買で商売をしているなどと聞けば、なおさら怒りだすことだろう。今更帰っても、どうにもならない。半ば絶望のような寂しさを抱きながら、耀は考え込んでいた。依子はトイレに立っている。自分は依子のように強くはない、妹に文句を言う資格など到底ないだろう。


 一体、私は何をしてきたのだろう? 妹を傷つけただけか、それとも両親に憎まれただけなのか。米国人である母親譲りの碧い目とオリーブ色の髪を含む綺麗な容姿が何だというのだろう。優れた頭脳と計算能力が何だというのだろう。それだけ妹は苦しんだのではなかったのか? 結局は外見と中身の側面だけを利用した見掛け倒しではないか、自分は。家族や人間としてはこれっぽちも役に立っていない。一体自分は何の役目を果たしているのだろう?


 頭がひどく痛んだ。元々哲学的なことを考えるのは苦手だったのだ。頭のなかで情報や気持ちがごっちゃになり、気持ち悪さを覚えたところで依子がトイレから戻った。


「ただいま。ずいぶん悩んでるね」

「……別に。大したことじゃありませんよ」

「あんたも素直じゃないねー。陽ちゃんに説教たれてる場合ー?」


依子はにやりと笑う。そばにいたメイドに紅茶を要求し、彼女はどかりと座り込んだ。


「今日のあんたはラスコーリニコフ。妹を犠牲にして一人で苦しんで。そんでねー、私はラズミーヒン」

「結構、結構。ラスコーリニコフは賢いんですよ、知りませんでした?」


 主人公、ラスコーリニコフ。依子は彼が大好きなのだ。こちらの心が痛むほどの罪悪感を投げかけてくる。依子はこう見えて文学好きだ。両親が亡くなったのち、すっかり孤独になってしまい、読書以外にすることがなかったのだ。


「うん、私は……」


 依子が何かを言いかけたとき、突然誰かが声を上げた。悲鳴などではない。依子は邪魔されたことに顔を顰めつつも、口を開いた女がレーナだということを知ると、くるりと振り向き彼女に注目した。


「みなさま、紹介が遅れました。娘のリリーです」

「まあ、社長。お嬢さまがいらしたの?」


 レーナはいつの間にか、隣にリリーを連れていたのだ。桃色と白のドレスで着飾った少女は特に緊張している様子もなく、小さなクッキーを口に入れていた。母親の会社に連れてこられるのは慣れているのだろう。その様子を見て、百合が声を上げたのだった。もちろん、百合もレーナに娘がいることなどとうに知っている。だが、これも社交辞令だ。フランス支社は日本支社よりも遥かに売り上げが大きいのである。


「ええ。前夫との子ですの」


 レーナがさらりと言い、にっこりと微笑むと、リリーも小さく笑顔を作った。やはり、こなれた仕草だ。なんと小生意気な子供なのだろう。確かに目鼻立ちは整っているが、母親に似て性格が大層悪そうだ。


「あれ、たぶん嘘。あの人の旦那見たことあるけど、あんな顔と違う。もっと生粋のヨーロッパっぽい顔だったわ。あの子、もしかしたら日本人とのハーフかも。相当血は薄いようだけど」


 レーナや百合、他の客に聞こえぬよう、依子は耀に小さく囁いた。確かにそうなのである。リリーにはどこか日本人に似た顔立ちの面影があった。彼女の顔にふと見覚えがあることに気付いた耀は、はっと息を吐いた。


「似てますよ、あの娘」

「誰に?」


 その答えをいうことはなかった。否、言いたくはなかった。依子は気が付いていないようだが、リリーという娘はあの男にそっくりだ。繊細そうで偏屈そうな細い眉と大きな瞳は、まるで陽そのものなのだ。


 やはり、あの男には女がいたか。それも、このような高飛車で高慢な女だ。それでも陽は麻を墜とそうと必死なのである。やけに腹が立つ。自分だって、もしかすれば麻を愛しているのかもしれない。それは、耀だって友達として麻を抱くという卑怯な行為もしたが、それは麻の許可もあってのことだ。ましてや、乱暴や他の女との関係を持ったりしていなければ、麻を心で束縛することもない。自分はこれほどに努力し麻を愛そうと努めているのだ。いったいどうして麻は陽に従ったりするのだろう? その気になれば逆らうことだってできるはずではないか。耀はまたもや麻についての陽に対するひどい怒りを覚えながら、依子の耳元で囁いた。


「陽、ですよ。似てません?」


依子が驚いたように大きく息を呑んだのは、その数秒後もあとのことであった。


「似てる、かも。そう言われればあの目と口、そっくり」

「でしょう?」

「うん。性格悪そうなんはたぶん母親譲りなんだろうけどね」


 二人は声を潜めつつ、顔を見合わせて笑った。まったく、耀とは良い皮肉友達である。皮肉や嫌味を言いあうことをここまで楽しめる相手はそうそういないだろう。


「ん? 待てよ、もしあれが陽ちゃんの子供なら」

「あ、そうですね。さっき前夫って言ってましたし」

「そういうことよね! あれ、じゃあ麻は?」


 はっと気が付いたように耀が手をぽんと叩くと、依子は背筋を伸ばした。ざわりとした悪寒が体を走る。 あの男は、麻を弄んでいたのか。それに、いくら同僚とはいえ、他支社の上役と関係を持ってしまったのだ。それは、誰にとっても不利益なことではないだろうか。また、耀は恐らく麻を想っている。あの二人は、特殊な交友関係を結んでいることを気付かれていないと思っているらしいが、甘い。人身売買社会の情報ループがどれだけ速く細かいかを知らないのだろうか。依子はもう、麻と陽、そして耀の関係について熟知していた。

(私って、結局何? 麻ちゃんを守りたいのか、耀を助けたいのか、陽が憎いのか。それとも、自分の地位を上げたいだけなのかな。私は結局、何がしたいんだろ)


「越えられない壁って感じね」

「何が?」

「ん、何でもない」

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