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失墜  作者: ゆかこ
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「ダサいって思ってるでしょ、でも事実、これが」


 さも面白おかしそうに、依子が微笑んだ。先程まではずいぶん真剣に悩んでいた耀だったが、午後3時のティータイムの時間ともなれば、ぐだぐだと言ってはいられなかった。このティータイムは社員会議の一種で、それこそ大きな議題は出したりしないが、上の社員も下の社員も会話を交わし、相手が何を考えているのかをうまく捉えるためのものなのだ。必然的に、毎日の出席は暗黙のルールとなっている。そのなかで、耀は偶然依子を見つけ、彼女と話していたのだ。普段は話が滑稽なのと立場からして依子は皆に引っ張りだこなのだが、今日はフランス支社長であるレーナ・ロマーネがやって来ているため、上層部の社員は彼女の相手で精一杯だったのだ。ぬるくなった紅茶を少し飲み込むと、耀は言った。


「ダサいとは思いませんけど。でも意外ですね」

「褒めてんのん、それー?」

「さあ。どうでしょう」


 耀が可笑しそうに言い、そっぽを向く。その際見えた景色は、特別良くも悪くもなかった。やはり、一番窓の外が醜いのは秋の終わりから冬の初めにかけてであり、最も美しいのは爽やかな風が通る梅雨の明けた夏頃だろうか。とにかく、今は春がやってくる手前であるため、そう醜くもなかった。桜が咲けばもう少しぱっとすることだろう。いま見えるものは中途半端に咲き始めた梅の花と灰色の雲が浮かぶ青緑色の空だけなのだ。


「別に私がヤンキーと付き合ってたっていいじゃない。そんなに嫌な過去なんかな」

「そうですねえ……、まあ、私は頭の悪い連中は嫌いですね。話のレベルがとてつもなく低い」

「きっついこと言うねー。私はいわゆる『不良』って結構好きなんだけどなあ」


 上目遣いで珈琲を啜りながら呟く。依子は完全に学生時代に戻った気分でいたのだ。


「よしてくださいよ、もう三十にもなって」

「失礼ね、そんなこと言ったらあんただってもう35じゃない」


 耀は年齢の話をひどく嫌っている。彼は不服そうに、紅茶のカップを覗き込んだ。底に残った黒い粒がゆらゆらと浮いている。


「私、学年……。ううん、学校一の不良と付き合ってた」

「へえ。そうなんですか」


 なにかじとじととした雰囲気が二人を纏う。だが、依子や耀は気にせずにだらだらと会話を続けていた。依子の長い髪が風に揺れ、まるで逆上がりをしたかのように吹き上がった。にやにやと楽しそうに微笑む唇と目は、普段以上に耀との会話に魅力を感じているようだった。


「何、面白なさそうな顔して。本当よ?」

「知ってますよ」


 大袈裟に溜息を吐き、肩を竦める。そんな耀の態度をみた依子は、ふんとでも言わんばかりに立ち上がった。


「いい、もう。もっとちゃんと話聞いてくれる人に言うもん」

「はい、はい」


 あわてて依子を再び椅子に座らせ、耀は仕方なしに彼女の話に耳を傾けた。


「ところで本当に貴女たちは『財閥』とか『○×グループ』みたいな言葉好きですよね。最近はメイド課の娘たちまでどこの財閥に買われた誰がどうのこうの、だなんてくだらない会話ばっかりですよ」

「あら? お金持ちに越したことはないじゃない」


 依子の言葉に、耀は苦笑いした。


「まあ、そうですけどね。あのギラギラした目を見ればわかるでしょう」


 そう言い、顎で斜め前に座っている中年の男を示した。趣味の悪い金色の時計や高級品らしい紺色のスーツが、その欲深さを語っている。彼は嫌味で下品な笑い声を立てながら、百合となにやら話していた。だが、その視線は百合の肩越しに、誰かを見ている。その誰かというのは、楠原朱実であることを耀は瞬時に察知した。百合のすぐ後ろに控えている彼女は、メイド課に属する優良商品で、その美しさは並大抵のものではない。さらさらと浮かぶ少し癖のある栗色の髪と大きな円らな瞳は、中々見られない美貌である。その容姿は、麻を越えるほどのものだと耀は認めている。そのような女を、あの男は汚らしい目で凝視しているのだ。その想像が思いのほか不快で、耀は顔を歪めていた。その様子をみた依子はけらけらと女らしくなく笑いながら、目を細めた。


「耀くん、面白いわ。でも、私、ああいうの嫌いと違うよー? ちょっとケチっぽいけどね」


 クスクスと尚も笑いながら付け足す。過去の恋愛話は、依子にとってすでに忘れられた話となっているらしかった。まったく気まぐれな同僚である。


「でも残念。朱実ちゃん、来年からの内定決まってんねんなー」


 嬉しそうに笑いながら言う依子。こよなく他人の不幸を面白がるのが好きな彼女は、恐らく典型的な暇な30代女の姿そのものなのだろう。耀は少量の軽蔑をも含んだ眼差しで彼女を見つめながら、ふっと笑った。


「それはそれは。さぞかしラッキーな方でしょう?」

「もっちろん。オーナーの知り合いの富豪やねんて。確か石油王とか言ってた気がするわ」

「なるほど。で、一体幾らぐらいで?」


 どれほどの値段であの娘の身が売られたのか、という意味だ。


「んーとね、現在はン千万。本契約の開始まであと半年以上はあるから、億までいくのも時間の問題やろうけど」

「ほう……。生き甲斐ってものも相当でしょうね、体にそれだけの値打ちがつけば」


 依子は頷いた。この社の商品たちは質も形も良い為、驚くほどに売れる。商品が商品なだけに敬遠する者も多いかと思われがちであるが、意外とそうではないのである。社内では、商品たちにまるで貴族のように扱われている社員たちであったが、外に出てみれば価値が高いのは商品の方だ。そのため、他社と比べ、商品たちはこのうえなく大切に扱われていた。


「そうよねー。私も時価一千万円の体と値札、欲しいわあ」


 アハハと笑いながら、依子は豪快に珈琲を飲み干した。

 彼女は小さな繊維会社の社長の娘だった。特に利益の大きい会社でもなかったため、一般サラリーマン家庭と家計は大して変わらなかったと記憶している。幼稚園、小中学校、とそれなりのレベルを持つ一貫校に通い、友人も多く、幸せに暮らしていた。容姿も頭も決して悪くはない。京都生まれの純なお嬢さんとして彼女は、それなりに人生を楽しんでいた。


 だが、その平和が皆無となって崩れたのは、中学三年生になる頃だった。その頃は中学校と同じ学園に所属する高等学校に通う予定だったため、受験勉強は必要なかった。簡単な進級試験だけで通れる程度であり、その試験に落第することなどまずなかったのだ。そんな思いで呑気に青春時代の真っ只中を過ごしていたところ、すべてが崩れてしまったのは、あの悪魔のような12月の日だった。雪が降り、ひどい寒さだったその日、両親は仕事の関係で北海道まで出掛けていた。依子はその日、友人とコンサートに出掛けていたので、両親に同行していなかったのだ。そのことは幸だったのか不幸だったのか、帰り際に依子の両親が乗っていた飛行機が天候のせいで墜落した。それも、青森と北海道を繋ぐ海の真ん中で、だ。何百人もの犠牲者を出した悲劇の大事故だった。コンサートで大騒ぎしている最中にその報道があり、乗客の遺族だったことが判明した依子は、すぐに青森へと連れて行かれた。その後のことはよく分からない。あまりにも機械的に葬儀やその他の作業が済まされてしまったため、妙な空白が依子の心に残ったのだ。


「たったのこれだけ……」


 依子は両親の骨壷を手に抱いたとき、思わず呟いたものだ。あまりにも少なかったのだ、質量が。あれほどに大きかった生粋の京男だった父も、豪快な大阪弁で何もかもを笑い飛ばしていた母も、死んでしまえば15歳の依子の両手にすっぽりと収まる大きさなのである。驚きと悲しみが彼女を無表情に無情にさせたのか、それ以来、依子には人が寄り付かなくなった。


 依子の明るく豪傑な性格は母親譲りだというが、恐らくそれを取り戻すのにはかなりの時間と苦労が掛かったのだろう。耀が同情さえ含む眼差しで依子を見つめると、依子はまた、イヒヒと笑った。


「でもな、あんたも家族は大切にせんと。いつ死んでまうんかなんて、分からないしね。私みたいな状況になる前に」

「分かってますよ。しかしね、私は相当家族に嫌われてますよ、特に妹夫婦にはろくに連絡もできない」

「何、男の癖に。言ってしまったら楽なもんよ、『ちょっとは兄ちゃん大切にせんかい!』って」


 依子は腹を抱えて笑った。いかにも自惚れに見える耀が肉親に嫌われているというのは意外な話だったのだ。


「ま、いいんですよ。妹は老いた両親の世話もしてくれてますしね」

「ええ? あんたの妹、長女でしょ? 当たり前よ、あ・た・り・ま・え。長女が老いた婆と爺の面倒見ないで誰が見るの」


 耀は首を竦めた。どうやら、妹が両親の世話をしている以上、彼に発言権はないらしいのだ。大きな背中に手を回し、依子は力を込めて思い切り叩いた。静かな茶の間には似合わない、乾いた大きな音が響く。その場にいた客の半数以上が振り向き、痛がる耀を尻目に、依子は小さく舌を出して笑ったのだった。

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