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あたたかい。
今のこの素朴でほんわかとした気持ちを表すならば、この言葉が適当だろう。とにかく、麻は何か柔らかいものに包まれていた。それも、ひどく心地よい。半ば快楽に近いものを感じながら、麻は目を開いた。艶やかな月光が目を刺激する。
「おはよう、麻」
聞きなれた声に、麻は寝転んだままとりあえず辺りをきょろきょろと見回した。どうやら、此処は自分の寮であるらしい。粘着質な、それでいてしっとりとした軟らかい声だ。そうだ、この声はあの人のものだ。 胸を締め付けられるような急な刺激に襲われ、麻は躊躇することなくその声を発した男に抱きついた。ふわりと髪を撫でられる。
「あったかい。あったかいね」
くるくると表情を変え、無邪気にも耀の胸に顔を埋める。その声色は、芯から嬉しそうだった。耀は彼女の華奢な体を愛おしそうに抱きしめ、細い首筋にそっと手を添えた。眠気のせいか、潤んだ瞳が心地よさそうにこちらを見上げる。苦しいほどにきつく背中にまわされたか細い手首は、今にも折れそうだった。やがて、耀はそっと麻の体を自らから離し、その目を見つめた。ぱちぱちとせわしなく瞬きしながら、見開いたままで耀を見つめる二つの目は言うまでもなく綺麗な茶色をしている。
「耀?」
「おはよう、麻」
「あ、ごめんなさい、私……」
自分の置かれている状況に気が付いたのか、麻は、まるで背中に火をつけられた狸のような勢いで飛び上がった。だが、耀はそんな麻を再び抱きしめ、大丈夫だと伝えた。何せ、まだ夜中の1時なのだ。焦ることはない。
「心配は無用です。私の方で調整してありますから」
「ごめんなさい、本当に。部屋まで来てくれたの?」
私が襲ったからこうなったんですよ、と耀は笑みをこぼしながら言う。そのしぐさに、麻はぽっと頬を赤らめた。昨夜の記憶が蘇る。どうやら陽と口論をしたらしい耀が、物憂げな表情を浮かべたまま、部屋に入ってきたのだ、受け入れるしかなかった。そしてそのまま、眠ってしまったらしい。自らの大人気なさに、麻は恥じらいながらも毛布を被ったまま、起き上がった。
「麻ちゃん? 目が赤いですよ」
「や……だ、ちょっと色々思い出しちゃって」
麻は眠気の覚めないまま、うるうると丸い目を擦った。ぽつり、ぽつりと細かな滴が手に落ちる。
「何かあるんなら、別に泣いても。私しかいませんしね」
嫌味なほどに、にっこりと耀は笑う。
「やだ。泣かない」
「意地なんて張ってどうするんです」
そう言い、ひどく優しい手つきで、耀は再び麻をふわりと抱きしめた。その行為が効いたのか、まるで何かの糸がぷつんと切れてしまったかのように、麻は急に嗚咽し始めた。 あ、自分はそれほどに痛々しい顔をしていたのか。それほどに可哀想なやつだと思われていたのか。耀の悲しそうな顔の歪みを見かね、麻は急に、哀しみが倍増したような不安に襲われた。
生ぬるい少量の液体が耀の首を濡らす。そのすべてを受け止められるように、と、麻の頭を丸ごと包み込み、耀はその髪をそっと撫でた。麻は彼に身を任せたまま、ぐすぐすと涙を流した。悔しさ、悲しさ、怒り、今まで背負ってきた疲労と苦しみ。そのすべてを涙で洗い流すかのように、麻は泣いた。あるだけの声と体力を使い、とにかく涙として外へ流す。その行為は、快楽に近い快感を心に招いた。
「……ん、ありがとう。もう大丈夫」
「そう」
一言だけ言う。それを確認した麻は微笑み、シャワーを浴びるからとシーツを細い体に巻きつけそそくさと部屋を出て行った。取り残された耀はベッドに体を預けたまま、深く考え込んでいた。
麻は自分を見てなどいない。恐らく、陽でも耀でもない誰かを心の底から深く愛しているのだろう。だが、その‘誰か’は二度と会えない‘誰か’なのだ。麻も薄々諦めがついてきているに違いない。耀は何故かしら大きな怒りを抱いていた。それが嫉妬心だったとは知るよしもなく、彼は苛立ちと不安をぐるぐるとめぐらせたままでいた。麻は一体、あの儚げな瞳で何を見ているというのだろう。あの娘は実は快楽など求めていないのではないのだろうか。快楽ではなく、自らを守護してくれる愛が欲しいのかもしれない。果たして、自分は彼女にどれだけの安心と愛情を注ぐことができるのだろう。心から愛しているということを露見できない身の上で、どうしてそんなことができようか。麻は半ば、自分たちに体を捧げてさえいる。彼女だって望んで売られてきたわけではないはずなのだ。自分は黙って去るべきなのだろうか。否、それとも外側だけでも、彼女に想いを寄せてしまった者として彼女の寂しさを満たす役割を受け入れるべきなのか。どうしようもない悲しみと口惜しさが、体中からこみ上げるようだった。