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失墜  作者: ゆかこ
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 心臓を冷たい手で握りつぶされるような冷たく痛い戦いを麻とレーナが繰り広げている間、耀と陽もまた、それこそ血の滲むような口論に陥っていた。耀が麻に睡眠薬を飲用させたことに対して、陽はひどく腹を立てていたのだ。それまで、麻は陽に逆らったことなどなかった。社員と商品の関係なのだ、無理もない。だが、陽は熱情のあまり、その事実を無意識に見失っていた。そのため、行き過ぎた耀の行為に、陽はこの上ないほどの怒りを感じていたのだ。社員食堂で耀と顔を合わせたそのときの彼の態度に、陽の怒りは爆発したのだった。だが、レーナや麻のように人前でいがみ合うことはせず、陽はあえて自らの事務室という場所を選び、耀を呼んだ。耀はいつも通り、余裕のある微笑を浮かべ、現れた。耀と陽の立場はほとんど変わらず、百合が耀を相当気に入っているため、耀は特別陽に媚びるようなことはしなかった。


「呼びました、陽?」

「はい、麻のことで話があるんですけど」


 自分の対にある椅子に座るよう促し、陽は普段と変わらぬ口調で延々と事情を話し始めた。はじめは気だるそうに椅子に凭れ掛かっていた耀だったが、次第にさも興味深そうに身を乗り出し、陽を挑発するかのような相槌を打った。


「唐突で悪いんですけど、頼みますから、麻を乱暴に扱うのはやめて下さい。売り物なんだし、社長も目をかけているし、もっと大切に扱って下さい」

「それだけですか? まったく、君という男も意気地なしだ」

「たとえば僕のどういうところが?」

「だから、麻が好きなんでしょう? それならそうと言えばいいのに」


 耀はさらりと言いのけ、煙草に火をつけた。銘柄はかのゴールデンバットだ。味は甘さやまろやかさとは程遠く、思わず顔を顰めるような渋い苦さだったが、耀はその香りが好きだった。甘ったるく緩んでしまいそうな心や体を引き締めてくれるような気がしていたのだ。そのきつい芳香に、一瞬陽は怯んだようだったが、迷わず話を続けた。どうやら彼は煙草を吸わない性分らしい。


「僕が麻を愛していると?」

「そこまでは言ってませんよ。愛なんてしても仕方がない。けれど、君は麻に多少の好意は抱いているわけでしょう?」


 耀は子供のように、嬉しそうに言い放った。揉めているなどという自覚はまったくないらしく、むしろ陽との会話を楽しんでいるようだ。


「それは、まあ、教育する側としての愛情は幾らかありますけど……。耀さんもそうでしょう?」

「ええ。柔らかいし可愛いし、悪くはないと思いますよ」


 やけにニヤニヤと、楽しそうに耀は言う。こちらを馬鹿にするような態度に、陽は舌打ちのひとつでもしたいような気分になっていた。だが、口でこの男に勝てるはずがない。


「まじめに聞いて下さいよ。こっちは真剣なんですから」

「大真面目ですよ。それとも何か?」

「……もういいです。とにかく麻に乱暴しないで下さい」


 実に嫌な男である。できることなら腹を蹴飛ばしてやりたかったが、そういうわけにもいかないのが現実というものだ。自分が麻を「愛して」いるのは明確だったが、それを認めたくはなかった。芸術家として、社の人間として、男として、陽には並ならぬ高いプライドがあったのだ。耀はそれをも含むすべてを見抜いていたようで、相変わらず気味悪くニヤニヤと笑んだまま、それ以上は何も言わなかった。


「抱けばいいじゃないですか?」

「は?」


 唐突に自信ありげな表情で言った耀に、陽は信じられない、といった風に眉を顰めた。


「女なんて抱けば落ちますよ? あ、もう知ってますよね」

「もう、いいですって。別に麻がどうとかじゃありませんから」

「本当に素直じゃありませんね。麻が落ちないわけだ」


 そう言い、笑いながら部屋を出て行った耀にひどく苛立ち、陽は乱暴にドアを閉めた。重い木製の扉は、それだけで建物中に響くような音を立てた。自分自身の失態を恥じながらも、陽は内心、妙な感情を抱いていた。


 果たして自分は本当に麻が好きなのだろうか。愛くるしい笑顔とこの上なく綺麗に輝く瞳は大好きだ。だが、何かが違う。耀と話し、はじめて気が付いたのだ。自分は恐らく麻に依存している。麻以外のことには、何の関心も持てないような身の上だ。明らかに依存している。どうしてこれまで気が付かなかったのだろうか、と彼はひどく悔いた。ここまで彼女に深入りしてしまったとなれば、きっと彼女を手放すことはできなくなるだろう。そう、まるで薬品や煙草のように、麻の姿は陽の心を鷲掴みにし離さない。考えてみれば麻のことを考えない日は一日もなく、目を閉じればいつも彼女を思い出していた。自分は一体どうしてしまったのだろう。本心はどこまで麻を「愛して」いるのだろう。理性と愛欲の間で、陽の心はひどく葛藤していた。


 外はまだ明るく、数羽のカラスが窓越しに自分を覗き込んでいる。恐れさえあたえるほどに澄んでいる空は、彼をずきずきと痛めつけた。雲ひとつない青空に、陽は拳を振り上げた。木漏れ日が心地よい。春はやってくるようだ、春だけは。





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