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「ねえ、アサ。私は話をするとき、とても長くなるの。だから予め聞くわ、時間はどれ位ある?」
「お客様のお時間がなによりですので、私はいつまでも」
相変わらず、お互い敵を威嚇するような口調である。レーナはこの不思議な笑顔を持つ麻に、憎悪とともに多大な興味を抱いていた。陽にあれほどまでに見事な肖像を描かせるほどに彼を夢中にさせた女。その上、この城の世話係を幾人も落し、はたまた数え切れぬほどのその恋人たちを恨ませた女。自分と同じ程度に男を落す力のあるこの女は、レーナにとって何よりの暇つぶしで格好の鴨だった。
「フランス語はお話になって?」
「ええ、少しなら」
麻は困惑しつつも質問に答える。正直なところ、フランス語はとても苦手なのである。だが、レーナの前で弱点を晒すのは何よりも嫌だった。対抗できるはずない相手に対抗しようとしている自分が心のどこかにいるのだ。その事実にもまた苛立ちを覚えながら、麻は乱暴にカップの珈琲を飲み干した。来客と‘商品’のペアにのみ使用が許されるこのティーラウンジは、社員用のものには劣るが、それなりに豪華だ。桃色の絨毯や濃い色の木製のテーブルはなかなかの風情を生み出している。窓から入る爽やかな夕暮れの風を浴び、少しの寒さを体感しながらも、麻はレーナという威圧的な話し相手との会話を半ば楽しんでいた。
「あなたは何だか、他のおばかさん達よりも話が分かりそうね。早速本題に入ってもいいかしら」
「恐縮です。どうぞ」
麻はレーナの言葉を促す。レーナは暫くの間、せかせかと働くメイドたちに視線を向けていたが、やがて、麻の方へ向き直った。整った綺麗な顔立ちだが、意地悪そうに曲がった唇が妙に目立つ。そんなレーナの顔を眺めながら、麻は少し首を斜めに傾げた。そうした方が、上手く笑顔が作れるのだ。長年の経験と失敗から生んだ技だった。レーナも同じような技術を心得ているらしく、彼女もまた、肩を少し竦めたまま笑った。
「では、いきなりで悪いのだけれどもね。陽をこれ以上、いじめるのはやめて欲しいの」
「はあ……。私が陽さんをいじめたと仰るのですか」
堂々と言い放ったレーナの視線は先ほどの半ば控えめなものとは違い、今度は明らかに麻を睨んだ。予想に反するほどの強く鋭い視線に麻は一瞬怯んだが、ぼそりと声を漏らした。詳細を聞くまで、自ら何かを話す気はない。レーナの表情はこれ以上直視せず、麻は掃除をし終えることのできなかった玄関をレーナの肩越しに眺めた。苦労して集めた木の葉が風のせいで散り、数時間もかかったものが台無しだ。大きなため息を吐いた麻が話をまじめに聞いていないことに気が付いたのか、レーナは再びにっこりと笑った。そして、周囲にも聞こえるような大きな声で言った。
「いい? とにかく私の陽をいじめないで。どうせ社員の一人に付けば売られないようにしてもらえるのでしょう、ここは」
レーナはにやりと笑みを深くする。その様子に、麻もしっかりと玄関から目を離し、きっぱりと言った。
「いいえ」
「随分分かったような物言いじゃないの。申し訳ないけれど、私はこの会社のシステムについて十分理解しているつもりだわ」
意味がわからない、といった風に麻が軽く眉を顰めると、レーナは勝ち誇ったように笑った。なんとも微妙な表情だ。六歳か七歳の頃、大きなフランス人形を祖母に買い与えられたことがある。それはとても綺麗な浅葱色の目をしており、幼いながらひどくその人形の綺麗な容姿を羨んだものだ。着ている細やかな装飾のドレスを真似て、布団を「ドレス」などと言って被っては母や姉を困らせたこともあった。まだ、母が健康で宮村家は幸せだった頃の思い出だ。麻は微笑ましくも涙が滲みそうなほどに懐かしい思い出に身を預け、しばしの間、レーナの表情を眺めていた。しかし、レーナが露骨に不愉快そうな表情を見せると、麻はそっと話の続きを促した。
「どういう意味でしょうか?」
「遅れて申し訳なかったわ。私、この会社のフランス支社の支社長をやっているの」
嫌味な音は一切入れずに、にっこりと微笑む。麻にとって、それは皮肉以外の何者でもなかった。
「そうでしたか。それは失礼致しました」
それだけ言い、できるだけ深く頭を下げる。嫌な女だが、自分より遥かに上の人物だと分かればこうするほかない。麻の困惑に気づいてか、レーナはさっと麻の肩を摩った。驚いた麻は顔を上げたが、レーナはそれを気に留めず、改めて口を開いた。
「それで、元の話に戻るけれど、陽を弄ぶのはやめて。ああ見えて弱いのよ、彼は」
いかに自分が陽を大切にしているかを表すような口調だった。だが、麻は既に見抜いていた。恐らく、レーナは陽を溺愛ともいえるほどに深く一方的に愛しているのだろう。そう、まるで陽が麻を愛すように、レーナはきっと陽をひどく愛している。だが、陽に気が全くない麻にとって、それはとてつもなく面倒で迷惑な話だった。できるものなら愛されたくもない男の恋人に、なぜ自分が恨まれなければならないのだろう。自らの不幸をひどく恨めしく思いながら、麻はレーナの話に聞き入った。
「それに……、陽は私のものよ。あなたには勿体無いもの、ねえ、そうでしょう?」
「はい、私もそう思います」
「あら、ずいぶんと謙虚じゃないの」
あなたが不遜過ぎるのでは、と漏らしそうになる口を押さえ、麻は莞爾として笑った。私は恋愛などしていない、という思いが伝わったのかもしれない。さも驚いたような調子でレーナが語った。
「もしかしたら、陽があなたを一方的に好いているだけかもしれないわね。でも、それはあなたにとっても彼にとっても不利益で不幸なことなの。分かる? だから、もし誘われるようなことがあっても、彼のためにもきっぱりと断って頂戴」
「はい。承知しております」
まるで雑用をと言いつけられたときのようにシンプルに答えた麻だったが、レーナは満足したようだった。最後の仕上げとも言おうか、レーナは締めくくりであるとでも言わんばかりに、派手な携帯電話の画面に浮かぶ写真を麻の目の前にかざした。その写真に写る人物は五歳くらいの少女で、犬を抱きながら可愛らしく笑っている。レーナによく似た顔をしていたが、彼女のように意地悪な表情はしておらず、また、唇も「へ」の字に曲がっていなかった。子供特有の純粋で綺麗な面持ちをしている。社交辞令としてその娘が誰なのかを麻が聞こうと試みる前に、レーナが先に言った。
「この子はリリーというの。私の娘で、陽の娘よ」
「陽さんのお子さん?」
「そう」
麻は内心、少々驚いていたが、それは顔に出るほどの大きいものではなかった。陽のことだ、その程度の過去ならあるだろうとは以前から睨んでいたのだ。また、陽にその気がなく、寧ろ逆である麻は格別その事実を不快に思わなかった。美男美女の陽とレーナのこと、可愛い娘ができるのは当然だが羨ましい、程度にしか思っていないのだ。レーナはそれを少し不思議に思ったらしく、さっと携帯電話を仕舞った。
「分かったでしょう? もう、陽には近づかないで頂戴」
「分かりました」
好きでやっているのではありませんけどね。心の叫びが心臓の裏側を叩くように脳裏を突いたが、あえて口に出すことはしなかった。この女との余計な揉め事は、麻にとって、極力避けたいものであったのだ。