大河の馬
たくさんの水の匂いが、しばらく前からしていた。次に、一定で、静かで、絶え間ない音が聞こえてくる。ダナンには、母からの水の加護がある。水の気配には人一倍敏感だし、水に害されることはない。
「流水の音がする。川があるみたいだ」
そう告げたときには首をかしげていたイネノの耳にもやがて水の流れの音が聞き取れるようになり、それからしばらくして、あたりが一気に開けた。
「すごい!」
イネノが歓声を上げる。かなり幅の広い大河だった。河原も広く、白っぽい小石が足元でじゃりじゃりと音を立てる。向こう岸は遠い。遮る木々がないため、山なみと学校だという建物が良く見えた。しばらく薄暗い森のなかを歩いた来たせいで、目が慣れない。
「これ、どうやって渡ろうか?」
水際から向こう岸を見ながら、イネノが困ったように呟く。水は清浄で、緑がかっている。ゆったりとしているように見せて、河は深く、流れも速いようだ。春先の河は水も冷たいだろう。
「泳いで渡るのは気が進まないな。イネノは飛行術でいける?」
「うーん、この川幅だとちょっと危ないかも。しかも水の上はちょっと苦手なんだよなあ。この三分の一くらいの距離なら大丈夫なんだけど」
「飛ぶ場所が飛行術に関係するんだ?」
「僕の場合は、結構する。飛行術ってひとくちに言っても、みんないろんな方法で飛んでるんだよ」
どういうことか気になるけれど、さすがにいまはその講義を受けている場合ではないだろう。イネノが浮遊術で確認したところ、蛇行しているし視認性が悪いところもあるけれどと前置きをしたうえで、見える範囲には橋や舟はないとのことだった。
上流か下流、どちらかに行けば何か渡る手段があるか、もしくは川幅のもっと狭いところを探すか。ダナンが思案をしかけたところで、イネノが右手をすっとあげた。
「あそこに、何か」
目を凝らすと、ぽつん、と、河の中央が不自然に盛り上がっていた。左右に揺れたそれが、伸びあがり、生きもののかたちをとった。似ているのは、馬、だ。
「水の精霊、だな」
それはゆったりとした動作で、ふたりの方へ歩いてきた。水の上を移動しているのに、一足ごとに石畳を行く馬のような蹄の音が響く。水の流れに邪魔されず、それはまっすぐにふたりに聞こえてきた。どういう精霊か分からないが、今のところ敵意のようなものは見えない。
「きれい。なんて大きな力のかたまり」
呆然とした呟きにダナンがイネノを振り向くと、目を瞠って見とれている。礼を、というと、慌てて頭を下げた。それを見届けてから、ダナンも手を胸に当て腰を折る。水際に、蹄が辿りつく。足は透明にも見える青と緑のうろこに覆われ、それは常に微妙に色を変えていた。蹄のまわりには水が渦巻き、泡を立てている。
「この河を司る方でしょうか。我々はこの先のジュロウ学校の新入生です。学校へ向かう途中にここに辿りつき御身の周辺をお騒がせすることになりましたが、河を荒らす意図はございません」
ふんふん、と鼻先で額を嗅がれる。それから頬が頭にこすりつけられた。水の匂い。友好的な態度にダナンは安堵する。多分に、同じ水の精霊である母の恩恵があるだろう。顔を上げると、やはり馬に似た頭部があった。ただ、長いたてがみには鰭がまざっており、耳の横からは鹿のような枝分かれした角が生えている。瞳は河の色と同じ緑で、優し気にダナンを見ている。首筋に抱き着き、挨拶をする。
「オレはダナンと言います。こっちはイネノ」
「はじめまして」
―う、ぶふう、ぐるぅぅい。
笛にも馬の嘶きにも似た声。不思議な節回しでいくつか繰り返されるそれに、ダナンは困った。分からない。
「イネノ、分かる?」
「いやいやいや、こんなに大きな精霊にこんなに近い距離で会ったのも初めてだ。分かるわけないよ」
精霊の言葉は、基本的に人間には分からない。あまりにもその姿かたち心のありようが千差万別だからだ。彼らは基本的に自然に属するもので、大きな力を持てば持つほど人とは遠くなり、ダナンの母のように人に心を開き人の近くにあるものは、珍しくなる。
こちらが理解できていないのに気付いたのだろう。馬の精霊は仕方ないなというように口をつぐんだ。
「この後の道のりのために、川の水を汲ませていただけないでしょうか」
長いまつげが二回上下し、精霊はゆっくりと歩き出す。着いてこい、と言われているようだ。ダナンとイネノは顔を見合わせてから、その後に従った。河へ枝垂れている柳の老木を超えると、精霊は止まって鼻づらを川辺に付けた。近寄ってしゃがむと、そこは浅くなっていて、ぷくぷくと空気が浮かび上がっている。湧水だ。いちばん綺麗な水のところへ連れて来てくれたらしい。ふたりで御礼を言って、水筒をいっぱいにした。
イネノが、懐から豆菓子を紙のうえにおいて、精霊に供える。
「お水の御礼です」
なるほど、確かに。ダナンも一緒に手を合わせるのを、精霊はどこか面白そうに頭を揺らしていた。それが自分にささげられたものだと理解しているようで、ひとつ足を踏み鳴らすと、水際の水が盛り上がり、紙を河へと引き込んだ。それは河の中央に向かってゆるゆると進み、やがて沈んだ。
「ここで昼にするか」
「いいね。少し早いけど、安全そうだし、気持ちがいい場所だし」
何となく精霊にも断りをいれ、腰を据えて、袋から配給された携帯食を出す。みちみち、食べられそうな山菜なども採っていたが、それらは夜に火を焚いて食べようと話しあっている。この山では携帯食が尽きても飢えることはなさそうだった。春が始まっていてよかった。
精霊は、昼食をはじめたふたりから離れず、変わらずに優しい目で見守っている。
「大きな精霊って、もっと人と距離をとっているものかと思っていた。いままでちらっと見かけることはあっても、目が合ったことすらないよ」
「こんなに近くにずっといてくださるのは、すごく珍しいと思う。どこかにお社のある精霊かも」
「ああ、なるほど。人と接点があるのかもしれないね」
社で崇め祀っても、それを精霊がどう思うかはそれぞれの精霊の勝手ではあるのだが。
半身を水に沈めていた精霊が、小さく首を縦に振る。ダナンたちの話を理解しているのだろう。どうであれ人好きな様子なので、ふたりは軽い自己紹介や、今日集まってからの出来事を話しながら昼食をとった。
後片付けをして立ち上がってから、ダナンはさてと精霊に声を掛けた。
「向こう岸に渡りたいのですが、橋や船などがないか、ご存じありませんか?」
甘えすぎだろうかとも思うものの、精霊は特に気にする様子もなく、また着いてこいというように河辺を進み始めた。しばらく上流に行ったところで、歩みが止まる。とんとんとん、と並足で河のなかへまっすぐ入っていき、こちらを振り返った。
「ここ? 何もないように」
見える、と言いかけて、ダナンは河のなかに何かあるのに気付いた。姿勢を低くして光の反射を避け、流れを見る。
「河の下に、飛び石が続いている」
川底から伸びた石柱が並んでいるようだ。
「ほんとうだね、なんだろう?むかしは橋があって、橋げただけが取り残されたのかな?」
「橋げたにしては並び方が均等すぎるし、橋だと2列残る気もするけど」
ダナンは履物と足袋を脱いで、最初の3つくらいを歩いてみた。その上は滑ることもなく、揺れることもない。間隔も歩幅にちょうどよかった。これは歩いて渡るように作られているのだと確信できた。問題は、きちんと向こう岸まで続いているのか不明なことだ。そこは精霊を信じるしかないか。
「イネノって、体幹と筋力に自信ある?」
「え?」
「この辺りはいいけど、中央はかなり流れが速いだろう。それに負けないで歩かないと流される」
石柱がいかに安定していても、こちらが少しでも流れに足を取られれば、河に落ちる。川幅の広いせいでのどかな水の動きに見えるが、流れている水は重い。
「なるほど。水位がふくらはぎ位までで済んだとしても、ちょっと自信ない」
河の水に手を付けて、イネノがぶつぶつとつぶやく。
「結界、は水を通さないの難しいな。盾状にする?いやでも一部だけ流れを止めてもうまくいかないか……なんとか、半分まで行けないかな。そのくらいまで進めば残りは飛行術でいけるんだけどな。ダナンは何か手がある?」
「歩く。イネノもオレが背負うよ」
「えっ」
「その代わりこれ、大事なものなんだ。持ってて」
脇差を腰から外して、ダナンはイネノに渡した。それを咄嗟に、でもしっかりとイネノが受け取った。
「僕は重い、とは言えないけどさ、軽くもない。と、思う」
いやさっき抱えたときすごく軽かった、ということばを、ダナンは呑み込む。
「大丈夫、オレは鍛えてるし、渡り切る自信がある。少なくとも河の半分までは絶対行くから。ただ、危ないと思ったらこちらは気にせず、飛行術を使って向こう岸を目指して」
ダナンは脱いだ履物の鼻緒を紐でくくり、腰に結びつけた。足袋は懐に入れ、袴の裾をインバネスコートもいっしょに巻き込むようにたくし上げて、腰ひもにしっかりと挟み込む。これで膝下まで水が来ても袴が濡れることはないだろう。
「ほんとうに平気?」
「問題ないよ」
イネノを負ぶって、河のなかへ踏み込む。ざらざらとした石の感触。やはり水で滑るような感じはしない。むしろ、歩くためになにか工夫がされていると感じる。ダナンはそれでも丁寧に確認するように、ひとつ、またひとつと石柱のうえを進んでいく。精霊が川上に回って、一緒に歩き始めた。
「水を弱めてくださっている」
「優しいね」
水の流れの重みが変わる。少しであってもそれは渡河を楽にしてくれた。ダナンは油断せずにゆっくりと、大河のなかを歩き続ける。
もし石柱の並びが途中で途切れていたらという懸念も杞憂に終わり、最後の石から対岸の河原へ、ふたりは無事に辿りついた。じゃばじゃばと脛までの水を跳ね上げて、河から上がる。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
上陸したとたんに背中から飛び降りたイネノが、深く頭を下げた。結界の時はイネノに助けられた。こんなのは一緒に進もうと声を掛けた時点でお互い様なのだから、気にしなくてもよいのにとダナンは思う。
一緒に川辺まで来ていた精霊には、ふたりでお辞儀をする。
「道を教えてくださって、こちらまで付き添ってくださって、ありがとうございました」
「おかげで早く安全に、河を渡れました」
優しい目で精霊は頷いた。良い精霊に出会えて幸運だった。おそらく、母のおかげだが。先ほどのイネノの疑問には、精霊が人の近くによってきてくれることは珍しいと答えたけれど、母の加護を受けて育ってきたダナンはなんらかの気配がするらしく、精霊、とくに水の精霊は姿を見せてくれやすい。
「ダナンは、ほんとうにすごいなあ。息が少しも上がってない」
「べつにすごくはないよ。鍛えているだけ」
イネノ、軽かったし。と言いかけて止めた。繊細な成長期らしいので。ダナンが足を手ぬぐいで拭きはじめると、となりにしゃがんだイネノが右手を伸ばした。足の周りの空気の温度が、まるで焚火にあたったかのようにぐっと上がった。
「そこまで鍛え続けてるのがすごいんじゃないか。それに、この時期の水じゃ、足が冷たくなったでしょう」
「イネノこそすごい。温かくて助かるよ、ありがとう」
魔法って、いろんなことができるんだな。力の塊である精霊があれこれと事象を起こすのは見てきたけれど、実際に目の前で人間が使っているのを見ると面白かった。学校では、魔法の授業もあるという。特に1年次と2年次は基礎を学ぶ時期で、武術・魔術・学術などをまんべんなくやるらしい。そこで自分のやりたいことや向いていることを見つけて高学年で専門に分科する仕組みだ。自分は武術か学術のどこかの方向へ進むだろうけれど、それまでにいろいろ魔法を知っておきたいとダナンは思い始めていた。
「ちょっとあたりの様子を見てみるよ」
ダナンが足袋を履きなおしているあいだに、イネノは浮遊術で浮かびあがった。相変わらずするすると、きれいに高くあがっていく。
―星見の子。
急に意味のある言葉が小さく耳に飛び込んで、ダナンは目を瞠った。はい、と答えると、水の精霊は満足気に嘶いた。
―ここ、止まる。私が止める。だから。もし、たら、来なさい。みんな。ここまで。
言葉も単語も不明瞭なところが多い。ただ、困ったことがあったら力になると言ってくれているのは確かなようだ。自分が全部聞き取れていないことを詫びたうえで、ダナンは馬の額に自分の額を合わせた。生きているものとはちがう、柔らかな感触。
「重ねてのご厚意に、深く感謝いたします」
イネノが地面へ戻ってくる。
「見通しが良くないから確信はないけど、この先も、道らしきものはなさそうだよ。ずっと森。というか山。登山、上り坂、つらい」
「あの位置じゃ、登山は免れないのは分かってただろ」
「体力に自信がない。足引っ張ると思う、ごめん」
「そこはお互い出来る出来ないが違うのだから気にしない。歩調を乱さなければちゃんと着けるよ。行こう」
精霊が、道行を寿ぐように、一声嘶いた。ふたりが手を振るなかで、蹄を返す。かろやかな蹄の音。濃い緑や青や紫に変化していた馬のからだは、河のなかほどへたどり着くと、ゆっくりと水へ溶けていった。