惑いの森
広場からは寮の方向へ開いていた森への道は、すぐにふたりがならんで進むのがやっとくらいの獣道のような細さになった。森は鬱蒼としていて、これもそのうち、緑に呑み込まれそうだ。土の匂いと植物の匂いが濃くなっていく。
「森のなかに入ると、山が見えないね」
「あの言い方だと、この道をまっすぐ歩いていけば着くようにも思えない。ときどき木の上に登って確かめるしかないか」
あたりはさまざまな高さの広葉樹が枝を張っていて、薄暗い。下生えも多く、道以外を進むのは骨が折れそうだ。できる限り道が続いていることを期待するしかない。歩みを進めていくと足元は緩い上りになった。
「ん?」
急に身の回りが揺れたような気がして、ダナンは立ち止まった。
「何かの結界に入ったね」
横からさらりと答えたイネノが、首をかしげてダナンを見上げる。歩いているうちに暑くなったらしくイネノは帽子をとっているので、茶色の髪がふわふわと揺れていた。
「すごく巧妙に隠された結界なのに、良く分かったね、ダナンくん。魔法が得意?」
「いや、あんまり? 魔法をちゃんと習ったこともない。何か、違和感があっただけで」
「ふぅん。感覚が鋭いのかな」
「イネノは、魔法が得意なんだ?」
「うん、僕は魔法の腕を見込まれて入学させてもらったんだよ。試験を受けていない、魔法分野で推薦を受けての特別入学」
イネノが笑って、わざとらしく少し張った胸を叩いてみせる。ジュロウ学校はとにかくどの分野でも最高峰の教育を受け研究ができると言われているが、特に魔法は、その特殊性から他にほとんど学べるところがなく、魔法を使えるものの多くはこの学校を目指すことになるらしい。
「それは心強いな。オレも試験は受けてなくて、推薦だけど、武芸で入れてもらったから」
「ダナンくんも? 特別入学同士だったんだね」
なんか共通点あってうれしい、とイネノがはしゃぐ。
「名前、呼び捨てでいいよ。それで、このまま進んでもいいのか? 一回出る?」
「うーん、かんたんには出られないんじゃないかな。これたぶん、入るのは制限なしで、出るのは難しいやつだ」
「あれ、けっこうまずい?」
「強い害意は感じないから、心身に悪影響のあるものじゃないよ。進んでみよう」
促されて、また並んで歩みを進める。辺りの様子は特に変化がなく、時折どこかで鳥が鳴いたり、風で木の枝が音をたてたりする以外は静かだ。
「結界って、要塞の壁とかに施されてるやつだよね? 火を掛けられても燃えにくいとか、物理攻撃を弱めるとか聞いたけど」
ダナンが訪れたことのある魔物の多い土地の近くにある拠点などは、魔除けの効果があるものが一帯を覆うようにほどこされていた。王城には特定の人物以外が入れないようなものもあると聞く。人に害を及ぼすものと言うよりは、守りのイメージがある。
「そういうのも結界の一種だね。魔法っていうのは、何らかの魔法に使える力、まあざっくりまとめて魔力と呼ぶ力に、指向性を持たせて事象を発生させること。一般的なのは、自分の魔力で呪文を使って起こすものだよね。この辺りは研究されて定形化されているから、魔力をそれなりに持っているものならちょっと勉強すれば誰でもできる」
イネノがうえに向けた手のひらに何かを呟くと、ぱっと炎が上がってすぐに消えた。確かにそれは、ダナンでも使える魔法だ。すべての人間は、魔力を持っているらしい。ただ、それを使ってこの火の魔法などの何かができるほどの魔力の量を持っているのは2割ほどで、さらに大きい使い物になるような魔法を使えるのは1割を切るのだという。
「結界は、こういう呪文とはちょっと違う方法。ある指定した場所に作用する。まあ方法はいろいろなんだけど、ここにこういう効果を及ぼそうって決めて、術式を施すんだ。大がかりな準備が必要なのと範囲が限定される分、複雑なことができる。転送札とか護符とかの方に似ているかな」
足を止めてしゃがむと、イネノがあたりの地面を叩く。ぶつぶつと何かを呟きながら、額に指をあてて考えこみ、それから首を振って起き上がった。
「やっぱりだめだ。すぐには、何の効果がある魔法とも分からないんだよね。さっき話をしていた先生の魔法だから、僕らの位置や状態を把握するようなものかなとも思うんだけど。それもあって、避けるのも得策じゃなさそうだなって」
「誰の魔法かも分かるのか」
「あ」
感心して言ったのだが、イネノの目が泳いだ。
「……ふつうは、無理かも」
何か言いづらそうなので、この話題は流すことにした。土のついたままの手で顔を触ったから、顔が汚れている。それを落としてやりながら、弟ができたような気持ちに、ダナンはなった。
「じゃあとりあえず、何かあるまではこのまま進むってことで」
「うん、さっきも言ったけど、心身を害するようなものではないから。詳しくは歩きながら解析してみるよ。魔法は受けてみるのが一番わかりやすいからね」
ちょっとウキウキして見えるのは気のせいだろうか。深刻になられるよりはいいけれど。ダナンは少し周囲への警戒をあげたが、辺りはやはり変わりばえがなく、ただの森だ。それでも何かの違和感が常にあった。その原因を考えていたところで、イネノが足を止めた。
「同じ場所に戻ってきてる」
「なるほど。困ったな」
「信じるの、早いなー」
イネノが思わずというように笑った。
「何か変だな、という気はしていた。さすがに誰一人ほかの生徒の気配がしないのもおかしいし。イネノはどうしてわかったんだ?」
「この木、結界を入ったところにあった木だ」
一本の木に手を触れる。それは何の変哲もない唐松の木で、見える範囲で数本生えているものとすら、特段注視していなかったダナンには見分けがつかない。
「僕は魔力のかたちみたいなものが良く分かるんだ。魔力は、使える使えない、使う使わない、多い少ないにかかわらず、森羅万象にあって、固有のものだから、種によって似ていることはあっても同じことはないんだよ」
随分と、違う世界が見えているようだ。面白いとダナンが言うと、ずっとそんな見方をしているわけじゃないよと慌てた風に両手を振った。
「ここは結界の入り口だったから、ちゃんと見てただけ」
「とにかくそれで助かった。で、一本道を辿ってきたつもりが戻ってきたってことは、道自体が、環状になっていたのか、どこかから始めに飛ばされるのか」
「うーん、そのふたつなら前者かな。転移は複雑で、もっと大がかりにしないと無理だ。おそらくこの結界には幻惑や誘導をするような効果があって、歩く方向をゆがめられているんだと思う。簡単に言えば、まっすぐ歩いているつもりが徐々にずれて、自分で勝手に戻ってくるというか。この道も、道でないところを認識させられているかも」
「ああ、それは何となくわかるな。歩いていると、踏み出した自分の足が少しずれるような、踏みそこなったような感覚があった」
「すごい、本当に感覚が鋭いんだね」
イネノは右手を額に当てて、考え込む。しばらくしてまた、うーんとつぶやく。
「緻密で、丁寧で、考えられた魔法だよ。外から引っ張られたらぱっと出られるような気もするけれど、内側から解除するのは骨だなあ。なんていうのかな、有害なものでもないからやっかいなんだよね。些細なものが何重にも重なって、基本的には自分の意志と足で動いてしまっている」
あれがああでこれがこうでと、つぶやきを続けているイネノに、ダナンはいったん待ったをかけた。
「良く分からないが、壊すより影響範囲を抜ける方法を考えた方がいいってこと? どのくらいの広さなんだろうか」
「範囲、は、うん、とりあえず上の方へはそんなに及んでない気がするし、垂直方向には惑わせるような効きめがないと思う」
イネノは、二、三度軽く跳ねると、垂直にするすると飛んだ。呪文は基本的な浮遊術のようだが、発動が素早く高さがある。あっという間に木のてっぺん辺りまで昇っていった。さすが、魔法特待。
「やっぱりね。高さはこの木の3分の2くらいのところまでだ」
うえでしばらくとどまったのち降りてきたイネノが、頭上を指さす。木々の合間から見える穏やかな青空を見上げ、しばしふたりは沈黙した。