魂に触れる
その後はのんびりと何をするでもなく過ごしているうちに夕方になり、あれ? うそでしょ、もう暗い……と驚き嘆きながら、スミは帰っていった。平日が忙しいと、休日はより輝き、そしてあっという間だ。
「そういえば、ダナンに巫のことを話したら、やりたいことがあったんだった。部屋入ってもいい?」
夕飯の後に、イネノがふと思い出したように立ち上がる。
「いいけど、どうしたの?」
「鍵の彼女に、巫の力を使って問いかけてみたくて」
「ああ、彼女に」
入寮前の試験で拾った鍵に宿る幽霊。鎮静してはいるものの、不特定多数の人がいるなかでは影響を受けてしまう人がいないとも限らないとイネノが言うので、授業が開始してからは、ダナンは鍵を持ち歩かずに部屋の文机に置いている。
「拾った夜以降、オレには一言も彼女の声は聞こえてこないけど。イネノには受け答えがある?」
朝夕にイネノが話をし、ダナンも挨拶やその日の出来事など声を掛けてみたりする。鍵はダナンにはどう見てもただの鍵で、まだいる、とイネノに言われなかったら、ダナンには彼女がもういなくなったのだと思いそうだった。
「ううん、僕にもあんまり。最初に比べたらずっと落ち着いてはいて、少しやり取りはしたけど、話ってほどじゃないんだよね。だから、何か手がかりになるようなことばを聞けたらと思って」
帰りたいという願いを持つ彼女、その帰りたい場所がこの学校らしいということで一緒に来たものの、そこでイネノもダナンも困ってしまった。学校の、どこ? と。
「この学校、大きめの街ひとつぶんくらいあるからなあ」
入学式までの数日間、1年生に許されている範囲であちこちと歩いてみたが、鍵は何の反応も示さなかった。彼女が帰りたいと言う場所は力の源らしいのだが、学校には力が溢れかえっていて、どこが源かイネノにも分からなくなってしまったらしい。
「日も落ちているし月も明るくない。話しかけてみよう」
ダナンの部屋に入ると、細く開けて置いた窓からは少し冷たい風が流れ込んできていた。山なせいか、朝夕はまだ冷える。ダナンが窓を閉めながら空を見ると、確かに細くも丸くもない月がかかっていた。
「こんばんは」
イネノが鍵に呼び掛けて手に取り、寝台に腰掛けた。部屋の灯りをつけていないので、部屋は薄墨に沈んでいる。ふたりの部屋は居間が畳敷で個室と風呂などは、建物に合わせて洋風という不思議な作りだった。個室は備え付けで勉強用の文机と椅子、小さな本棚、それに寝台があり、他の大人数の部屋に比べるとかなり贅沢な住まいだ。
「今までも、魔法をかけているんだよね」
椅子の向きを変えて腰掛けながら、ダナンが聞くと、イネノが頷く。
「空間を遮断する魔法の、ちょっと応用版みたいなのを」
鍵を膝の上に置いて、イネノは両手で宙に円を描く。
「体をもたない魂っていうのは、裸火みたいなものなんだ。触れた誰かを傷つけやすいし、外からの影響も直接受けてしまう。小さな風でも、大きく揺れ動く。揺れ動くとどんどん自分が分からなくなって、魂を残してしまうほどの想いと自己をすべて失ってしまえば、ただ混乱と遣る瀬無さと制御できない力で自他を害する存在に堕ちてしまう」
それは、悲しいから。森のなか、いつからかひとり泣いて自分を責めていた魂に、イネノは寄り添う。
「自分を取り戻して、何が未練なのかを確認してそれを叶えたり受け入れられたりすれば、穏やかに眠れる。欠けた存在として消さなくていい」
今まで、消すしかない魂にあったことがあるのだろうなと、ダナンは思う。当たり前にすべてを救えないなかで、それでも誰かの泣き声に耳を傾けてしまうのは、イネノの弱さだろうか、強さだろうか。
「いま彼女に掛けているのは、そうだね、覆いみたいなもの。覆いで火を安定させる手燭があるでしょう。それと同じで魔法で包んで、他の影響を受けにくくして、自分を見つめなおしてもらう」
ゆっくり、自分を取り戻して、そうして彼女の願いについて一緒に考えられるようになればと、イネノは思っていたらしいのだが。
「彼女ね、かなりむかしの人みたいなんだよね」
「むかし?」
「そう、姿がふっと浮かぶことがあったんだけど、むかしの服装だった」
姿も見えたことがあるのか。改めて、イネノと自分の見ているものの違いをダナンは面白く思う。
「年を経てなお残っている魂は、強すぎて扱いが難しい。時間を掛けるのがよくないこともあるから、今から直接的に、彼女の魂に呼び掛けて会話を試みたい」
「そんなこともできるんだ」
思わず楽し気な声を上げてしまったダナンと裏腹に、イネノは困ったような難しい顔をしている。
「ただこれ、ダナンの方と波長が合っちゃうかもしれなくて。近くにいたし、正直、水の気は陰の気と相性がいいから」
「へえ、いいよ。良く分からないけど、話せるようなら、話してみる」
「自分のことは話さなくていいよ、踏み込ませる必要はない。相手のことを聞いてあげて。彼女が誰なのか、何がしたいのか、そういうことが少しでも分かれば」
あなたは誰か、と、何がしたいのか。お使いのように指を折って確認すると、イネノが笑った。
「ばっちり。何があっても、ダナンに危険が及ぶようなことも嫌な思いをすることも、させないから」
言い切るイネノは勇ましい。多少ならべつに構わないよ、という言葉を飲み込んで、ダナンは頷いた。
「うん、よろしく」
「じゃ、いくよ。この魔法のことは、ご内密にね」
笑いながら鍵を両手のなかに包んだイネノが、少し目を閉じる。息をゆっくりと吸ってから、ら、らら、と小さく歌のようなものを口ずさんだ。
「下萌えに光の白、露はらむ蕾の青、足元に小石の黒、呼ぶ声はあの日の赤」
ららら、ら、らら。イネノの首元が、淡く発光している。首をきっちりと覆う服を着てなお、その光は優しく辺りに広がった。
「聞こえますか? 僕らは貴女と、話がしたい。はざまにどうぞ、お越しください」
その声とともに、世界が布を一枚隔てた向こう側にいった気がした。ダナンは変わらず自室に居て、そのはずで、でも、そこは今までと少しずれた場所だ。遠くで、イネノの歌が鈴の音のように響いている。ダナンは目を半分閉じて、それに耳を澄ませた。どこから聞こえてくるのだろうか、探るように意識を漂わせているうちに、別の音が聞こえた。おやと思う間もなく、そちらと波長があう。ぱちん、と、音が聞こえそうなほどに。
「水の人」
芯の強い女性の声。その声は、遠くで揺れる常夜灯のように、距離感がつかめず、輪郭が揺れ動き、明るく強いのに、いつ消えてもおかしくないような危うさが感じられた。
声の後に、姿が現れた。霧のなかのように、判然としない。髪の長い女性だ。たおやかな体の線にそって、腰より長く髪が流れている。
「嵐のようなところに居ました、もう戻れぬかと思いました、戻れぬのだということさえ認識を失っておりました」
抑揚のあまりない声だ。冷静な。不思議と表情が分からない。霧はだんだん晴れてきて、紫に似た髪を留める木の髪飾りや、水晶の耳飾りは、意匠まで細かく見えてきているのに。
「あなたが私を、私であることに気づかせてくれたのね」
イネノの言ったように、今はあまり見ないかたちの着物を着ている。筒袖が指先まで覆うのも、前で締める細い帯も、最近のものではない。
「オレではないですよ。泣いているひとを放ってはおけない、心優しい友人です」
「この歌を、歌っている子ですね。この子の声は月の光のよう。あなたの声は水底の光のよう」
彼女に言われて、イネノの存在を思い出す。月の光のような声。鈴のような歌。そうだ、イネノが彼女のために歌っている。ここで彼女と相対していると、さっきまで当たり前に分かっていたはずのことが抜け落ちていくような感覚があった。
「そうです。彼はあなたが、正しく眠れることを願い、協力したいと言っています。あなたのことを、あなたの望みを、聞かせてください」
「私、は」
彼女の言葉のあいだに雑音が入った。もしくは、彼女の言葉が雑音になった。彼女は何度も何度も首を横に振る。
「ちがう、分かるはず、そう、ウノメ。ウノメと、みんなが呼んでくれていた」
肩を波打たせるほどに息苦しそうにする彼女に、掛けられる言葉もなく、触れるすべもなく、ダナンはじっと見守る。
「この近く、とても近くに、住んでいた。姉さんと、それからみんなと」
彼女の眼がやっと見えた。焦点を失っている。割れた器に入っていた水のように、感情と言葉がぼたぼたと零れ落ちていく。時には、重なるようにして。
「ああ、そう、姉さん。姉さん、許して」
「いままでずっと帰ってこられなかった私の、不甲斐のないこと」
「姉さん」
「まだ、いるかしら? 私を許してくれるかしら」
「ごめんなさい」
「熱い」
「ああ、ひめさま。ひめさまは、どうしていらっしゃるかしら
「お可哀そう、お可哀そうに」
「熱い」
「許されなくても」
ゆらりゆらりとあちこちに伸ばされていた彼女の両の手が、顔を覆う。袖がめくれ、手があらわになる。彼女の左手は、焼けただれいていた。髪が乱れ、頬や肩を舞う。
「会いたいわ」
そう言い残して、彼女は砂時計のようにさらさらと輪郭を落として消えていった。あとには、月の光だけが落ちている。
「ダナン」
名前を呼ばれて、世界が戻ってくる。イネノが寝台から腰掛けた姿のまま、ダナンを見ていた。歌は、止んでいる。すっと手を動かして、ダナンは部屋の常夜灯を灯した。
「話せた?」
穏やかな、いつも通りの口調。ダナンは少しのあいだ灯りを見つめ、呼吸を整え、それから頷く。
「少しだけ。名前はウノメだって」
それから彼女の言葉や様子をダナンが余さず伝えると、そっかあ、とイネノが天井を仰いだ。
「学校に通ってたとか働いてたとか、そういう感じじゃないよね」
「ないな」
姉やみんなと住んでいた、という言葉。そしてむかしの服。あとでちゃんと調べればもっと詳しいことが分かるだろうが、おそらく。
「この学校ができたの、いつだっけ」
「創立は千年超える。帝都からこの場所に移転してきたのは確か、400年くらい前」
400年前。ここはどんな場所だったのだろう。誰がどのように、生きていたのだろう。
「お姉さんとひめさま、か」
「……会うのは、難しいよな」
死んだら魂はどこへいくのか、ダナンは知らない。イネノは白の女神さまのところへ行くのだろうか。彼女は姉と姫のところへ行けるのか。魂と想いを残してしまうほど会いたい人に、魂と想いを残してしまったから会えないなんて。イネノが優しく鍵を撫でる。
「でもきっと、彼女にできることがあるよ」
そうだなと、ダナンは頷いた。




