イネノの秘密
入学式からの最初の一週間。新入生は、とても……とても忙しかった。寮に辿りついてから入学式までの穏やかな日々が、うそのように。
微動だにせずにお偉方々のありがたーい訓話祝辞の波状攻撃を受け続けた入学式で、すでにしっかり疲弊していたのだが。続けて組み分けの発表、級友との顔合わせ、担当教員の紹介、授業の取り方の説明まで一気に同日に行われ。その翌日からは授業選択のために、選べる授業をすべて試しに一通り受けつつ、あいまに校舎の案内や学校の説明をしますので頑張って一度で覚えてねという怒涛の展開。
入学式から5日間息をつく暇がなく新しいことを詰め込まれ、さすがにダナンの体力精神力をもってしても意識が飛びそうだった。いわんや、イネノをや。学校が終わるとふたりでなんとかよろよろと自室に戻り、居間の畳に倒れこんでいる。
今日も日がとっぷり暮れてから部屋に戻ってきたふたりは、すっかり恒例になった通りに居間の畳に仰向けに寝転んだ。しばらくそうしてからでないと、動けないのだ。それでも、明日と明後日はやっと、休日だった。
「乗り切った、な。イネノ、生きてるか」
「たぶん……」
蚊の鳴くような声に苦笑しつつ、昨日見かけたスミも疲れた顔をしていたなあとダナンは思いだす。1組は約30人で、イネノとダナンは運よく同じ組、スミはふたつ隣の組だった。昨日は合同の授業があり顔は見られたのだが、雑談をする暇はなかった。入学式までは毎日話していたのがもはや懐かしい。
明日は昼からスミが遊びに来て、この1週間の情報交換をしようと約束をしているので、久々にゆっくりと話せる予定だった。
「先に風呂入りなよ」
簡単な夕食を済ませ、ダナンは今にも寝そうなイネノを風呂に追い立てる。ふたり部屋までは、個室と居間に加えて、小さいながらも風呂と洗面所、簡易な調理設備があった。これには助けられている。大部屋だったら、疲れたままざわざわと騒がしい食堂で食事を済ませて、大浴場へ向かわねばならない。食堂も大浴場も別の棟なので、こうも疲れる毎日だとなかなか億劫だろう。
「おーい、イネノ、聞こえてる?」
「うう、おふ、ふ、おふろーおぉ」
最初の呼びかけにぴくりとも反応がなかったので重ねて聞けば、謎の鳴き声が返ってきた。これはもう、半分寝ている。
「がんばれ」
いま入ってしまった方がぜったいに楽だ。疲れもとれる。本人もそれがわかっているので、数回また謎の声を上げてから、ゆらゆらと立ち上がった。自室に戻り支度をすると風呂場に向かっていく。ダナンはその背中に声を掛けた。
「湯船に浸かるのは止めときなよ」
溺れたら困ると、わりに真剣にダナンは心配した。ふぬふ、という、相変わらず謎の言葉が返ってくる。肯定か否定かすら分からないが、大丈夫だと信じたい。
「お風呂ありがとう」
風呂から戻ってきたイネノは、さっぱりして意識も多少しっかりしたらしい。ダナンにも聞き取れる言語を話していた。
「ごめんね、支度も片付けも、してもらって」
犬だったら耳が垂れているだろうなというくらい申し訳なさそうな顔をしているので、ダナンは笑いそうになった。
「いいよ。この一週間、お互いよく頑張ったよな。早く寝な」
「うん、ありがとう。おやすみ」
おやすみ、と返してダナンは入れ替わりに風呂場へ向かう。こんな上層階でどうやって風呂やら台所やらを使うのかと思っていたら、最新の水道管に加えて魔法を使ってお湯が出るようになっているらしい。便利なものだ。自分も湯船に浸かるのは止めたが、汗を流すだけで少し疲れが取れる気がした。
髪から落ちる水をぬぐいながら居間に戻ると、イネノが畳のうえで大の字に伸びていた。あの短い会話の後、部屋までたどり着けなかったようだ。風呂から戻ったときにかぶっていた大判の手ぬぐいが床に落ちている。
「あ」
運んでやるか、と近寄ったところで、ダナンは思わず声が出た。イネノの首の付け根、鎖骨のあたりに、花が咲いていた。黄色と薄桃で描かれた梅の花の文様。何輪も、何輪も、重なるように。あまりの美しさに、ダナンは息をのむ。見た瞬間に誰もが悟るだろう、これは人の手では施せない印だ、と。
巫。神に信頼を寄せられた人のしるし。
思い返せば、制服のときでも寝間着にしている浴衣のときでも、イネノはいつも首をすべて覆うような肌着を中に着ていた。万一襟元がはだけても、これが見えないように気を付けていたのだろう。たしかに見つかったら、大騒ぎになるに違いない。
どうするか迷ったのは一瞬で、見てしまったものは仕方ないとダナンはイネノの肩をゆすった。イネノが数度瞬きをする。目を半分閉じたまま口元を手で拭いながら、もにょもにょと言葉を発した。
「やばい、寝てた?」
「うん。イネノ、巫だったんだな」
「えっ!」
一転して大きく目を開き跳ね起きたイネノは、自分の服を見下ろし、ダナンの顔を見て、畳に突っ伏した。
「あああああー! 言おうと、思ってたのに!」
「そうなんだ」
「そうなんだよ! 反応も薄いしさー! なんとなく分かってたけどさー! 悩んだ時間返してよもう!」
「いやすごく驚いてはいるんだけど」
「見えない! もっと表情豊かに!!!」
「ごめん?」
イネノはぽこぽことしばらくを畳を殴っていたが、しばらくして疲れたのかしょんぼりと肩を落として動きを止めた。それから崩していた足を正して、頭を下げる。
「……こっちこそ、ごめん。なぞの八つ当たりをしました」
「なぞの八つ当たり」
思わず鸚鵡返しにして、ダナンは笑ってしまう。ダナンの方を見上げたイネノも、力の抜けた顔で笑っている。いつものように。だから、ダナンもいつものように、いいよ、と応える。
「ええとですね、本件につきましては、改めてお話のお時間を頂戴したく」
「べつに無理に話す必要ないよ。秘密にしてたんだろ、誰にも言わない」
「言ったでしょ、ダナンには、話すつもりだったんだ。明日、スミが来てから話してもいい?」
「もちろん」
幼なじみということはそれは事情を知っているだろう、くらいに思ったダナンが軽くうなずくと、イネノはしょんぼりと呟いた。
「……まずはスミに、ばれちゃったこと報告しないとだし……」
怒られる、と顔にありありと書いてある。イネノは素直で隠しごとに向いていなさすぎるが、こんな秘密があって大丈夫なんだろうかと、ダナンは若干心配になった。
「一気に目が覚めたけど、一気にまた眠い」
ぼやきながら今度こそ自分の部屋に入っていくイネノを見送ってから、ダナンも自室へ引き取る。小さな常夜灯を灯して布団のなかに潜り込むと、ひとつあくびが出た。
「かんなぎ、かあ」
帝国には、国を見守ってくれている神が何柱かおり、それぞれの神殿都市で丁重に祀られていた。人や動物や精霊とは、次元と世界と存在の違う大きな敬うべきなにか。そのことばや想いを託されるのが巫で、神に認められ、その証として花の文様が体に現れる。
実物を見たのは、もちろんダナンもはじめてだ。巫はそもそもの人数が少ないし、いつもは神殿の奥の奥で暮らしていて人前に出ることはない。入れ墨などで巫を騙るものは、神殿の人間にすぐにばれると聞いていたが、確かにあれは、人の手で模倣出来うるものではなかった。淡い光のような。見たこともない絵のようでもあり、人の体に実際に花が咲いているようでもあり。
イネノの首回りにあったのは、梅の花だ。梅はたしか、良き行いを司る、白の女神の文様。白の女神を表すのものはなんだったか。朝のひかり、風に踊る花びら、月は宵待、笛と鈴の音、水面とさざ波、控えめな美、鎮静、重ねて差し出される手のひら、薄野原、優しさとしての忘却、うろこ雲、腿と耳……中心的な神の一柱だから、もっとあったはずだ。机の棚に入れてある辞典をめくればいいのだけれど。
「だめだ、眠い」
ダナンはあきらめて目を閉じた。次の瞬間から、記憶がない。




