序章
湖のほとりは、ただただ静かだった。水面をさざめかせる風もなく、海かと見紛うような広さの湖面は鏡のように滑らかに天を映している。湖のほとりを囲む針葉樹も、身じろぎもせずただ深い陰影を抱いて佇んでいた。
「あの星をご覧」
鈴をふるうような声が水面を滑っていく。緩やかに曲げられた白い指先が、天に散らばる輝きのなかから、ひとつの星を指し示した。それはたくさんの星たちのなかでもとりわけ大きいというわけではないけれど、白く澄んだ光を放っている。
「あれは遠く長く困難な旅をする星。その旅は、この世界に必要なもの」
ダナンはその星をしばらく見つめ、それから星を指差す人を見た。湖面の上へ桟橋のように伸びた岩。そこに腰を掛けて裸足を湖面の上で揺らしているダナンとは反対に、彼女はまっすぐにゆるぎなく立っている。湖のうえに。
美しい弧を描きながらたゆたう豊かな髪も、月に負けないほど輝く大きな瞳も、しっとりと滑らかな肌も、全て白銀。身にまとう着物も帯も肩からかけた打掛も手にした大きな扇もその持ち手に結ばれた飾り紐も白いので、彼女はほとんど色彩というものを持っていない。衣服の裾と背に流された髪は身の丈より長く、湖面に付いた裾と髪は水と溶けあっている。
湖の星見。水の精霊。彼女は星の動きと輝きで世界の動きを見た。月のない星がいっそう強く光る夜は、とくに大切なことを読み解けるときだという。
「そしてその水鏡の星がお前だよ、ダナン」
少し指をずらし、優しく彼女は続ける。彼女が指差したのは、湖面。そこに映る白い星。夜空の星を愛でるように、水鏡の星を拾うように、光と光を繋ぐように、暗闇を縫うように、彼女は星を読む。
ダナンは自分だという星を見る。白い星は、夜の湖面に映ることで青みを帯びていた。一見では黒に見える自分の目や髪が、光の加減で時折見せるのと同じ青に。
ふたりはしばし無言で水面の星を見ていたが、やがて彼女は腕を動かして、ダナンのその濃い青をはらんだ髪をそっと撫でた。冷たそうな色である白銀の目が、慈愛を浮かべてダナンを見ている。この、みかけは温度のなさそうな女性は、いつだってダナンには温かい。
「あの星を、見つけておいで。そして共に行きなさい。おまえは彼の刀。星に仕え、守り、助け、道を切り拓く。おまえが寄り添ってこそ星は輝きを増し、その光に照らされて、おまえもまた美しく輝くだろう」