まなざし
弘子さんにあのような顔をさせる戦争は間違いであると思いました。
婚約者であった兄が戦争へ征って、ほどなくして弘子さんは「進ちゃん。私ね、車掌さんになるのよ」と私に言いました。そうしてほんとうにその仕事に就いたのです。兄が愛した仕事でしたから、それで弘子さんも選んだのでしょう。偶然ではなかったと思います。そのときちょうど営団の募集があったのは確かですが、この世の中、それはどこも同じでしたから。
私は学校までの道のりを電車で通っており、立派に勤める兄の姿を見ながら二年の月日を送りました。ですから、兄はきっと戦地でも立派にやれるだろうと、ほとんど確信のように思っていたものです。それが兄と離ればなれになってしまう弘子さんの励ましになる。そう信じて疑いませんでした。けれど予想に反して、私の言葉は弘子さんのきれいな顔にいっそう影を落とすのみでした。
影の下に窺えたものは、深い悲しみのように思われました。私が落とした影なのだ。だから私はそのことについて責任がある。そう思って、それから毎日、弘子さんに声をかけるようになりました。学校の話や、家での話なんかをするのです。そのうちに、戦争の話はいけないと分かりました。弘子さんが愛する兄と離ればなれにならざるを得なかったのは、戦争のためでしたから。
「進ちゃんがいてくれてよかった」
弘子さんは度々そんなことを言います。ほんとうに安心したような顔で言うのです。それを聞くと、私もまた心からよかったと思うのでした。この人のそばに居てやりたいと思うのでした。何もかも戦争のせいでした。
窓の外に目を遣ると、曇り空のすきまから差す光が見えました。まっすぐな光です。記憶の中にある、兄のまなざしと重なる光です。兄が不在の今、弘子さんがここでそんな目をしています。この窓から、きっと二人は同じものを見るのだと思います。
電車が停まり、人々が動き出しました。最寄りの駅でしたから、その後に続いて私も降ります。後尾のほうを見れば、ちょうど次の車掌に交代する弘子さんの姿がありました。
「弘子さん、ただいま」
「おかえりなさい」
私に気づくと、弘子さんが私の目を見て笑います。そのときだけ、彼女のまなざしは幾許か緩むのでした。
2023.12.05執筆