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沈黙していると、確かに、僕らが消えてしまいそうに、この家は海へと開いている。
「姉さんが目覚めればいいのに」
「それは無理みたいね」
「なぜ」
「言えない」
姉さんが言えないと言い始めたら、絶対に言わないし、本当に、僕には言えない理由があるのだろう。
僕と姉さんの間で「言えない」ことに僕は一つだけ心当たりがある。
あれは僕が大学で一人暮らしをする時だった。
自宅での最後の夜、僕の部屋に姉さんがやってきた。
少し頰が赤かったから、お酒を飲んでいたと思う。
僕は丁度寝間着に着替えるところで、パンツしかつけていなかったけど、姉弟としてこうしたことはこれまでもあったから、恥ずかしいとは思わなかった。
僕は姉に押し倒された。
彼女は無言で僕に接吻して馬乗りになってきた。。
僕はただ、呆然としていて、翌朝になっても、あれが事実なのか、妄想だったのか区別がつかなかった程だ。
朝、顔をあわせた姉はいつも通りで、僕は何も聞けずに家を出た。
姉が眠り続けるようになったのは、それから三ヶ月後だ。
「姉さん、僕ら」
「いえない」
「そっか」
「眠り続けているのって、あれが原因?」
姉は僕の方を向いた。
じっと、僕をみて、
「相変わらず馬鹿ね」
と、ため息をついた。
そんな姉をみて、完璧に近いものほど、小さな故障で止まってしまうんじゃないのかな、と考えたが、それは姉には言わずにおこうと思った。
「眠いわ」
「あんなに寝ても眠いの?」
「このチビの体が眠たがっているのよ」
僕らは床に埋め込まれたベッドで横になった。
僕は寝顔をみながら、そういえば、容子と隣同士で眠るのはいつ以来だろうかと考えた。また、彼女が隣にいて眠るになんて、想像もしなかった。
具体的に彼女との間で喧嘩があったわけでもないし、ただ、状況証拠的に、僕には耐えられない雰囲気だった。
それに、トイレの一件の後、メールで、「僕がいる間は他の男を家にいれないで」と送ったけど、返事はなかったな。
まぁ、そんな性格だから、口の悪い先輩には「美人局」と影で呼ばれているのを、最近、知った。
事務所のある町内のお祭りがあった晩、姉のところから帰ってきてから、久しく行ってないバーの前を通りかかったので、何気なく、入った。
「いらっしゃましー」
と、何というか今風の言葉に迎えられた。そういえば、調剤薬局でも「お大事になさいまし」と帰り際にかけられるのだが、あれは文法としては正しい日本語なんだろうけど、どうも、馴染めない。
「一人ですけど」
カウンターの中の女性が真ん中あたりの席に案内してくれた。
店の中には、カウンターの一番奥に常連らしい、僕よりも年上だろう女性がいた。
二人は親しげに色々と話をしていた。
どうやら二人は一人の女性について、批判めいた噂話をしているようだった。
僕はつい、聞き耳を立てていたのだろう。好みのスコッチをストレートで飲み干して、お代わりを頼もうと顔を左に向けた瞬間に、常連客の女性と目があった。
「あ、と、おわり、いいですか」
と、カウンターの女性に顔を戻した。
二人は何もなかったように話を続けたけれども、こうした話は一度耳につくと、なかなか、どうも、聞き捨てにできない。
「とにかく、ひどいの」
「そんなに」
「会社に数千万円の穴開けてさ、それなのに、いつの間にかライバル会社に入り込んでるし」
「いるんだね、そういう女」
「誰が採用したんだか。声がかわいいの。それにミニスカートでブラジャーがシャツから透けてるの。絶対、男性社員はみんなやってたと思う」
そこまできて、彼女は何故か僕の方をみた。
「ねぇ、男としてどう思う?」
突然の絡みに僕は手に持ったグラスを飲み干した。
僕が返答に困っていると、まぁ、返事を期待しての掛け声ではなかっただろうから、彼女は続けた。
「美人局よ、要は」
と、彼女は吐き捨てた。
そして、次に出てきた名前が「容子」と同姓で、職歴も同じだった。
無意識に顔がそちら向いていたのか、彼女から、
「もしかして、知り合い?」
と聞かれたので、
「ええ」と。
「御愁傷様」
僕は返事に困って、ただ、笑い顔で返した。彼女は会計を済ませて帰った。
内心、僕のせいでより不愉快にしたかな、と心苦しかった。
そんなことが続いた後で、容子の寝顔を見るのは、苦痛だったけれども、中身が姉さんだと思うと、不思議と心は安らいだ。