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「あっ、そんなことよりも、大事なことがあった」
僕はビクッとした。
「どうする?」
「えっ、何を?」
「このチビよ、死んだままでいい?」
「ごめん、もうちょっと丁寧に話してもらってもいいかな」
この辺も姉が他人から誤解される原因だった。
姉に言わせると、死んだ容子には今、二つの選択肢がある。
一つは、このまま死ぬ。もう一つは生き返る?
「あたしの命をあげる」
「でも、姉ちゃんは?」
「それは大丈夫」
「大丈夫って」
「秘密兵器があるのよ」
姉は容子の顔を使って笑ったが、どう見ても姉も悪い笑い方になっている。
「それを決めなきゃ」
「姉ちゃんが平気なら、生き返らせてあげれば。かわいそうだし」
「本当にいいの?」
「どういう意味?」
「言葉通りよ」
確かに、容子が死んだ、としたら、僕はほっとするかもしれない。
僕と容子はある期間、同じ部屋に住んでいた。住まなくなった理由は、以下の通りだ。
僕が夕方、部屋に帰ってきて、ズボンを脱いでトイレに入っていた。
トイレは玄関のすぐ横にある。僕が便座に座った時、玄関が開いた。
容子が帰ってきた。
そしてズボンを下ろしたまま便座に座っているところに唐突に、
「君は不良だかなあ」
と、素敵と言って良い男の声がした。
それから先、二人がどんな会話をしていたのか、僕は覚えていない。
ただ、この格好じゃ、出ていけないな、と思った。
まぁ、前兆はあったんだけどね。
二人訪れた飲食店で、店員からあからさまに嫌な視線を向けられた時、あぁ、僕の方が間男扱いなんだ、と。
それで、その晩には少ない荷物もって部屋を出て、以来、事務所に寝泊まりしていた。
まぁ、事務所には台所も座敷も洗濯機もあるので不自由なかったけれど、風呂がないのが問題だった、僕としては。
仕方がないので、最初は台所のシンクを利用しようと思ったが、色々と不都合があり断念し、次には大きなプラスチック製のタライを用意してみた。野菜を洗うような大きなものだ。
これは非常に上手くいった。
以来、風呂はこれで済ませているが、さすがに疲れがとれない時は、ホテルに泊まった。
何度か部屋を借りようとしたが、その度に、玄関から知らない男が入ってきそうで気持ち悪くなり、断念した。
そんな僕が引越しを決意したのは、姉の作った家が空いたからだ。
姉は寡作な設計士で、二十八歳で眠り姫になるまでに書いた図面は四つ。その内、実現したのは二しかない。
いずれも親戚の別荘で、一つは今いる海岸の家。もう一つは長野の山奥にある別荘だ。
僕は両方とも知ってはいた。住んでみたいとも思ったこともあるけれど、両方とも先住者がいた。
海岸の家は長いこと、叔父が一人で暮らしていたが、昨今の天災を鑑みて、都内のマンションに引っ越すことにした。その際、僕に声がかかった。
都心の事務所からは四十キロほどあったが、姉の眠る病院からは、八キロだ。
容子は誰かから僕が引越したのを聞いたのかな。
それで好奇心からつけてきたと思えば、思えなくもない。
僕が誰か他の女性と暮らすと思ったんだろうな。
そういうことには不寛容というか、天井知らずに自尊心が高いんだ。
僕としては、正直、女性はもう結構という気分だし、引越したとして、トラウマを克服して「家」に住み続けられるのか、という気分だったんだけ。
現実はそんな僕の気持ちに何の配慮もない展開だ。
死体の容子の中身が姉は、
「本当にいいの」
と、僕に尋ねている。
暗い海を二人で眺めている。
沈黙していると、確かに、僕らが消えてしまいそうに、この家は海へと開いている。
「姉さんが目覚めればいいのに」
「それは無理みたいね」
「なぜ」
「言えない」
姉さんが言えないと言い始めたら、絶対に言わないし、本当に、僕には言えない理由があるのだろう。
僕と姉さんの間で「言えない」ことに僕は一つだけ心当たりがある。