香りの記憶 墨のにおいとコーヒーの香り 憧れの原点を辿ってみた
香り(匂い)が伴う経験って、五感の中でも特に強く記憶に残るケースが多いという。
視覚と嗅覚、二つの記憶が強く結びついて、あるにおいをかぐとその時の記憶が鮮明によみがえってくる、そういうものらしい。
コーヒーが大好きだ。毎日朝昼晩、仕事中でも執筆中も、欠かすことがない。
それでも一向に飽きない。世にある嗜好飲料の中で、一番好きだ。
このコーヒー好きのきっかけと思われる記憶が、明確にある。前説が少々長くなるがご承知ください。
小学校3年の頃かな…、お習字に通っていた。
当時の小学生 習い事ベスト3
「そろばん」「習字」「ピアノ」
田舎の小さな町に学習塾なんて聞いたことも無かったし、スポーツ系の習い事もあったのは空手くらいだろう。
普通の小学生は学校が終われば玄関にランドセルを放り投げ、約束するでもなくその辺の空き地に集まり、日が暮れるまで遊びまわっている毎日を送っていた。
そんな頃、週2日くらいピアノに通う友達のレッスンの様子を見せて貰った事があった。
白いレースを被ったアップライトピアノ。目の前に置かれた楽譜に向き合い、背筋を伸ばしてその鍵盤をたたく友達の姿は、普段一緒に遊んでるのとはとちょっと違って、かっこよく大人びて、上品な人に見えた。
「いいなあ、ピアノやってみたいな」って羨ましく思った覚えがある。
とはいえ、ピアノなんて我が家で手が届くものではなかったし、その楽しさや有益性を知る由もなかったからピアノのお稽古とは無縁だった。
でも何かしら習い事はしてみたい・・・。子供心に思った。それで、友達が通ってたお習字はピアノに比べたら月謝も全然安いと知って、「行ってみたい」と自ら親に願い出たのが、最初だった。
そろばんに通う友達もいたけど、算数はちょっと苦手だったから論外だった。
学年もいろいろ、習熟度も全然違う。級や段に応じて違う課題が出される。
塾生は正座して、硯で静かに墨を摺りつつ一心に、その課題と向き合って筆を走らす。
仕上がると、先生の座る机まで持って行って、朱色の筆で添削してもらうわけだ。
その時、私の半紙に下ろされる朱色の筆よりも、どうしても先に目が行くのは先生の手元にあるマグカップだった。
なぜって、とてもとてもいい香りが、あったかそうな湯気に乗ってそこから部屋中に漂い出していたからだ。
ハイ、コーヒーの話は此処からです(笑)。
忘れもしない。黙々と塾生が筆を走らす墨の匂いが充満してる部屋のなかで、それを搔き消すような魅惑的な香りだった。
穏やかな初老の先生は、お稽古の時いつも茶色のマグカップにたっぷりの熱々コーヒーを淹れて持ってきた。ゆっくりゆっくり足を運びながらみんなが待つ部屋へと入り、先生専用の座卓にカップをそっと置いて、席に着くのだった。
よくあるインスタントコーヒーだったと思うけど(ネ〇カフェ?)。
どうやら、いつもそこに投入されている「クリー〇」が、甘くて高い香りの決め手らしかった。
柔らかなキャラメル色のミルク入りコーヒーは、豊潤で、ミルキーで甘やかで、ちょっとその苦みが想像できるような炒り豆の芳ばしさと混じり合って、なんともいえぬ芳しい香りを漂わせていた。
コーヒーなんて贅沢品、親も飲んでなかった。毎日飲むのは緑茶、牛乳、だったもの。まあ、よくてティーバッグのリプ〇ン紅茶。
先生のマグカップから発せられる得も言われぬ芳香たるや。小学3年生にはもの凄いインパクトがあった。
そうして先生もカップに口を付けてすする時は、いかにも美味しそうに一人だけ飲んで見せるんだから、なおさら始末が悪い。
当時の小学3年生は、良くてコーヒー牛乳がギリギリセーフ?。大人の飲み物コーヒーは「成長が止まるから飲んじゃダメ」。
先生イイなあ!大人って、いいな!早く大人になって、コーヒー飲んでみたい!ってその香りを嗅ぐたびに素直にもそう、思ったものだ。
のちに念願叶い無事コーヒーが解禁になって、嬉しくてあちこち飲み比べして歩いた。
専門店の炒りたて挽き立て豆も、評判のいい店を探し出しては買ってきてみたり。
インスタントでも少し高級な銘柄を試してみたり。確かにどれも芳ばしくて、とっても美味しいんだ。
けれども、習字の先生が手にしてたあのキャラメル色の薫り高い「クリー〇入りコーヒー」みたいな一杯には、どうしてか お目にかかれなかった。
今 我が家で淹れるコーヒーもミルクだけは奮発して「クリー〇」だ。だけどやっぱり違うんだよな。不思議。
先生のコーヒー、そもそも飲んだことないのだけど。
香りを嗅いで何かを思い出す、の逆で、 あの時の香りを今もまだ、探し続けてることに気づいた。
でも、あの頃の感動や憧れの感情も一緒に再現されない限り、同じには感じられないもんなのかもしれない。
となると、うん、一生憧れのままかもな。
ま、それもいいか。
お気に入りのマグカップを傍らに、いつものようにキーボードをぱちぱち弾きつつ。
あのキャラメル色の一杯に今も、憧れてる。