最終便
少しうたた寝していたかも知れない。
私は灯りの消えた搭乗待合室に一人ぽつんといた。壁にかかった時計を見る。出発時刻はとうに過ぎていた。搭乗案内はなかった、と思う。私は慌てて立ち上がり、搭乗口の扉からガラス越しに外を見た。さっきまで駐機場にいたはずの飛行機はいなくなっていた。搭乗口の案内板に終了の札が掛けられている。
(しまった、乗り逃した)
周囲を見回す。誰もいなかった。どうして起こしてくれなかったの。私以外に搭乗客はいなかったはず。空のまま飛ばすこともなかろうに。
私は記憶を辿った。搭乗手続きと手荷物検査を出発の四十五分前に済ませて待合室に入った。搭乗口の先に小型の飛行機が駐機していた。昇降階段の付いた飛行機の扉は開いていた。両翼に取り付けられた黒い四枚の回転翼がエンジンの始動を待っていた。私は待合室のベンチシートに座った。眩しい光が室内に差し込み、滑走路と空と海が見えた。大型の天井扇がゆっくり回っていた。
もう一度周囲を見渡した。鉄の柱とガラス張りの小さな待合室。搭乗口は一つだけ。五人掛けのベンチシートが四つ。天井扇は止まっていた。搭乗口と反対側の入り口に手荷物検査の機械が置かれ、小さなロビーホールに続いている。私は待合室からロビーホールに出た。
私は係員を探した。ロビーホールには小さな搭乗手続きカウンターの他には何もない。南国風の花柄模様のワンピースドレスを着た女性職員がカウンターの向こうで作業中だった。そう言えば搭乗手続きも手荷物検査も全てこの女性がやっていた。女性職員の作業する音を除いてこの建物は静寂に包まれている。車寄せには一台の車も停まっていない。どうやらこの小さな空港の建物には私とその女性職員しかいないようだ。私はカウンターに歩み寄り、その女性職員に話しかけた。
「乗り逃したようです。次の便に振り替えられますか」
彼女は振り返った。私がさっきの便の唯一人の客で他に誰も居なかったことを忘れたかのような職業的な笑みを浮かべ、申し訳なさそうに言った。
「お客様、先程の便が最終便でございました」
私はその慇懃な言動に苛立ちを覚えた。そりゃそうでしょう、このような小さな空港で一日に何便も飛んでいるとは思えない。しかし私は過去の事実を聞きたいのではなく、確実な未来が知りたい。今晩の宿の心配は後でするとして、先ずは次の便を確保しないと。
「明日の便は何時ですか」
「申し訳ございません、明日の便はございません」
そうか、毎日運行していない路線だったか。未来の不確実性が高まった。
「それでは最も早い便は何曜日ですか」
彼女は少し沈黙した。そして同じ言葉を繰り返した。
「先程の便が最終便でございました」
私は不安になった。未来が不確実である以前に彼女の言動が不確実。この後は欠航なのか、運休なのか、廃止なのか分からないじゃない。
「どう言う意味ですか。未来永劫飛行機が飛ばないと言うのですか」
「申し訳ございません」
想定外の事態だ。私が乗ろうとした飛行機は本日の最終便ではなく当該路線の最終便で、これを持って路線は廃止されたとでも言うのだろうか。
「なぜ最終便と分かっていて起こしてくれなかったのですか。他の客は居なかったでしょう」
「申し訳ございません」
「一体どうすれば良いのですか。ここから飛行機で発つことができないとは」
「申し訳ございません」
女性職員はうつむき、ロボットのように同じ言葉を繰り返した。このままでは埒が明かない。とにかく私はここを発ちたいのだ。
「飛行機以外の方法でここを発ちます。船でも何でも構いません。どうすれば良いですか」
女性職員は顔を上げ、私をまっすぐ見つめて言った。
「ここから出発する方法はもうございません。先程の便が最終便でございました」
私は途方に暮れロビーホールに立ち尽くした。いや、途方に暮れる前に謎に包まれていた。第一に空港にどうやって来たかの記憶がない。搭乗手続きをしたのは覚えているが、それ以前の記憶がなかった。第二に持っていたはずの手荷物が見当たらない。黒の機内持ち込みサイズの旅行鞄だった。あの鞄には着替えとノートパソコンが入っていた。手荷物検査を通す時にノートパソコンを取り出してトレイに乗せ、その後検査台で鞄に戻した。その記憶は確かなはず。他に客のいない小さな空港で鞄が失くなるなど考え難い。搭乗待合室を覗いたがそれらしきものはなかった。まさか旅行鞄だけあの飛行機で運ばれてしまったとでも言うのだろうか。先程の女性職員に尋ねた。私の手荷物を知らないですかと。
「お客様のお手荷物は拝見しておりません」
そんなはずはない。貴女が手荷物検査機を通過させたじゃない。そのことは覚えていないと言うの。
「お客様のご記憶違いではないでしょうか」
未来の不確実性どころか、過去と現在が不確実になって来た。
急に嫌な予感がした。上着のポケットを探る。お財布とスマートフォンがない。搭乗券の半券もない。血の気が退いていくのが分かった。私は自分に言い聞かせた。冷静になれ、忘れたか落としたか盗られたかのいずれかだ。無雑作にポケットに入れていた私も悪いけれど。
もう一度搭乗待合室に入った。丹念にあちこち探すが、それらしきものは見当たらない。考え得る空港内での自分の動線を辿ったがお財布もスマートフォンも見つからない。それに旅行鞄も。あの女性職員を疑うのは憚られたが、他に人が居ない以上、尋ねるしかない。
「私の上着のポケットに入れてあったはずのお財布とスマートフォンが見あたらず、それに搭乗券の半券も無くなっています。この小さな空港で消えて失くなるとは考え難いのですが、何か心あたりはないですか」
女性職員は、困惑した表情を浮かべた。
「申し訳ございません。わたくしはお客様の携行品までは管理いたしておりません」
私は次の言葉が出なかった。カウンターを離れ、ロビーホールから茫然と外を眺めた。旅行鞄もお財布もスマートフォンも無い。飛行機はもう飛ばないと言う。
空港から真っ直ぐに伸びる道が見えた。道はそのまま海に繋がっているように見える。空港の周囲に建物らしきものは見当たらない。私はとんでもない僻地の空港に来たもんだと思った。
女性職員が近づいて来た。
「お客様、間も無く当空港は営業を終了いたします」
困った。お財布が無ければ今晩泊まる事も出来ない。
「退出しなければならないのですか。私は鞄もお財布も無く、今晩泊まることも出来ないのです。一体どうすれば良いのか……」
彼女は微笑んだ。
「此処には空港とわたくしの家しかございません。よろしければわたくしの家にお泊まりください」
他に選択肢はなかった。私はそれではお世話になりますと言い、彼女について行くことにした。
彼女は空港の建物を施錠し、海に向かって真っ直ぐ伸びる道を歩き始めた。建物の前に木彫りの看板があった。南海寝古島空港。何と読むのですかと聞いた。彼女は、みなみうみねこじまくうこうです、と答えた。初めて聞く名前だった。空港の名前を知らないのに、その空港に来ているとはどういうこと? 思い切って聞いてみた。
「そう言えば私は搭乗待合室より前の記憶がないのですが、どうやって私が空港に来たのかご存知ですか」
彼女は、私が記憶がないと言っても驚く様子はなく、
「お客様はこの道を歩いてお見えになりました。お疲れのご様子でした」
と答えた。
道は海に向かって真っ逆さまに落ちる断崖絶壁のところで終わっていた。彼女は私のほうに顔を向け、掌を上にして揃えた指で海の方を示した。
「こちらがわたくしの家でございます」
「この断崖絶壁から飛び降りよとでも言うのですか」
「さようでございます」
私は躊躇した。
「貴女はどうするのですか」
「それではわたくしが先に参ります」
彼女は高飛込選手の如く美しい放物線を描いて海に吸い込まれていった。私は覚悟を決め彼女の後に続いた。重力への抵抗から解放された心地良い感覚が私を包み、紺碧の海面が私を迎えんとした。
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水が跳ねる音で目が覚めた。私は水族館のジュゴンの水槽の前で少しうたた寝していた。ジュゴンは悪戯っぽい表情で私を見つめていた。そして踵を返すように、水槽の向こう側へ泳いで行った。尾びれが水を跳ね上げ、水飛沫が空を舞った。