ある日のありふれた出来事
「誰か……誰か……!」
叫び声が、暗い森に響く。逃げ惑っているのは、少年とも青年ともつかないくらいの男性。彼を追いかけるのは、無数の足音。それが一体何者なのかは、彼にすら分からない。
助けを求める声は、虚しく森の大気の中に吸い込まれていく。従って、何の意味もない。周囲にそれを知覚する者は、誰一人としていないからだ。
彼は、そこに存在していないのと同じだった。ただ一人、森の木々の中を走り続ける。
途中何かにつまづいて、彼はその場に倒れ込む。追いつかれる恐怖に身を震わせながら、彼は慌てて顔を上げた。
そこに立っていたのは、灰色の男だった。いや、チャコールグレーと言った方が良いだろうか。全身単調な色合いで埋め尽くされ、それはまるで淡い色の影のように見えた。
少し後ろには、女性が腰掛けている。冷たい印象の瞳。手には、変わった形の短い日傘。無機質な表情。まるで自分には関係ないとでもいった様子である。
男がフードを払い、顔を上げる。追いかけられていた彼は、途端に全身を強張らせた。
隙間から見えたその表情が、あまりにも不気味だったからだ。
「ひいっ……」
思わず歯の間から声が漏れる。男は何も言わずに、懐に手を入れた。
取り出したのは、一冊の本だった。
男が、その本の表紙に手をかざす。ぼんやりとした光が放たれ、彼の髪を、その薄い表情を照らした。
「本当は、あまりこういうのはよろしくないのですが」
まるで文字が意思を持っているかのように浮かび上がり、彼の周囲に舞い上がる。
「なんとかしないと、いけませんね」
そして、周囲は霧に包まれた。
次の瞬間には、得体の知れない存在の姿も、そして地面に這いつくばっていた若者の姿も、どこにも見えなくなっていた。
「お見事」
澄んだ声がして、男は後ろを振り返る。
「どういたしまして」
「それで、次はどうなさいますか?」
いつも少し言葉が足りない彼女の一言に、男は顎に手を当てて考えてから答えた。
「少しだけ、休ませてください。久しぶりに、走ったもので」
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、隣に座っていたリーノがうーんと伸びをした。
「興味がある話も、聞いてるだけじゃ退屈だよね」
「そうかしら」
アリーシャは人並み外れて好奇心旺盛なので、多少の退屈な話くらいでは特に眠くなったことはなかった。
「えっ、すごいね」
ありえない、という感じのリーノ。
「まあ、言われてみればそうかもね」
さらりとそう言ってのけるアリーシャに、リーノは思わずほへえといった声をあげる。
「アリーシャって、すごいよね。ベルクリア語もちゃんと話せてるし」
「ベルクリア語は、学校で習ったもの。とっくに慣れてるわ」
「そうなんだあ……」
実際のところは不登校ぎみだったので、親に教えてもらったり、独学で勉強したりしていた。しかし都合の悪いことはなかったことにしようとするのがアリーシャである。
この学園では、高等部以上の生徒は基本的に好きな授業を自由に選択することができる。しかし必修科目は全員が受講しなければならない。
ちなみにさっきまで受けていたのは図書館奉仕論という、来館者により良いサービスを行うための対応法についての授業である。
「でもこの次は待ちに待った実技だし。はりきっちゃうぞ」
リーノがにやりと笑って拳を作ってみせる。
「うん、そうね」
適当で忘れっぽいアリーシャだっが、これはちゃんと覚えていた。個々人の魔力を駆使し、書誌情報を把握・管理する。その実際の図書館業務の実技練習が、1年目からさっそく行われるのである。
彼女は、少し不安だった。実のところ彼女はあまり魔術を使ったことがなく、せいぜいゲートのロックを解除する程度である。そもそも周りあまり同年代がいなかったから、自分がどのレベルかが良く分からないのである。
「それじゃあ、早く着替えないと。ね、早く行こ」
「ええ」
アリーシャはリーノと他の生徒たちに続いて、教室を後にした。