通訳の麻衣さん
第2回お仕事小説コン応募作品です。笑ってちょっぴり泣けるお仕事小説です。
広尾駅の階段を上がり地上に出る。交差点の長い信号を待つ間、陽射しから身を隠す場所はなく、それが坂上の緊張をいくらか和らげた。車の通りは少ない。大判のタオルで首筋の汗を拭いながら目を細めて腕時計を見る。打ち合わせ場所の地球センターは目の前だ。集合時間までまだ十分ある。
二人の男が早口の中国語で話をしながら坂上の脇をすり抜けて、赤信号の灯っている横断歩道を渡っていく。二人は走りもせず、車が来るかどうかを気にする様子もない。後ろ姿を見ながら、彼らも一緒に仕事をする通訳コーディネーターだろうかと坂上は思う。
信号が変わり、肩のトートバックを担ぎ直して横断歩道を渡る。グレーのパンツスーツを着た小柄な女性が一歩先に歩き出した。狭い歩幅でリズムよく歩いて行く。坂上は幾分背筋を伸ばして横断歩道を渡り切ると、前方に見える地球センターの建物に目をやった。
発色のよいオレンジ色の民族衣装を着た若い男性職員が入り口に立っている。中国語を話していた先ほどの二人連れのうちの一人が日本語で「こんにちは」と大声で挨拶をした。その後ろをパンツスーツの女性が軽く会釈をしながら通り過ぎて行く。
女性の後ろ姿を目で追いながら、
「あの、私は来週来日が予定されている中国訪日青年友好団の通訳コーディネーターなのですが、打ち合わせ場所はここでしょうか?」
坂上が訊ねると、男性職員は黄色い衣装の袖口をひらひらさせながら、女性の向かっている方向を指さした。
「お世話さまです。奥の建物の三階の中会議室です。玄関の受付で入館登録をすませてお上がりください。いまアフリカ展も開催中ですのでよかったら帰りに見て行ってください」
玄関の壁に、職員が身につけているより一回り大きな民族衣装とたくさんの写真パネルが展示されていた。
地球センターは外務省の管轄で国際交流事業を運営する組織だ。
今回の中国訪日青年友好団の受け入れ業務は外務省の委託を受けた地球センターの職員が事務局として実務を行う。通訳と訪日団のお世話係を兼ねた通訳コーディネーターはインターネットで公募され、書類審査と面接に合格した十二人が担当することになっている。
中会議室にはすでに十人ほどのスタッフが集まっていた。あまり広いとはいえない会議室の机の上に書類が散乱している。椅子の数が足りておらず、窓際に立って資料を眺めている人が多い。先ほどの中国人の二人連れは椅子に座って話をしていた。その隣にパンツスーツの小柄な女性が静かに座っているのが見えた。
後ろから入って来た女性スタッフにファイルを渡される。
「通訳コーディネーターの坂上透です。よろしくお願いします」
「ああ、坂上さん。事務局の松下です」
松下さんとは通訳コーディネーターの合格通知を受けてからメールで何度かやり取りをしていた。
「張年さん。うちの課長、見なかった?」
張年さんと呼びかけられたのは、先ほどの中国人の二人連れのうちの一人だ。大声で話をしていた張年さんが振り返る。
「あらら、松下さん。こんにちは。またお世話になります」
張年さんが立ち上がり握手を求めて差し出した手に松下さんは触れず、
「はい、はい。うちの課長、来ませんでした?」
質問を繰り返す。見ていないよと張年さんが答えると、松下さんは首を傾げながら二つ折りの携帯電話を開いた。眉間に皺が寄っている。視線は壁に掛けられた時計に向いていた。
「課長!ちょっといまどこにいるんですか!二分遅刻。もう説明会始めちゃいますよ!」
携帯電話を耳に当てた松下さんに視線が集まり、会議室がしんと静まる。張年さんより大きな声だった。
課長は白いワイシャツの首元にハンカチを握った手を突っ込んで汗を拭きながら現れた。松下さんの進行で説明会が進められ、チーム編成が発表される。
来週来日する団員は総勢百八十三名。そのうち半分が高校生だ。「全部で六分団に分かれますが、総団長のいる第一分団は常に入場は最後、退場は先です」と松下さんから説明があった。
各分団に通訳コーディネーター二人と事務局の担当者がつく。三人で三十名の団員の世話係りをしながら全八日間の日程に同行するのだ。松下さんと張年さんは第一分団を担当する。
松下さんの早口の説明を聞きながら、坂上は集まったメンバーの顔を見渡す。どうやら日本人の通訳コーディネーターは坂上とパンツスーツの女性だけらしい。
来週月曜日の夜、団員たちは二便に分かれて北京から成田空港に到着することになっていた。二日目に外務省の表敬と政府主催の歓迎レセプションがあり、三日目以降は各分団に分かれて日本の各地方都市を訪問し様々な視察や交流活動を行う。高校生は交流する予定の学校の生徒の家に週末だけのホームステイをする。
坂上は第五分団の担当になった。三日目に東京から名古屋に移動し、それから新幹線で京都、大阪へ移動する。最終日に関西空港から帰国する行程だった。
分団毎のスタッフ同士の顔合わせと打ち合わせが始まる。大声の中国語と日本語が入り混じり、会議室は途端に騒がしくなる。
「初めまして。第五分団を担当することになりました須藤です」
事務局の須藤さんは、撫で肩で背が高く、六人の事務局からの同行者の中で唯一の男性だ。歳は三十前後か。胸の前で窮屈そうにファイルを抱えて、坂上たちを部屋の外へと促した。
「会議室は狭いので三階の喫茶コーナーで打ち合わせしましょう」
須藤さんは愛想よく笑う。坂上は須藤さんの後に続いて会議室を出た。背中に張年さんの笑い声が響いていた。
自販機で須藤さんが買ってくれた紙コップのコーヒーを手に、自己紹介をする。坂上のパートナーはパンツスーツの女性だった。
「辻本麻衣です。フリーランスの通訳です。主に中国から来日されるお客様の通訳をしています。中国青年友好団のお仕事は今回が三回目です。国際交流の中でも若い世代の交流は将来の国と国との関係にとって特に大切で、私はとてもやりがいを感じます」
日程表に沿って須藤さんが活動内容を説明している間、辻本さんは膝の上に広げたファイルを見ながら時々小刻みに頷く。坂上は時折辻本さんの横顔を窺う。年齢は二十代半ばくらいか、坂上より一回りくらい下だろう。頬が自販機の照明に照らされて艶々と光って見えた。
辻本さんは目線を上げると、しっかりと須藤さんを見て短く質問をする。
「空港で両替する必要はありますか。トイレはバスに乗る前に行かせますか」
須藤さんの説明に納得すると、長い睫を揺らして黒目をくるりと動かし小さく頷く。最後にわかりました、とにっこり笑った。
それまで説明を聞いていただけの坂上に、何か質問は、と須藤さんが訊ね、坂上は気になっていたことを口にした。
「通訳の分担はどうなっていますか」
できれば難しい通訳の場面は辻本さんにお願いしたいという気持ちになっていた。
資源関係の団体職員だった坂上は、二年間ほど中国に滞在したことがある。北京の駐在員事務所で働いたが、日本語を話せるスタッフが多く、仕事も東京からの指示を日本語で中国人スタッフに伝えるのが主だった。それで帰国してから、一念発起して夜間の通訳養成学校に三年間通い、なんとか通訳案内士の資格を得た。
十か月前に退職したのは、気分屋の上司に振り回され、顔色を窺うばかりの職場に嫌気がさしたからで、次の仕事のあてがあったわけではない。
職場では自分以上に中国語が使える者はいなかったという自負はある。しかしフリーになってみれば資格など役には立たず、通訳エージェントに登録しても仕事はなかなか来なかった。四捨五入すれば年齢は四十だ。退職金もみるみる減っていく。焦っているところで、運よく今回の代表団の通訳コーディネーターの仕事を得たのである。
一昨年、昨年と過去に二回の代表団の来日があった。その第一陣と第二陣の受け入れを経験した通訳に加えて坂上たちが呼ばれたのは今回の訪日団の人数が大幅に増えたからだった。どうやら通訳の割り振りも経験者と初めての通訳をペアにしているようだ。
「メイン通訳とサブと、一日置きにしましょうよ」
明るい調子で辻本さんが答える。そう宣言されたように坂上には聞こえて、思わず、はい、と返事をしてしまった。
「坂上さん、得意な分野とか、この中で自分が通訳したいってところはありますか」
辻本さんはさらりと坂上の名前を呼び、通訳分担表を指さして坂上に笑顔を向けた。
第五分団の訪問先の一覧の上を坂上の視線が忙しなく動く。どこも通訳経験があるどころか、行ったこともないところばかりだ。
「特に得意の分野はないんですが……」「ないんですが?」
すかさず辻本さんに突っ込まれて口ごもる。
「いえ、大丈夫です。一日置きに交代で」
須藤さんが二人の顔を交互に見てから、では、と自分のノートを開いて続ける。
「第五分団の中国側引率者は三人。残りの二十七人は全員高校生です。全員が海外に出るのが初めてなんです。できるだけ優しく対応してあげてください」
辻本さんは黙って頷く。
「引率者の方も海外は初めてですか」
坂本の質問に、須藤さんが、すみませんがそれはわかりませんと言って笑う。須藤さんはA4版の表になった名簿を二人に手渡した。
「この名簿が届いたのも実はさきほどでして」
「名簿に牛乳アレルギーの子の記載がありますが」
辻本さんが顔をあげて須藤さんをじっと見る。
「いや、あれ、そうですね。僕もこういう仕事をするのは初めてなので気がつかなくてごめんなさい」
少し顔を赤くして須藤さんがそう言うのを、ほっとした気分で坂上は聞いた。多少準備不足で通訳で詰まってしまうようなことがあっても、この人ならきつく非難したりはしないだろう。
「さすが通訳さん、プロですね」
須藤さんの言葉に、辻本さんは一瞬だけきつい目つきをした。その視線を坂上も痛く感じる。
「事務局で確認しておいた方がいいと思いますよ。もし牛乳が全くだめだということなら、乳製品の入った料理って案外多いですから李君だけ別メニューを用意してもらう必要があるかもしれません。事前に伝えておかないとその場では対応できないですよ」
軽く頷きながら坂上は内心でそんなことまで気を配るのかと感心していた。
「李君?」
須藤さんが聞き返す。
「ああ、ごめんなさい。この高校生の男の子、李堅強君ですよね。牛乳アレルギーと書いてあるのは」
高校生の名前を読み上げた時の辻本さんの発音はネイティブに近い。坂上の鼓動が早くなる。
「僕は先月までフィジーで海外協力活動をしていたので、英語は少しはわかるのですが、中国語は全くわからないのでよろしくお願いします」
頭を下げる須藤さんの後頭部を見ながら坂上は静かに大きく息を吸い込んだ。
「お二人がいて心強いです」
須藤さんの満面の微笑に釣られて辻本さんも坂上も笑顔になる。坂上は地球センターの受付に張られていたポスターを思い出した。『地球を笑顔に』と書かれた文字の下で肌の色の違うたくさんの子供たちが笑っていた。
初日(月曜日)。
成田空港の高い天井を見上げて坂上は深呼吸をする。午後七時を回っても外はまだ蒸し暑かった。到着ロビーのひんやりした空気に汗が冷えて背中の筋肉が張っている。
「こんばんわ」
真後ろから声を掛けられて坂上は、うわっと思わず声を出してしまうほど驚いた。ふ、ふ、ふと笑いながら辻本さんが立っていた。
「緊張してます?」
「いや、ええ、はい」
辻本さんは坂上の横に立ち、到着便の示された電光掲示板を見上げたまま、
「私も。これからアテンドする相手を待っているこの時間って緊張しますよね。でもなんだかわくわくして私は好きなんですけど」
と言ってふうと息を吐いた。
自分も同じだ。けれども坂上は口には出さずに掲示板の方を見る。
「予定通りみたいですね」
先週打ち合わせで会った時には感じなかったが、並んで見ると辻本さんの薄い肩の位置は坂上の二の腕辺りにある。遠目に見たら中学生にも見えそうな華奢な体つきをしていた。
集合場所は到着ロビーBゲートに向かって左側のベンチ付近。既に数組の通訳コーディネーターと事務局の担当者が分団毎に固まって腰を下ろし、最終の打ち合わせをしていた。張年さんが膝を叩きながら大笑いしているのが見える。坂上と辻本さんがスーツケースを押しながら行くと、座っていた須藤さんが静かに立ち上がり人懐こい笑顔を見せた。須藤さんは先週より大きく感じる。
「お疲れ様です」
須藤さんから『第五分団 愛知・京都』と赤字に黄色い文字で書かれたプレートを渡される。辻本さんは肩掛けバックから伸縮棒を取り出し、それにプレートをテープで留めて即席の手旗を作った。
旅行社の男性がバスの停車位置を知らせに来る。男性は、「先にバスに積んでおきますね」と慣れた様子で言い、坂上と辻本さんのスーツケースを両手で押して行った。
三人で日程をもう一度ざっと確認した後、須藤さんから追加資料を手渡された。バスの中で団員に伝える注意事項を須藤さんが説明する。辻本さんは掌の大きさのノートにメモを取っていた。
「じゃあ、私が到着口で誘導しますから、坂上さんは駐車場側の出口でみんなを纏めてもらえますか」
「はい」
「それでいいですか。須藤さん」
「はい。お任せします」
目尻を下げて須藤さんが微笑む。辻本さんはやや硬い表情で手旗を手にBゲートの正面に向かって行く。
「両替は必要ないと思いますが、トイレに行きたい人がいたら行かせちゃってください。僕も後から頃合いを見てそっちに向かいます」
須藤さんの指示に従い、坂上はバスの停車場により近い出口に向かった。
カート一杯に荷物を積んだ中国人の旅行客に交じって、黄色い揃いのTシャツを着た高校生たちが次々に坂上の方に歩いてくる。整列はしておらず、二人、三人と固まって、まっすぐこちらに向かって来ていた。話をしている子はおらず、表情が一様に硬い。先頭を歩いてきた丸顔の男性にニーハオと声を掛けた。
「貴方が陳先生ですか?」
立ち止まった男性は、一瞬驚いた顔をして
「ノー、ノー」
と顔の前で手を振り、黙ってしまった。
「すみません。勘違いでした」
発音に気を付けて中国語で言い、男性に頭を下げる。そうしているうちに、坂上の周りにたちまち黄色いTシャツの生徒たちが集まってきた。何人かが「ニーハオ」と小さな声で坂上に挨拶をした。
「先生。トイレはどこですか」
大柄な男子生徒がじっと坂上の顔を見ている。『先生』と自分が呼びかけられたのだと気づき、「いいよ」と答える。坂上は集まってきた生徒たちにトイレの場所を指し示しながら、
「トイレに行きたい人はいま行っておいてください。ホテルまでバスで一時間ほどかかります」
と呼びかける。一番後列に居たグレーのジャケットを着た男性が、一際大きな声で、「トイレに行きたい奴はいるか」と重ねて呼びかける。それが陳先生らしかった。
いつの間にか坂上の傍らに立っていた須藤さんが、「坂上さん、須藤って中国語ではどう発音するんですか」などと訊いてくる。
「スータンですか」
「いや、須藤さんの須は唇をストローを吸うときのような恰好にしてうーと発音する音です。どちらかというとスーよりスィーに近いです」
近くにいた黄色いTシャツの高校生たちが、日本語のやりとりを真剣な表情で聞いている。
「私もトイレに行ってもいいでしょうか」
首から下げたネームプレートでそれが陳先生であることを確認し、「問題ありません」と答える。
「よろしくおねがいします」
と、陳先生は練習してきた日本語で言い、短く刈った頭を下げた。髪を薄茶色に染め、濃い茶色のサングラスをした女性が徐先生で、恰幅のいい朗らかな笑顔の男性が張先生。張先生は市の教育委員会から派遣されていて、今回の団長である。三人とも日本は初めてだった。
携帯電話が鳴った。辻本さんからだ。
「そろそろ人数揃っていると思うんですけれど、いま何人ですか」
そう言われてまだ点呼をしていないことを思い出し、慌てて人数確認をする。トイレから帰ってきた男子生徒たちと入れ違いに数組の女子生徒のグループがトイレに向かっている。
「ちょっと待って」
振り返った女の子の一人が立ち止まったが、人数を数え直しているうちにまたトイレの方へ歩いて行ってしまう。須藤さんは張先生から中国語でしきりに話かけられている。「イエス、イエス、ノー、ノー」とだけ繰り返す須藤さんに構わず、張先生は中国語で話かけるのを止めない。
「ちょっと坂上さん、通訳おねがいします」
張先生が坂上と須藤さんの顔を交互に見ながら真剣な表情で訴える。空港の中で携帯電話を借りたいと言う。地球センターでの事前打ち合わせで携帯電話の貸し出しはしないことになっていた。
「規則で携帯電話のレンタルはしないことになっています。でも必要があれば、中国への連絡に須藤さんの携帯電話を利用していただいて構いませんよ」
そう言っても張先生は空港では携帯電話は借りられないのか、それならホテルで借りられるのかと訊く。勢いに押されて須藤さんが、
「この真下、地下一階に携帯電話レンタルの会社がありますが……」と答え、坂上はそれを通訳する。張先生はどうしてもそこへ行きたいと言う。どうしようという顔で須藤さんが坂上の顔を見る。坂上が黙っていると須藤さんは遠慮がちに口を開いた。
「すみません……一応、ルールなので……」
必要な時は事務局の電話を使ってくれるよう、もう一度坂上が説明すると、張先生は「アイヨー!」と両手を広げて舌打ちをした。
横から徐先生がサングラスを外して坂上に話しかける。
「トイレはどこかしら」「トイレは向こうです」
坂上が指した方を見ながら徐先生は
「どこ?あなた一緒に来てくれる?」
徐先生のトイレに付き添い、戻ってくると辻本さんを先頭にみんながバスに移動し始めたところだった。
携帯電話が鳴る。「はい」と電話に出ると一テンポ遅れて辻本さんの声がした。
「坂上さん、一番後ろを見ながら最後にバスに乗ってもらえますか?」
辻本さんの指示に従い、一番後ろを歩いていた女子生徒の二人組の後ろについて坂上も歩き出した。振り返った女子生徒と目が合う。生徒は一瞬びっくりしたように瞳を見開き、恥ずかしそうに笑ってすぐに前を向く。それから隣の子を小突いて小声で何か言い合っている。全ての荷物をバスの下部に積み込み、運転手さんに挨拶をして坂上もバスに乗り込んだ。
「おつかれさまです。えーと私の席は」
車内はしんと静まっている。坂上の顔を見ずに辻本さんが手だけで坂上を制する。通路を前後しながら左手に持ったカウンターで人数を確認しているのだった。
「二十九名。やっぱり一人足りない」
第一分団に同行している松下さんと携帯電話で連絡していた須藤さんが、椅子から立ち上がり、「総団長のいる第一分団が出発しました。そろそろ僕たちも出発できますかねえ」とのんびりした口調で訊ねる。運転手がバスのエンジンをかける。
「一人足りません。誰がいないかわかりますか」
ファイルから名簿を取り出しながら辻本さんがきれいな中国語で高校生たちに問いかける。誰も答えない。
須藤さんが前から三列目に座っている陳先生に「一人足りません」と話しかけ、坂上が通訳する。陳先生は半身で後ろを振り返り、落ち着いた様子で、「張団長がいないね」と小さな声で答えた。そのまま須藤さんに伝える。えっ、と声を上げた須藤さんの頬が強張る。
「携帯電話……」「見に行って来ます」
坂上はジャケットを座席においてバスを降り、駐車場を全力で走った。エスカレーターを一階まで駆け下りるとやはりレンタル携帯電話のカウンターの前に張先生がいた。
「張先生!」
張先生は坂上の姿を見ると「もう手続きは終わったよ。日本のサービスは早いね」とにこやかに笑い、シャネルの長財布から一万円札を取り出してカウンターに置いた。
「もうみんなバスに乗っていますよ。出発の予定時間も過ぎています」
張先生はにやりと笑った。店員にたどたどしい日本語で礼を言って携帯電話とお釣りを受け取った張先生は、先導する坂上の後を無言のまま追って来る。張先生の口元が緩んでいるのを見て、坂上は小走りに駆け出した。
「走る必要はないだろう」
その言葉を無視して坂上はバスへ急いだ。
バスは出発し、東関東自動車道を都心に向かって走り出した。
「辛苦了。辛苦了」
ご苦労様と言う意味の言葉を陳先生が張先生に掛けている。宿泊先は池袋のホテルだ。ライトアップされて頭の先だけ見えているディズニーランドのシンデレラ城や臨海公園の大観覧車をバスの中で紹介する。高校生たちは小さな歓声をあげながら写真を撮っていた。日本製のカメラを持っている子も多い。ソニー製の一眼レフのカメラを徐先生が後ろに座っている男子生徒に渡し、写真を撮るように指示している。バスが葛西を過ぎた辺りで、
「自己紹介でもしましょうか」
須藤さんが立ち上がり、マイクを口に当てて、さっき練習していた中国語での自己紹介を披露した。小さく拍手。男子生徒の一人が大声で何か言って生徒たちが湧いた。何を言ったのか坂上には聞き取れなかった。隣に座っている辻本さんが笑っているのに気づいて坂上は焦る。滞在中の注意事項を辻本さんが流暢な中国語で説明し始めた。機内食だけでは足りなかったのか、パンをかじっていた生徒が慌ててそれを膝に置いた。生徒たちは車窓を流れる夜景から視線を辻本さんに移し真剣な表情で話を聞く。大半の生徒がメモを取っていた。
ホテルのエレベーターホールで最後の生徒を見送ると、背中がずんと重く感じた。とても長い一日だったように感じる。
自分の部屋に入り、「中央防波堤埋め立て処分場の役割」と題されたパンフレットを広げる。さっき空港で須藤さんからもらったものだ。明日訪問するゴミ処理施設である。環境問題は中国にとって最も関心が高い問題の一つだ。
わからない単語のチェックを始める。埋め立ての工法が描かれた説明図を見て、坂上は思わず時計を見た。午後十時を回っていた。
『埋め立ての工法にはいくつかありますが、中央防波堤では二重鋼管矢板式護岸法を標準で採用しています……新海面処分場では砂や銅滓を詰めたケーソンを用いるケーソン法も採用しています。ごみ飛散防止フェンスの下部には盛砂、根固石、被覆石の層を作り……埋め立て地に降った浸出水は一旦、集銅管に集めて……』。
おおざっぱにでも工法を理解しないととても通訳はできそうにない。埋め立て地の工法についてわかりやすく解説したサイトがないか、パソコンを立ち上げ検索エンジンで探していると部屋の電話が鳴った。
「フロントです。中国からのお客様方がロビーで電話の掛け方がわからないとおっしゃっていまして、申し訳ないのですが、こちらに中国語がわかる者がおりませんので、いま電話を代わって頂いてもよろしいでしょうか」
電話の向こうで中国語が聞こえる。私がロビーに降ります、と言って電話を切り、坂上はTシャツの上に上着を羽織って部屋を出た。
ロビーに設置された公衆電話の前に数人の黄色いTシャツの高校生が立っていた。坂上の姿を見つけると、電話を掛けてきたらしい赤い眼鏡の女の子が「ごめんなさい」と頭を下げる。フロントで国際電話の掛け方を聞き、高校生たちに説明した。
「ウェイ?」電話がつながると、赤い眼鏡の子は坂上を振り返って満面の笑みを見せ、興奮した口調で東京に着いて池袋のホテルに泊まっているのだと話している。後ろに並んだ高校生たちも嬉しそうな顔をした。明るい紺色の揃いのブレーザーを着た第三分団の高校生が集まってきて、電話を待つ列が長くなる。明日の準備をしなければと焦りながら坂上は電話の横に張り付いて生徒たち一人一人に掛け方を説明した。
今晩は徹夜になるかも。エレベーターホールで上階行きのボタンを押して待っていると、開いたドアから徐先生が現れた。
「国際電話の掛け方を教えてくれる?」
二日目(火曜日)。
ホテルが用意した訪日団専用の朝食会場は広い。いくつも置かれた大きな丸テーブルの真ん中には分団名を書いた札が立てられていた。ロールパンとオレンジジュースを載せたお盆を慎重に掲げて辻本さんが歩いてくる。坂上の姿を見つけるとにっこり笑った。
「おはようございます。昨夜はよく眠れました?」
坂上は頷き、「辻本さんは?」と訊ねる。
「私はどこでも眠れるのが特技なんです」
へへと笑った辻本さんの目尻が下がる。
「早上好!」
食事を取りに行く第五分団の生徒たちに辻本さんは次々に声を掛けている。
「マーイーサン!」
陳先生が辻本さんを見ながら坂上の隣に座る。陳先生の皿にはこぼれ落ちそうなくらいにサラダが盛られている。
「あなたはマー・イー・さん。間違っていないでしょう?」
陳先生は得意げな顔で辻本さんを見る。昨夜、バスの中で辻本さんは、麻衣という名前は中国語でマーイーと読む。明日からマーイーと呼んで、と自己紹介していた。
「正解です」
辻本さんは何か思いついたというように目をくるりとさせ、
「坂上さんも、今日から麻衣さん、でお願いしますね」
と明るく笑った。
辻本さんと二人でコーヒーサーバーの列に並び、華やいだ気持ちになっている自分に坂上は気づく。後ろから肩を叩かれて振り返ると徐先生だった。穏やかな目をしていた。
「昨夜はありがとう。まだ五歳の子供が起きて待っていたの。あなたのおかげで話ができたわ」
子供がいるようには見えなかったので少し驚いた。
「あなたは添乗員?それともガイド?」
「いや通訳コーディネーターの坂上です」
会場に人が増えてきて、食事を並べた長テーブルに順番待ちの列ができる。第五分団のテーブルにも生徒たちが増えていた。
「昨夜はよく眠れた?」
坂上は生徒たちに声を掛ける。「まあまあかな」空港で坂上が陳先生と間違えた丸顔の生徒が答えた。うっすらと生えた髯のせいで年齢より上に見える。生徒たちの表情は昨晩より少し柔らかくなっているように思えた。
外務省の講堂に次々に生徒たちが座る。全分団共通のプログラムなので引率者を含めた二百名以上が一堂に会する。
「楊玲玲。前の方の席に座って」
麻衣さんは赤い眼鏡の生徒の名前を呼び、生徒たちを席に誘導している。いつの間に名前を覚えたのだろう。坂上は前を通り過ぎた男子生徒の名札に目をやる。李堅強。乳製品のアレルギーがある子だ。痩せて色が黒い。昨日陳先生と間違えた丸顔の生徒の次に背が高かった。丸顔は李倫。背が高いだけでなく、若旦那の風格がある。
講演のテーマは『クールジャパン』。中国語では『酷日本』。官民挙げて日本のアニメやJ―POPなどのポップカルチャーを発信しようという政策の一貫らしかった。
講師のアニメーションプロデューサーがアニメのシーンを次々にスクリーンに映して、タイトルを知っているかと生徒たちに尋ねる。画面が変わる度に生徒たちが大声で答えている。
「アニメ、詳しいですか?」
隣に座っていた麻衣さんに訊かれ、坂上は首を振る。
「外務省主催の講演とは思えないですね」
苦笑いしながら言うと、一番年配の張年さんが、「海賊王がワンピース、死神がブリーチ、火影忍者がナルト、龍猫がとなりのトトロだよ」と教えてくれる。張年さんの子供も日本のアニメが大好きだそうだ。
「全部、インターネットの海賊版で見ている」
と言って、張年さんはくくくと笑った。
講演が終わると、生徒たちの口数がだいぶ多くなった。バスの中も賑やかになる。坂上はバスの通路に立って点呼を取る。「この後どこにいくの?」と生徒が訊ねてくる。黒目がちで利発そうな瞳をしていた。
「ゴミの埋め立て処分場でしょ。日程表に書いてあるじゃない」
赤い眼鏡の玲玲が諭すように言う。
「場所を聞いているのよ。いま私たちがいるのは千代田区でしょう。これから行く埋め立て地は東京湾に面しているのかな?」
そうだと答え、中央防波堤の埋め立て処分場に行く前に、レインボーブリッジを超えてお台場のショッピングモールで昼食をすることを伝える。ショッピングモールと聞いて何人かの生徒が嬌声をあげた。
最初に行先を訪ねた生徒の名札を確認しようとするが裏返っていて見えなかった。
「私は陶琳です。琳は美しい玉という意味」
それから姿勢を正して陶琳は口の端を震わせながら、ど・う・ぞ・よ・ろ・し・くと発音し、たちまち赤くなった顔を両手で隠した。
「漫画が欲しい」、「私は日本のチョコレートが買いたい」、「化粧品を買って来てってお母さんに頼まれた」、「おじいちゃんとおばあちゃんにプレゼントしたいの。何がいいかな」
口々に話し始めた生徒たちの声を聞きながら坂上は笑顔で席に戻った。小突きあったり、大声で冗談を言い合ったり、無邪気なはしゃぎように坂上はほっとしていた。
中央防波堤の視察も麻衣さんに助けられてなんとか無事に終えた。
その晩、品川のホテルで開催された歓迎レセプションは立食形式のパーティで、招待された日本側の来賓も多く、坂上は議員や訪問予定の学校の校長の通訳に追われてほとんど食べられなかったが、デザートだけは陶琳たちが運んできてくれた。名前を呼んで礼を言うと陶琳は嬉しそうな顔をした。レセプションでは都内の高校生たちが吹奏楽やダンスを披露した。演目の後、高校生たちは中国の高校生たちと写真を撮ったり英語で話をして笑いあったりし、和やかなムードのまま散会となった。
明日から名古屋である。宿泊しているホテルのロビーラウンジで引率の先生方と打ち合わせを行う。生徒たちは部屋に戻っている。
名古屋城の見学は、あまり意味がないのではないかと言い出した張先生に、須藤さんが日程は変更できないのだとさっきから説明を繰り返している。噛みあわないやり取りを通訳しながら、張先生の真意は何だろうと考える。
「私には任務があるのだ!」
初めは穏やかに話をしていた張先生が最後には顔を真っ赤にして立ち上がり怒鳴った。張先生の剣幕におされた須藤さんが「何て言っているんですか」と小さな声で坂上に顔を寄せる。
「任務とは具体的に何ですか」
坂上が笑顔を作って訊ねると、張先生は胸のポケットから紙を取り出し坂上の前に拡げて見せた。差し出された紙片には化粧品や家電製品のリストがびっしりと書かれている。メーカー名や型番まで表記されていた。
それまで黙ってやり取りを聞いていた麻衣さんが「買い物……」と小さく呟いた。
「私もバーバリーのバッグが見たいわ」
徐先生が思い出したように言う。陳先生はにこにこと笑っている。
ようやく事情が呑み込めた。張先生は滞在中に上司や同僚に頼まれた買い物を済ませなければならない。事務局が作った視察と学校交流が中心の日程の中で全てを買い揃えるのは到底無理だ。かといって視察を止めて買い物に行きたいとはさすがに張先生も言いにくかったのだろう。任務だと張先生が言ったのは、なぜ事務局は自分の立場を察してくれないのかという非難を言外に含んだものだった。自分の解釈を含めて坂上が須藤さんに説明をすると、須藤さんは眉間に皴を寄せて考え込んでしまった。須藤さんの立場で勝手に予定を変更するわけにもいかないだろう。
その時、麻衣さんが口を開いた。
「予定は変更できません」
驚いた表情で張先生が麻衣さんを見る。
「今回の訪日団の目的はたくさんの日本の青年たちと交流すること、様々な日本の文化や風俗に触れてもらうことです。事務局はそのために一番いい日程を組んでいるのですから、いまになって突然日程を変更することは不可能です」
毅然としてそう言った麻衣さんの息が少し荒い。
「銀座や秋葉原を視察するのも日本の先進文化を学ぶよい機会ではないですか」
陳先生がとりなすように言い、坂上は無言で張先生と麻衣さんの顔を交互に見た。
どちらも譲る気配がまるでない。
「本当にどうしようもないな」
捨て台詞を残して張先生は部屋へ戻ってしまった。
明日の集合場所と時間を確認し、夜十時の生徒たちの部屋への電話点呼を陳先生にお願いして解散した。
「こちらが提供するものが必ずしも相手の国にとって必要なものとは限らないんですよね」
須藤さんがぼそりと言った。
「できれば希望通りにしてあげたいのですが、すみません」
須藤さんは坂上に謝ったが、陳先生と徐先生もエレベーターホールに向かっていて、通訳はしなかった。
電話を掛けにロビーに降りてきた生徒が二人、「ハロー」と坂上たちに声を掛けていく。
「明日午前中の歌舞伎の演目はわかりましたか?」
麻衣さんは背筋を伸ばして須藤さんに訊いていた。
三日目(水曜日)。
須藤さんは、名古屋駅で新幹線を降りてから駅近くのホテルに移動する間、ずっと携帯電話を耳から離さずにいる。
生徒たちはだいぶ落ち着いて、道すがら、坂上に思いつくままに質問をしてくる。タクシーの初乗り料金はいくらか。日本の高校生は学校まで車で送り迎えをしてもらっているのか。着物を着ている女性がいないがどこかで会えるか。明治のチョコレートと森永のチョコレートはどちらがおすすめか。午前中に観た歌舞伎の仕草を真似ながら歩く男子生徒がいる。陶琳といつも一緒にいる郭晶晶が、遠慮がちに何か尋ねようとしているところに、須藤さんが寄ってきて立ち止まる。
「坂上さん。ちょっと相談したいことができたのですが」
生徒たちを先に行かせ、一番後ろを歩きながら須藤さんの話を聞く。全国ネットのテレビ局から、交流の実態を取材したいと地球センターの方に電話があったのだという。訪日団の日程はマスコミにオープンにしてあるそうだ。
「実は、課長が今朝、うちの団での取材を承諾してしまったので名古屋の系列局のクルーがもうホテルに来てしまっています」
ホテルに着くと、先に到着した麻衣さんが生徒たちに手際よく部屋の鍵を配っていた。その様子をカメラマンが撮っている。髪を後ろで縛った長身の若い女性が、須藤さんに記者の名刺を差し出した。「団長と先生にもインタビューをさせて頂きたいのですが」
テレビ局の女性は、真っ直ぐに須藤さんを見る。口元がきつく締まっている。
「どうしましょう」
頼りなげな目つきをして須藤さんが坂上に話を振る。
「私たちも取材のことを聞いたばかりで、先生たちにはまだ何も話をしていませんから少し相談させてもらえますか」
須藤さんの代わりに答えて、麻衣さんを呼ぶ。
こういう事態に慣れているのか、少し離れたところにいたカメラマンが承諾も得ずに張先生の方へカメラを向けた。
「何だ!」
ロビーに張先生の大声が響き渡り、驚いた生徒たちが足を止める。
「部屋に荷物を置いて時間通りにロビーに降りてきて」
坂上は生徒たちに伝えつつ、上行きのエレベーターのボタンを押した。張先生の傍らに駆け寄った麻衣さんがカメラマンに撮影を止めるように言い、須藤さんがカメラのレンズを手で覆い隠すようにして張先生との間に入る。
「勝手に撮るのは止めてください。いま相談してからと記者の方に話をしていたところなんですから」
須藤さんがカメラマンに行った言葉を麻衣さんが張先生に通訳した。
「取材のことは聞いていない。総団長には話をしてあるのか」
麻衣さんがそれを通訳する。テレビ局の女性は顔色を変え、
「取材の許可は地球センターから得ています。大人や政治の都合とは関係なしに純粋な中国の高校生たちの生の姿を伝えたいのです。これから両国を担っていく若い人たちが何を感じ、何を考えているのか。それをきちんと伝えることは我々の使命だと思っています。事務局の方々にもぜひご協力をお願いします」
麻衣さんの通訳を待たずに張先生は顔の前で手を大きく振る。
「だめだめ」
小さく中国語で呟いた張先生の言葉に女性は敏感に反応する。まだカメラは回ったままだ。須藤さんがカメラマンの肩に手を置く。
「とにかく一旦撮影は止めてください」
女性は目に涙を滲ませて、カメラを止めるように伝え、それから低い声で「名古屋城見学の出発は何時ですか」と須藤さんに尋ねた。
まずは総団長にお伺いを立てなければと陳先生と徐先生が口を揃えていい、取材の申し入れが正式なものであれば無視するわけにもいかないと張先生が携帯電話で総団長に相談することになった。
仏頂面のまま部屋に戻る張先生たちをエレベーターホールで見送ってから、フロントで部屋の鍵を受けとる。
名古屋城のパンフレットを小脇に抱えた麻衣さんが、力なく微笑んだ。
総団長と話をした後、張先生は、インタビューはこちら側が決めた生徒にだけ行うという条件をつけて取材を承諾した。選ばれた生徒は楊玲玲と崔大梁の二名。大梁は、貧困地区の農家の出身で、奨学金を得て高校に通っている秀才だ。今回の訪日団のメンバーにも文句なしに選ばれたということだった。大梁は、他の男子生徒たちがはしゃいでいるのを傍で静かに見ていることが多い。外務省の講演の後、「アニメなんて子供っぽい」と言っていたのが印象的だった。彼の故郷の家にはテレビがないそうだ。陳先生が気遣って声を掛けることが多い生徒の一人でもある。
それでは生の声が伝えられないと息巻くテレビ局の記者を須藤さんがなだめ、麻衣さんが記者の話を伝えても返事をしなかった張先生が最後通牒のように、
「万一、貴方たちが生徒や学校に不利になるような報道をしたら、外交ルートを通じて抗議する」
と宙を睨んで言い放ち、テレビ局側は渋々条件に応じた。
名古屋城の見学時間は一時間半。生徒たちは城のあちこちでポーズを作って写真を撮り、説明書きの漢字を拾い読みして熱心にメモを取ったりしたりしていた。城門を背景にインタビューを受けた玲玲と大梁は、緊張することもなく慣れた様子で自分の意見を述べ、女性記者の「領土の問題についてはどう思いますか」という坂上が冷やりとした質問にも、「政治のことはよくわかりません」と笑って受け流していた。
四日目(木曜日)。
早朝にホテルを出発して、愛知県と三重県の県境の山中で植樹活動を行った。あまり人の入ることのなかった山の一部を地球センターが借り受け、杉を伐採した後に広葉樹を植えるという事業を行っており、近県の小中学生が課外活動の一貫でこの山で植樹活動を行っていると聞いた。
徐先生が山道の入り口の休憩所で立ち止まり、休みたいという。麻衣さんが徐先生と一緒に休憩所に残った。
三十分ほど山を登り、着いた所は予想以上の急斜面で、足を滑らせ、転倒しながらも生徒たちは植樹作業に汗を流した。笑いが絶えなかった。初めは、山での作業なんてと言っていた張先生も作業を終えて山道を下ってくる時には、生徒たちと声を合わせて歌いながら歩いていた。遠足に来た小学生のようなはしゃぎぶりだ。
「張先生もストレスが溜まっていたのでしょうかね」
前を歩いていた須藤さんが振り返って笑った。張先生の気持ちはわからないが、こちらの日程や手配を予定通りに進めることが一番よいこととは限らないと坂上はふと思う。
休憩所に戻ると徐先生と麻衣さんがお互いの膝を叩き合いながら談笑していた。全員が集合すると名残惜しそうに二人は立ち上がる。
「植樹はどうだった?」
徐先生が明るい表情で生徒たちに尋ねる。
「開心!」
とても気持ちがよかったという意味の言葉を生徒たちが口にした。鬱蒼と葉が生い茂る山を仰ぎ見る。隣にいた大梁が「負離子」と言って大きく深呼吸をしてみせた。
「マイナスイオンのことですよ」
深呼吸しながら麻衣さんが教えてくれる。麻衣さんの吐く柔らかい息が坂上の首筋にかかった。
京都へ向かう新幹線で、麻衣さんは坂上にキャンディを一粒渡し、後ろを振り向いて席を立つ。
「徐先生、一人だけ北京から派遣されているので、他の先生たちと高校生が話す方言がよくわからないらしいですよ」
麻衣さんは秘密を打ち明けるように声を潜めて言うと徐先生と並んだ席に移動した。コーヒー味のキャンディを含むと口の中に唾液がいっぱいに広がった。
空いた坂上の隣の座席に陶琳が座る。列車が発車するとすぐに晶晶がやって来て通路に立ったまま陶琳と話を始める。
「名古屋のホテルに着く前に訊こうとしていたのは何だったの?」
晶晶に尋ねると、
「何でもない」
と言って晶晶は照れ笑いをする。
「何?」
「彼女が訊きたいのは、日本の高校生は恋愛を許されていますかー」
陶琳の口を晶晶が塞ぐ真似をしながら、「ちょっと止めてよ」と大声で叫び体をよじる。
「おい。静かに」
陳先生がすかさず注意をする。
「日本には付き合っている高校生は大勢いるよ」
ああ、と二人は同時に溜息をつき、陶琳が「私たちは校則で禁じられています。日本の高校生が羨ましい」と怒った顔をしてみせた。
「二人とも好きな人はいるの?」
その質問には二人とも言葉にならない大声で叫んだだけで答えなかった。男子生徒はカードゲームをしたり、駅のキオスクで買った漫画を読んでいたり、あるいはぼんやり車窓を眺めていたりして、言われてみると女子生徒と話をしている生徒は一人もいなかった。
五日目(金曜日)。
京都市内の京東高校に到着すると、正門のところに制服姿の生徒がずらりと並んでいて、第五分団の生徒たちは拍手で迎えられた。窓に『熱烈歓迎 中国訪日青年友好団第五分団』と書かれた大きな文字が見える。
体育館に全校の生徒が待っていた。その一番前に中国の生徒たちの席が設けられている。軽音楽部の演奏をバックに生徒たちが入場する。
まず京東高校の校長が挨拶をし、それを麻衣さんがきれいな中国語で通訳をすると、京東高校の生徒の中から「すごい」と小さな声があがった。
張先生が震える声で原稿を読み、それを坂上が日本語に通訳する。雛壇から中国の生徒たちの緊張している顔がよく見えた。
京東高校の代表の生徒が中国語を交えた歓迎スピーチをし、少しだけ中国の生徒たちの表情が和らぐ。チアリーディング部のパフォーマンスがあり、全国大会に出場している吹奏楽部の演奏があった。中国の生徒たちが気圧されていないか心配になる。中国側が用意してきたパフォーマンスは一つだけだ。司会の生徒の進行に従って生徒たちが準備をする。坂上たちは何をするのか聞かされていない。
「ピアノを使っていいですか」
晶晶が生徒に英語で訊ね、グランドピアノの前に座った。玲玲と大梁が全校生徒の前に立つ。
たった三人でやるのか。坂上は気が気でない。
「マーイーサン」
玲玲が麻衣さんを呼び、小さな紙切れを手渡した。小声で二、三言、言葉を交わした後、麻衣さんがマイクを手にする。麻衣さんの声が少し震えている。
「これから中国の高校生たちが披露するパフォーマンスは、オペラ『蝶々夫人』から「ある晴れた日に」の一幕です。ポップス風に自分たちで曲をアレンジしました。歌は崔大梁、踊りは楊玲玲、ピアノは郭晶晶です。日本の友人のみなさまに楽しんで頂ければ光栄です」
大梁が小さく頷いたのを合図に晶晶の奏でるピアノのぴんと張りつめた音が響く。坂上は腕に鳥肌が立つのを感じた。大梁が歌う。軽音楽部の演奏に劣らないほどの声量で朗々と謳い上げる大梁は堂々として情感に溢れた表情をしていた。唾を飲み込むのも躊躇われるほどその場は緊張感に満ちた。大梁の傍らに背筋を伸ばしてじっと立っていた玲玲がふと解き放たれたように静かに離れ、つま先立ちでステップを踏みながらくるくると回る。
パフォーマンスが終わると、大きな拍手が起こった。麻衣さんはハンカチで涙を拭っている。坂上はふうっと大きく息を吐いた。
「緊張したあ。坂上さん、パフォーマンス、どうだった?」
坂上の顔を覗き込んだ晶晶は子供の様に無邪気な笑顔だった。
生物と書道の授業を日本の生徒たちに交じって一緒に受け、生徒たちは休憩場所になっている食堂に戻った。
書道の授業でひらがなを習ったり、合間の休み時間に写真を撮りあったりして生徒たちは自然に距離を縮めていた。食堂には京東高校の生徒たちもいくつかのグループになってついて来ている。男子生徒は日本の女の子にかっこいいと言われて照れる。京東高校の女子生徒に囲まれて李倫が写真を撮られていた。やはり李倫は先生のように見える。
「素晴らしいパフォーマンスでした」
陳先生に声を掛けると、先生は目を細くした。
「崔大梁は声楽を習っている。高音域が広いのであんな歌も歌えるんだ。晶晶のピアノは全国コンクールで入賞する腕前で曲のアレンジも自分でしたんだよ」
道理である。この生徒たちにどれだけの可能性が秘められているのか。陳先生と同じように坂上も誇らしく思った。書道の授業では先生顔負けの立派な字を書く生徒が何人もいた。
「明天会更好!」
明日はきっともっと良くなる。青年交流事業のテーマソングのタイトルを口にして陳先生は坂上の肩をばんと叩いた。確かに生徒たちの明日は目が眩むほどに輝いていると坂上は思う。
「さっきの生物の授業、全然わからなかったよ。ちゃんと通訳してよ」
李堅強が軽口を叩く。予備資料が何もなく、いきなり植物と遺伝子の授業の同時通訳をするはめになったのだ。少しは多目に見て欲しいと思いつつ、笑ってやり過ごした。
「それからね、坂上さん、緊張して張団長のことを張校長って呼んでいたよ」
それには気がついていなかったので苦笑した。
麻衣さんは日本の女子生徒に囲まれている。通訳になるにはどうしたらいいですかと真面目な顔で訊いている生徒もいた。
生徒たちはしばらく休憩した後、放課後の部活動を自由に見学することになっている。チャイムが鳴り、生徒たちは食堂から少しずつ移動して行った。
格技室の隅に生徒たちが正座して、神妙な顔つきで柔道の模範演技に見入っている。奥の剣道場から威勢のよい気合いが聞こえてくる。中国の高校では武道の授業はないらしい。水泳や陸上競技なども学期の初めによいタイムを出せば、それ以降の授業は自由参加だと生徒たちが話している。ランクの高いとされる大学に入学するために少しでも学業成績を上げておく必要があり、放課後の部活動もほとんどないということだった。
「本当に日本の高校生が羨ましい」
きれいなおでこに手をやりながら、劉紅が溜息をつく。坂上はだいぶ生徒たちの名前を覚えた。恐らく麻衣さんはもうほとんど全員の名前を覚えているのではないか。
「誰かやってみますか?」
柔道着を着た男子生徒に声を掛けられて生徒たちは互いの顔を見合う。
「女性でもできますか?」
顔笑蓉が訊き、「もちろん」と男子柔道部員が笑顔で答える。顔笑蓉に「頑張って」と声を掛けているショートカットの眼鏡の子の名前を思い出そうとするが出てこない。
格技室の入り口に大梁が顔を出した。生徒たちが手招きをする。黄色いTシャツの上から柔道着を羽織らされた大梁が、小柄な部員と組み合う。
「一、二、三」
いとも簡単に大梁の大柄な体が宙に舞い、畳に叩きつけられる。
「アイヨー!」
生徒たちは反射的に体を避けた。
「死ぬかと思った」
笑顔で立ち上がった大梁は、それでも投げられたことが悔しかったらしく、技を教えてほしいと柔道部員に頼む。
先に技の掛け方を教わっていた顔笑蓉が、小柄な女子の柔道部員を投げてみせ、生徒たちは手を叩いて喜ぶ。
私も、私も、と生徒たちは立ち上がり、俄かに柔道教室が始まる。京東高校の部員たちは稽古を中断して、生徒たちに受け身の取り方や技をかける動作を指導し始めた。言葉は通じていない。坂上が通訳に入ろうとしても、部員たちは「大丈夫です」と笑って指導を止めなかった。坂上は畳を降りて、歓声を上げながら胸元と袖を掴み合って組み合う高校生たちをしばらく眺めていた。教える柔道部員たちも中国の生徒たちも大きく目を開いてお互いの顔を見ている。『明日はきっともっと良くなる』。陳先生の柔らかい笑顔がふと浮かんだ。
卓球場では白熱した真剣勝負が行われ、野球場では初めてバットでボールを打った生徒たちが興奮して奇声を上げた。書道部に行った生徒たちは『架け橋』と書いた書を坂上たちに見せに来た。生徒たちの名前がひらがなで書かれている。
「ひらがなは初めて書いたから難しかったよ」
そう言った生徒の顔もとても嬉しそうだった。
校門前の黄色い電灯が、集まった生徒たちの影を作る。今晩から二日間、京東高校の生徒たちの家にお世話になる。授業や部活動で一緒だった子たちもいれば、初対面の生徒同士もいた。生徒たちはまた緊張した様子で、迎えのホストファミリーが来た順に学校を離れて行く。
「わたしの名前はトウリンです。どうぞよろしく」
陶琳が覚えた日本語を復唱し、坂上に救いを求めるような目をした。
「間違ってない?」「大丈夫」
家族が迎えに来た。
「由美です。今日はバイトで部活に行けなくてごめんね」
けれども陶琳はとっさに言葉が出て来ずに家族に促されるまま黙って車に乗り込む。泣きそうな顔で車の窓から坂上たちに小さく手を振った。
六日目(土曜日)。
生徒たちは終日ホームステイでいない。ホテルで朝食を取りながら先生たちと京都散策の相談をする。麻衣さんが持参したガイドブックにはたくさんのポストイットが貼られていた。先生たちは表向き、緊急事態に備えてホテルで待機することになっている。しかしせっかく京都まで来て、ホテルに缶詰めというのもあんまりだというので事前に須藤さんから、午前中に二、三か所、先生たちを案内してあげてほしいと言われていた。
「私は清水寺と金閣寺に行ってみたいわ。有名でしょう」
徐先生が白湯を啜りながら言い、陳先生が「私はどこでも構わないが、張団長の意見はどうだろう?」と須藤さんの顔を見る。
さっきからガイドブックを見ているのは徐先生と麻衣さんだけで、張先生は黙々とトーストをかじっていた。張先生はトーストを食べ終えると、フルーツを取りに席を立った。すっかり打ち解けた麻衣さんと徐先生はバスの乗り継ぎとランチの場所を相談している。少し落ち着かない気がした。坂上には張先生の要望がわかる。
「京都駅の傍に大型の家電量販店がありますが」
水を向けると張先生は満面の笑みになり、その量販店名を叫んだ。
麻衣さんがちらりと張先生を見てから坂上に向かって小さく手を合わせた。
「張先生、私が案内します」
食事を終えてすぐにロビーに集合し、張先生と陳先生と三人で家電量販店に向かった。携帯音楽プレーヤー、デジタルカメラ、電子辞書、タブレットPC、腕時計を一通り見て歩き、午前中は何も買わずに昼食に豚骨ラーメンを食べ、午後に別の量販店に行く。あと二日。そう言い聞かせながら坂本は全ての家電についての説明を通訳する。ふくらはぎが張って痙攣しそうだ。
結局、張先生は「これだけは絶対に買って帰らなければ」と言っていたシェーバーと電子辞書を無事に手に入れ、陳先生は奥さんのための腕時計を購入した。それから二人はお土産用にと寿司の形をしたUSBを十個ずつ買い、ドラッグストアで化粧品を買い終えたときには陽が落ちかかっていた。
夜はホテル近くの居酒屋で食事をすることになっている。須藤さんに電話を入れた。
「こちら任務完了です。そちらは何かありますか?」
一人ホテルで待機していた須藤さんに念のために訊ねた。
「実は、李堅強君が病院に運ばれまして、麻衣さんと徐先生に付き添ってもらっています。もう大丈夫のようですので坂上さんたちは一旦ホテルに戻って来て下さい」
こめかみが疼くのに耐えながらタクシーを拾いホテルへ戻った。先生二人に簡単に李堅強の事情を話したが、二人の上機嫌は変わらなかった。
ホテルへ戻ると、当の李堅強がロビーのソファに座っていた。
「迷惑をかけてごめんなさい」
李堅強は涙ぐんだ。顔が斑模様に赤くなっている。麻衣さんから、ファミリーレストランで食べたピラフにバターが使われていて、それが原因でアレルギー反応を起こしたらしいと聞いた。喉が腫れて呼吸が苦しくなるほどだったと言うが病院に着いた時にはすでに落ち着いていて大事には至らなかった。傍らでホストファミリーのお母さんが心配そうに李堅強を見ている。
「お母さん、ごめんなさい」
「言葉が通じればねえ」
頭を下げる李堅強の肩をお母さんが抱きかかえた。
七日目(日曜日)。
張先生と陳先生は昨夜飲み過ぎて今朝は食事にも降りて来なかった。歓送会の会場になっている京東高校の食堂に着いても張先生はまだ酒臭い息を吐いていた。ミネラルウォーターを差し出すと、坂上はいきなり張先生に抱きしめられる。
「昨日は本当に世話になった。日本の友人は本当に親切だ」
「張先生、酒臭いです」
ホストファミリーに連れられた生徒たちが順に戻って来る。麻衣さんと徐先生が協力して入り口で点呼を取っている。
生徒たちはお互いの姿を見つけると、ほっとした顔で声を掛け合い、抱き合ったり握手したりした。それでもすぐにホストファミリーのいる所にみんな戻る。昼食代わりの軽食がテーブルの上に並んでいる。「ご自由にお取りください」と言っても誰も取りに行く人はいなかった。
楊玲玲が「こんにちは」と手を振りながら会場に入って来る。付き添ってきたお母さんが坂上に頭を下げた。坂上も慌ててお辞儀をし、お世話になりましたと礼を言う。
「リンリンちゃんは本当に素直で明るくていい子でした。昨日の夜は肩まで揉んでくれたりしてーこれでさよならなんて」
ふと黙り込んだお母さんは、静かに涙をこぼした。
「本当にもっと長く居られたらいろんなところを案内してあげるのにー」
「ちょっと泣かないでよ。お母さんー」
玲玲と週末を一緒に過ごした生徒が涙声で遮る。さっきまで笑顔だった玲玲が、赤い眼鏡を外して大粒の涙を落し、嗚咽し始めた。
気がつくと会場のあちこちで生徒や家族が中国の高校生たちと抱き合って泣いていた。李堅強はお母さんに肩を抱かれたまま、赤い顔をして俯いていた。肩が震えている。
「たった三日間でこんなに別れがつらくなるとは思いませんでした」
大梁を連れてきたホストファミリーのお父さんも目の縁を赤くしている。
「そろそろ歓送会を始めましょうか」
そう言う須藤さんの目も少し赤かった。
張先生が最後の挨拶をし、京東高校の生徒たちが校歌を合唱した。「湿っぽいのはやめましょうよ」
指揮棒を振っていた男子生徒が言い、笑いを誘う。
坂上たちはサンドイッチと唐揚げを紙皿に取り、急いで食事を済ませる。中国の生徒たちが京東高校の生徒やホストファミリーと一緒に坂本と麻衣さんのところにやって来て、一緒に撮った写真を見せ、自分たちのホストファミリーのことや連れて行ってもらったところ競うように話す。京都土産もたくさん抱えていた。時間はあっという間に過ぎた。
「ホストファミリーのみなさま、本当にお世話になりました。中国の生徒たちはこの二日間のことを一生忘れないと思います」
須藤さんの声で会場は静かになる。
「それでは名残惜しいと思いますが、大阪行の新幹線の時間もありますので、最後の一言をお願いしたいと思います」
「陶琳を受け入れて下さった山本由美さんのお母様、一言、お願いいたします」
お母さんはマイクの前に立ったが、用意してきた紙を開いたきりハンカチで顔を覆い言葉が出ない。陶琳が駆け寄り、お母さんの手を握った。
「すみませんー」
お母さんは大きく息を吸う。
「トウリンと一緒の時間が永遠に続けばいいと思いましたー引率の先生方、事務局の方々―貴重な時間をありがとうございました」
それだけ言うとお母さんは深々と頭を下げ、マイクを陶琳に預けた。陶琳は、天井を向き涙を堪えから前を向いた。
「わたし、日本語の挨拶をたくさん練習しましたけど、下手でごめんなさい。由美、日本のおとうさん、おかあさん。ありがとう。わたしは由美と、おとうさんと、おかあさんと、由美の家が……ほんとうに、ほんとうに、大好きです。ありがとう」
長い拍手が続いた。坂上の指先がじんじんしていた。
最後に郭晶晶がお礼の合唱の指揮を執る。
「日本でも有名な歌なので、どうぞ一緒に歌ってください」
更け行く秋の夜 旅の空のー
校庭の土が強烈な陽射しを反射して金色に光っていた。
最終日(月曜日)。
空港の荷物検査場を抜けていく生徒たちをガラス越しに見送る。
多くの生徒が泣いていた。先頭の張先生が両手を頭の上でぶんぶんと振り回し、坂上たちに聞こえる大声で「ありがとう」と叫んだ。生徒たちも一斉に手を振る。
最後に残った陳先生が坂上に両手を差し出す。暖かい手だ。
「私たちの国際交流も素晴らしかった。ありがとう」
坂上の目頭が熱くなった。いつまでも手を振っていた陶琳と晶晶の背中を陳先生が押して行き、やがて姿が見えなくなった。
「行っちゃったなあ」
須藤さんが独り言のように呟いた。
麻衣さんはいつまでも荷物検査場の向こうを見ていた。坂上の視線に気がつくと、顔を歪めて無理に笑った。
「坂上さん、また一緒に仕事がしたいですね」
目の周りが真っ赤になっていた。
一足先に総団長の一行を見送った張年さんと松下さんが坂上たちの後ろを通る。
「張年さん、出張精算書はちゃんと今週中に提出してくださいよ」
張年さんは、思わず周りが振り向くような大きな声で笑った。
北京行きの飛行機の最終搭乗案内を知らせるアナウンスが空港の
高い天井に響いた。
(了)
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