逃避行
繁栄と美徳は我が身には遠く
運命の為せる業にただ従うのみ
今こそ弦をかき鳴らせ
強き者すら打ち倒す運命の一撃に
皆の者よ、我と共に嘆き叫ぶがよい。
~オルフ 『カルミナ・ブラーナ』~
既に吹雪は止んでいた。雪と氷でがちがちに固まった国道を一台の黒い4WDが駆け抜けていく。
雪道だというのに結構な速度で走る4WDは、時折ふらついたようにタイヤを滑らせる。きついカーブに差し掛かると、がりがりとスノータイヤが凍った路面を削り取って行った。
4WDのハンドルを握る零は、脇腹の銃創の痛みと、失血による眠気に必死で耐えながら、運転に全神経を集中させていた。
少しでも気を緩めれば、気を失ってしまいそうだった。
その隣の助手席では、奇妙な縁で行動を共にすることになった藤田五郎が、零と同じくらい蒼白な顔を強張らせていた。
荒っぽいハンドル操作に、シートベルトをした体が斜めに傾ぐ。
「お、おい。大丈夫なのか。これは。」
「大丈夫。メンテナンスしたしタイヤも履き替えたばかりです。後は、私が気を失わないことを祈るだけですね。」
その言葉に、藤田もいつもの皮肉を言う間もなく口を閉ざした。
生まれて初めて乗る自動車の乗り心地は、気の毒な事に、彼にとってはひたすら吐き気を耐える事になる拷問器具でしかないようだ。
無言の車内に、ワイパーの音だけが響く。
襲撃の後、二人は燃える隠れ家を後にし、零が所有する4WDの隠し場所まで移動した。それまで利用させてもらった襲撃者たちのスノーモービルを山中で破棄すると、ただひたすらに薄野へ向かって車を走らせていた。
戸惑う藤田を半ば強引に車に乗せたはいいが、運転できないのは計算外だった。薄野まで150kmの道のりを激痛に耐えながら運転する羽目になってしまった。高速ではなく国道を使っているのは、いざという時、ルート変更できないからだ。
ハンドルを握っていた零が、徐にカーラジオをつけた。
この先の交通状況とニュースが知りたいというのもあったが、正直、何か気が紛れるものが欲しかった。
いきなりステレオから鳴り響いたノイズに、藤田の肩がびくりと反応した。
―――道央自動車道は除雪作業のため、滝川から札幌ジャンクションまで通行止め…なお…
無言でラジオに聞き入る。国道は一部通行止めになってはいるが、このルートは安全なようだ。ニュースも、この大雪による被害のほかは、特に何かが起きているということはなかった。
零の指がラジオのチャンネルを変える。兎に角何か聞いていないと気を失ってしまいそうだ。薄野に着いて先ず一番にやることは輸血と、アスピリンを手に入れることだ。
「……今、函館はどうなっているんだ。」
独り言のようにつぶやいた藤田に、零は視線だけを向けた。
「さて、私も行ったことはありませんが、昔はかなり栄えていたようですよ。今はオイルショックの影響で空きビルや空き地ばかりになってるみたいですね。」
本当は一度だけ行ったことがあった。今では打ち捨てられた廃ビルを根城に、亡命してきたロシア人たちが幅を利かせている。あの時は報復に来たチェチェン人に間違えらえて泡を食った覚えがある。
藤田が窓の外を見ながら、そうか。と短く言った。
ステレオからは、重厚なクラシックが聞こえてくる。ソプラノとテノール、バリトンの歌声が荘厳で苛烈なハーモニーを響かせるカンタータは、静かな雪の夜には余り似つかわしくないものだった。
「カルミナ・ブラーナか。」
「…何?」
「この曲ですよ。カルミナ・ブラーナ、おお運命の女神よ。」
「……随分、大げさな唄だ。」
「『汝は常に満ち欠けを繰り返す。情け容赦無い忌むべき世界
感情の赴くがままに、窮乏も権勢も 氷の如く溶けていく。』」
何の感情も込めることもなく、ただ淡々と歌詞を紡いでいく。
「……『繁栄と美徳は我が身には遠く、運命の為せる業に唯従うのみ。』」
さて、この『運命の糸』を紡ぐ奴がこの先にいるのかどうか。まだそれは分からない。だが、この男はその『運命』とやらの一部なのか。それが善きものなのか、悪しきものなのか、唯々歩く羊に知る術はない。
「…だが、紡ぎ糸の先に辿り着いたその時には……その忌むべき世界とやらにそいつを引きずり出してやる。」
その声には、まぎれもない憤怒の感情が込められていた
中々更新できずに申し訳ありません。
エブから移転するにあたり、加筆したり削除したりで手間取ってますごめんなさい惰弱で(´;ω;`)