別れ
孤独を愛する者は野獣か、しからずんば神なり。
~アリストテレス~
「ふん、随分と人気者のようだな。」
電気の消えた薄暗い廊下に藤田の声が冷ややかに響いた。反対にその眼は、蒼く燃える鬼火のような殺気を湛えて、ぎらぎらと光っていた。
藤田の足元を見ると、血溜まりの中で侵入者が2人斃れていた。既に事切れている。
「藤田さんが、これを?」
銃弾で虫食いのようになったドアに寄りかかりながら何とか立ち上がると、砕け散ったガラスの破片や木片をじゃりじゃりと踏みつぶして、先ほどまで生きて銃激戦を繰り広げていた相手に近づいた。
「余計な真似だったか。」
「いいえ。助かりました。」
皮肉っぽい藤田の物言いに、素直に礼を述べた。だが、目ざとく藤田が脇腹の手を見て眉をひそめた。
「撃たれたのか。」
「たいしたことはないです。現役を離れてもう4~5年経ってますからね。大分衰えてしまった。」
本当は大したことあるのだが、ゆっくり治療している時間などない。簡単な止血を施し、遮るように藤田に返事をすると早速次の作業に取り掛かった。
足元に俯せに倒れた2人の内、片方を仰向けに返す。かなりの大柄で、力を入れると脇腹の銃創が燃えるように痛んだが、きつく掌を当てて歯を食いしばり耐えた。顔を覆うマスクを剥ぎ取り、襲撃者の顔を確認した。
顔には見覚えはなかった。ヨーロッパ系の白人だ。ダークブラウンの髪は短く刈り込んである。
死体のジャケットやズボンのポケット、荷物を探るが、身分の分かるものは何もない。所属は分からないが、正規の部隊ではないだろう。恐らく違法任務専門のチームだ。
初めから破片手榴弾を使ってきたという事は、確実に殺しに来たという何よりの証拠だった。
しかし、零の興味は別の所にあった。二人とも狙い違わず心臓部を一突きされて絶命している。
苦痛に顔を歪めるというより、驚いたように眼を見開いた死体は、藤田がその手の刀でどう殺したのか如実に表していた。
凄まじい速さで心臓を貫かれた彼等は、自らが何時、どうやって死んだのか分からぬまま絶命したのだろう。それを想像すると、戦慄が走った。
こんな芸当ができる人間が、この国に、いや、世界にどれだけいるだろうか。人を二人を殺しても眉一つ動かさない冷徹さ。彼は一体誰なのか。
「此奴等に見覚えがあるのか。」
死体のジャケットやバックパックをひっくり返す様にして調べる零に、刀に付着した血痕を拭いながら藤田が声をかけた。
「面識はありません。ただ、彼等の使っていた言語から察するに、恐らく南スラヴ系ですね。それに、かなり訓練されている。」
そして彼等は、下請業者だ。こういう仕事を外注する組織はたくさんある。元を辿れば依頼主に辿り付けるかもしれない。それにはこいつ等が誰かを特定する必要がある。
「ほう。良くそこまで分かるもんだな。」
「以前、少し国の仕事をしていたもんで。」
「『少し』…ね…。」
あからさまに疑いを向ける藤田に苦笑しながら、次の作業に取り掛かった。
―――――――
誰かに見られていると言ったのは嘘ではなかった。ずっと監視されているような気がしたのだ。
しかしこの女は、それを聞いて喚く事はおろか取り乱しもせず、寧ろひどく冷静で、このような状況に慣れているかのような態度だった。
この襲撃も予期したかのように、的確に罠を仕掛け、襲撃者を返り討ちにした。到底ただの猟師にできる芸当ではない。
現役を離れたとはいえ、かなりの修練を積んだのだろう。正確な狙いで拳銃を撃つ吉村の姿に比べれば、導入されたばかりのピストルを御大層に腰に提げ、威張り散らしているばかりの同僚達など木偶の坊に見える。
相変わらず、吉村は先程殺した相手の所持品やら何やらを検めている。
この襲撃者達の武器もそうだが、彼らの拳銃の威力に驚いた。こんなにも小さい拳銃が凄まじい量の銃弾を連射できる事に空恐ろしくなる。
これを持っている連中もだが、この女も然り、これを使いこなす人間が此処にはざらにいるということだ。
そして一番興味を惹かれたのはこの女の素性だ。曲者共は人を殺すことに慣れた連中だった。
それを眉一つ動かさず皆殺しにしたのだ。ただの人間ではないだろう。国の仕事をしていたと言っていた。もしかしたら、どこぞの密偵だったのかもしれない。
――――――
時間がなかった。此処でもたもたしていたら、彼等が全滅したことを悟られるのは時間の問題だ。次のチームが来る前に此処を放棄しなければ。
地下の保管庫に避難させていたライを出すと、主人の血の臭いで察知したのか、心配そうに鼻を寄せてきた。その健気な姿に、少しだけ元気づけられたが、これからのことを思うと、胸が痛んだ。
「藤田さん、申し訳ないが手伝ってもらえますか。」
そういうと、零はポリタンクを三つ倉庫から運び出し、中の液体をぶちまけた。玄関、ホール、リビング、キッチン、そして階段から二階へ。死体には念入りにかけた。忽ち家中に鼻をつく異臭が充満した。藤田がその匂いに眉を顰める。
「この匂い、石油か。」
「ええ。」
すっかり空になったポリタンクを放り投げると、零は戸惑うことなくジッポーライターに火をつけて、灯油を撒いたあたりに放った。忽ち帯状の炎が蛇のように家の中に伸びていき、そこから大きく燃え上がった。
時折爆発するような音を出しながら、数年間暮らしてきた家が燃え落ちていくのを、零とライは暫しの間無言で見つめていた。
「ライ、お前は連れていけない。」
周囲を赤く照らす中、零はライに視線を合わせるようにしゃがみ込むと、首に小さなポーチを取り付けた。
この場所を特定されているということは、どこへ行っても安全ではないということだ。このような大型犬を犬を連れて市街地を歩けば、かなり目立つ。ライのためにも、此処で別れなければならない。
「暫く佐々木さんの所に居てくれ。彼ならお前も安心だろう。……すまない。必ず迎えに行く。必ず。」
佐々木というのは、齢70を越しているが矍鑠とした老人で、零に猟のいろはを教えた師でもある。ライは彼の所で生まれ、零はそれを譲り受けた。此処の場所からは10km以上はあり、道はかなり険しい。だが、自分は行くことはできない。監視されているということは、佐々木老人にも危害が及ぶかもしれない。それだけは絶対に避けなければならない。
ハーネスにポーチを取り付けると、そのままライの首を強く抱きしめた。
「済まない……もし私が還ってこなくても、強く生きてくれ。お前は、最高の相棒だ。」
様々な思いを振り払うかのように立ち上がり、地面に置いてあったザックを肩にかけた。
「さあ、もう行け。見つからないうちに。」
冬の月のような銀色の瞳が零の姿を映した後、忠実なウルフドッグは雪深い森の中に姿を消した。その背が振り返ることは、なかった。
「……さて、私達も行きましょう。」
束の間、走り去る相棒の背を見届けていた零が口を開いた。既にその眼には何の表情も浮かんではおらず、紅い焔がちらちらと無機質な瞳に反射していた。
「俺を置き去りにはしないのか。お前にとっては足手まといの何者でもないだろう?」
その言葉とは裏腹に、藤田の口調からは皮肉と、余裕が感じられた。
「貴方を助けたのは私だし、巻き込んだのも私だ。……確かに私といると、貴方に危険が及ぶかもしれない。一緒に来るか来ないかは貴方に任せます。此処に居るよりは安全かもしれないし、そうじゃないかもしれない。もしかしたら、私は貴方を囮にして逃げるクソ野郎かもしれない。」
ごうごうと燃え盛る炎だけが、無言で見つめあう二人の間を焦がしていた。
「……いいだろう。共に行く。…お前に助けられたのは事実だからな。それに、もしも貴様がそんな『クソ野郎』だったとしたら、俺が殺してやる。安心しろ。」
「怖いな。そうならないように気を付けますよ。」
「これからどこへ行くんだ?」
「取り敢えず、薄野へ行きます。その後の事はおいおい話します。」
燃え盛る炎を背に、二人はその場を後にした。