Paint it white2
スコープの向こう側で人影が赤い飛沫を上げて倒れたのを確認すると、零は割れた窓から離れてゆっくりと身を起こした。
暑苦しいバラクラバを外す。切り裂くような冷たい空気が、激しい戦闘で熱くなった頭に心地よかった。
赤く染まった窓ガラスの方を見る。化学薬品がじわじわと窓を溶かすほどの高熱を発していて、雪が溶けて湯気を出していた。
零はカウスの弾丸が左肩を掠めた時、咄嗟にあるものを窓に投げつけていた。
それは、NYでカーチェイスを演じた時、アレンから半ば強引に譲り受けた試験段階のカラーボールだった。本来の用途とは違うが、十分な働きをしてくれた。零の血だと誤認させて一瞬の油断を生み出すことで、あの悪魔のような狙撃手を倒すことができた。
「ああ、くそ、だから狙撃手とは戦いたくないんだ。」
大口径の対物ライフルから放たれた弾丸は、零の肩を掠めただけで体ごと吹き飛ばすほどの威力を持っていた。
傷を確認すると、抉れるように肉がこそげられ、戦闘服をじっとりと濡らしていた。顔を顰めてじくじくと痛む傷を止血帯で縛る。
ふらつきながら歩き出すと、アレンのほっとしたような声が聞こえてきた。
≪流石に対物ライフルと真っ向から勝負する為のボディアーマーなんて作ってませんからね。次からはもっと慎重にお願いしますよ。≫
「了解だ。次からはもっといい装備を頼む。」
軽く冗談めかした言葉に、イヤホンの向こうで呆れたようなため息が聞こえて小さく笑った。
零はそのまま先に進むことはせず、屋上へ足を向けた。
勿論、命を賭して戦った敵への礼儀などではない。
まだ生きていれば、アポリオン起動を阻止するための手がかりを得られるかもしれないと思ったからだ。
ライフルを構えながら屋上へ上がると、戦闘服に身を包んだ狙撃手が、グレーの都市迷彩柄の胸元を赤く染め上げて仰向けに倒れていた。
零は武器が近くにない事と、戦う意思がない事を確認すると、苦しそうにあえぐ顔の近くに膝をついた。
「……大した奴だ。流石は【クラフトマン】の暗号名を持つだけある。」
「アポリオンの発射コードはワイズマンが持っているのか。」
慈悲も何もないその問いに、カウスは笑いながら咳き込んだ。咳をするたびに、赤い飛沫が上がる。肺に血液が流れ込んでいるのだ。
「……私には奴の復讐など興味はない。拾われた恩はあるがな、奴の思惑などどうでもいい。私たちには力が必要だった。」
カウスが震える声で話し出した。クルド人、中でもヤジディ教徒は、これまで虐殺、拉致、人身売買など凄惨な仕打ちを受けてきた。その規模は、数十万人にも上る。
定住する地を持つことができず、逃げるように各地を転々としてきた彼らは、宗教、国家、民族の歴史に翻弄され続けてきた。
憎悪は長い間熾火のように燻り続け、やがて燃え上った。世界を飲み込む業火となって。
「憎悪という鎖は簡単には解けない。それが長ければ長いほど、近寄る人間をも絡めとる。貴様ならわかるだろう?」
カウスが再度咳き込んだ。すると、中庭から一匹の白い鳥が飛び立つのが見えた。カウスがそれを見て何かを悟ったように眼を瞑った。
「……ワイズマンは、第三兵器廠の地下にいる。」
カウスがかろうじて聞き取れるほどの声で言った。
「憎悪の鎖は解けない。断ち切るしかないのだ。例えそれが新たな憎悪を生むとしてもな。」
冥界の深淵を映しているような、黒い瞳が真っ直ぐに零を見た。
「アポリオンの発射だけが、奴の目的ではない。奴は残弾すべて発射したのち、衛星自体を落下させる。あと30分だ。猶予はないぞ。」
「なんだと!?」
「……プレゼントはこれでおしまいだ。さあ、行け。【クラフトマン】」
死が色濃く浮かび上がった笑顔を見つめると、零はその場を後にした。
―――落下予測地点は、もちろんあの白い宮殿だ。
灰色の空の下を走りながら、狙撃手が遺したその言葉を思い出して零は総毛立った。
アレンがキーボードを叩く音がずっと響いている。
≪ウィルスプログラムのダウンロードが間に合わない!≫
「直接端末から停止させられないのか!?」
≪無理です!あれはCIA長官の生体認証が必要なんです!≫
その人物はもう既にいないことを思い出し、毒づいた。
「長官はもうこの世にいないんだぞ!どうするんだ!宇宙まで飛んでけってのか!?」
≪わかってますよ!だから今手段を考えてるんじゃないですか!≫
焦燥から零が声を荒げたが、それはアレンも同じことだった。不毛な言い争いをしているうちに、どんどん時間は無くなっていく。
髪の毛をかきむしり、荒々しくキーボードを叩く音と、零の走る足音だけが互いのイヤホンから響いていたが、唐突にアレンが素っ頓狂な声を出したので、零はびくりと足を止めてしまった。
「どうした!」
≪な!そんな!誰かが、プログラムを書き換えている……≫
「なんだって!?」
≪一体、誰が……≫
――――
カウスはずっと降り続ける白を見ていた。それは故郷にはない不思議な光景で、美しくもあり、酷く不安を掻き立てるようでもあった。
白い花弁はどんどん灰色の海から現れ、その冷たい唇でカウスの顔や体を撫でて消える。
もう痛みは感じなかった。肺に流れる血液のせいで酷く苦しいが、もうそれも長くないだろう。
憎悪と、復讐に生きた人生だった。
多くの血を流し、多くの命を奪った。
だがそれを後悔したことはない。
自ら望んで地獄に落ちたのだ。
父も母も神も、人であることも棄てた。
そう、後悔はしていない。
不意に、視界が滲んだ。雪が眼に入ったのだと言い聞かせたが、温かなものが後から後から溢れ、こめかみを伝い流れた。
灰色と白とが混然となった視界の中で、やがて一際真っ白に輝くものに気づいた。
純白の孔雀が、投げ出されたカウスの銃の上に止まっていた。
必死に手を伸ばすと、懐かしい風が頬を撫でるのを感じた。いつの間にか、目の前にはどこまでも蒼い空が広がり、周りからは羊やヤギの鳴き声と、それを追う犬の声が響いている。
――兄さん。
カウスが唯一信頼し、心許せる半身の声が聞こえた。
「……帰ろう。私たちの故郷へ。」
その言葉は、喉からあふれ出た血で声になることはなかった。
冷たいコンクリートの上に広がる赤い華を白い花が塗りつぶしてゆく。
憎悪に生きた狙撃手の亡骸は、降り積もる純白の中にやがて消えていった。




