Paint it white1
3分経ったが、獲物は飛び出してこなかった。だが、カウスは焦ることも、苛立つことも無く、ただ淡々とスコープ越しの景色を見つめ続けた。
スナイパーは、待つこと、即ち忍耐が重要になってくる。ひたすら待ち続け、獲物を確実に仕留められるその瞬間に、引き金を引く。
赤い華が丸いレティクルの中央に咲いたとき、言いしれぬ達成感が身を包むのだ。
(いいさ。いくらでも待ち続けてやろう。私の目の前に現れた時が、お前の最期だ。)
傍らの端末にドローンからの映像が映し出されている。1Fの第二研究室のドローンの映像が乱れたのを見て、あの狼がいたのだと確信した。
カウスはライフルを肩にかけ、場所を移すために走り出した。重たい銃身を背負っているはずだが、その足取りは信じられないほどに素早い。
あっという間に彼は移動すると、ライフルを構えた。
カウスは今、あの美しい狼を仕留めることしか頭になかった。それは憎悪と恋慕が泥濘のごとく混ざり合ったような、倒錯した感情であった。
――さあ。姿を見せろ。狼よ。その心臓を鋼鉄の矢で貫いたとき、貴様はどんな表情を見せるのだ?
―――――
先程の戦闘で、居場所が気づかれたようだ。ちらりと窓から外を覗くと、別棟や中庭のドローンが近づいてきているのが見えた。
零は最初の狙撃から、小さな違和感を感じていた。
カウスほどの狙撃手が、初弾を外したことだ。
間一髪避けたように感じたが、明らかに、あれはわざと零に自らがいることを知らせるために放ったような一撃だった。
何を考えているのか。既に自分は奴の術中に嵌っているのではないか。
あらゆる事態を想定しながら、零は次の一手を考える。するとアレンからの通信が入った。アレンの操るドローンは既にここにはいない。
≪僕は奴の居場所を探します。おそらく、向こうは僕がハックしたことに未だ気づいてない。≫
「大丈夫か?不審な動きをするとばれるだろう。」
≪失礼な。僕はそんなへまはしません……奴を見つけたらマーキングします。それまでは見つからないでくださいよ。≫
アレンが悟られることなく、奴の位置を特定できるかが、この戦いのカギになるだろう。
その間に、零は研究室の実験机の陰に隠れて、ポーチからガラス製の小瓶をいくつか取り出した。先程薬品棚から失敬したものだ。
そばにあったバケツを引き寄せ、薬品を全てぶちまける。
バケツを机の下に置くと、零はそこから静かに離れていった。
それからすぐに数体のドローンが零のいる部屋に入ってくる。ドローンは銃口のついたレンズをくるくると動かしながら、ゆっくりと旋回している。
やがて、一体のドローンが異変に気付いた。実験机の下からもうもうと白い煙が上がってきたのだ。
それはあっという間に広がり、部屋の中を覆い尽くした。
零がバケツに入れたのは塩化亜鉛などの化学薬品と合成洗剤だった。それは主にスモークグレネードに使われている成分であり、知識のある人間なら比較的簡単に作れる代物だ。
真っ白に染まった部屋の中で、ドローンの赤いランプがちらちらと光っている。
零はドローンの包囲網を潜り抜けるように匍匐で研究室の中を進むと、部屋から流れ出た煙で靄がかかったようになっている廊下に出た。
風が強くなってきている。あと数十秒もしないうちに、零を隠してくれるこのベールは消えてしまうだろう。
一瞬だけ赤いレーザーサイトが窓から廊下の壁に現れてぎくりとしたが、まだ移動したことに気づいていないようだ。
まだ向かいの棟にいる。零はそう確信すると、猟犬達の捜索を避けながら進んでいった。
――――
白い煙がスコープの視界の中に広がりゆくのを見て、カウスは僅かに眼を細めた。
猟犬はまだ狼を見つけられないようだ。所詮、玩具は玩具でしかない。
実験データを取るために使えと半ば強引に押し付けられたものであったが、カウスにはどうでもよかった。役に立つなら使えばよいし、役に立たなければ捨てるか殺すまでだ。
己の技術と知恵を駆使して戦い、殺す。
卑怯という言葉はなく、正義や悪など存在しない、純粋な命のやり取り。
それがカウスの居場所であり、墓場なのだ。
「無駄なものは、必要ない。」
低く呟くと、カウスは黒い球体をレティクルの中心に合わせて引き金を引いた。
抑えられた銃声が数回、研究棟内に響き渡る。その弾丸は確実にドローンの動力部を貫き、ただの破片に変えてゆく。
カウスは黙々と、煙から出てきた己の猟犬たちを撃ち殺す。
動く物がいなくなると、カウスは手元にあるタブレットを操作し、口を開いた。
「聞こえているか? 狼。」
――――
いきなり地面に落ち始めたドローンを何事かと驚きながら振り返ると、廊下の天井につけられている館内スピーカーがざらざらと音を発し、零は反射的に身構えた。
≪聞こえているか?狼よ。邪魔な奴は消えた。一つゲームをしよう。今から15分以内に俺を殺してみろ。殺せなかったら、この建物内に仕掛けたC4を起爆させる。解除は無理だ。到底解除しきれる数ではないからな。さあ、ゲーム開始だ。≫
スピーカーから響くアラビア訛りのその声は、上等なチェロのように美しいものであったが、その言葉は狂気に満ちていた。
イカレてやがる。心の中で舌打ちをすると、零はその場を飛び出し、向かいの棟へと走り出した。
赤い光がその後を追い、銃弾が零の頭の横を掠めた。
射線から予測し、その方向へ向けてライフルをひたすらに連射する。窓ガラスが、壁の破片が、粉々となって零の体に振りかかる。
≪零さん!見つけました!東側の屋上です!≫
興奮したようなアレンの声が、耳朶に響いた。
やはり。今ドローンが狙撃された角度と、最初の狙撃はどうしてもポイントに齟齬が出る。
レーザーポインターの方は囮だ。リモートガンか何かを遠隔操作して狙撃したのだろう。
H&KG28の弾倉をポーチから取り出し、再装填して、銃口をそちらへ向ける。
コンマ一秒にも満たない間だが、東側の建物の屋上にきらりと光るものを視界に捉えた。ダイアモンドダストではない。金属の煌き。
それを認識した瞬間、銃声とともに零の体は廊下に叩きつけられた。
――――
窓ガラスにべったりと付着した赤は、さながらイングリッシュローズが花開いたようにも見える。
カウスはスコープ越しにそれを見て小さく息をついた。
「やはり、私の見込み違いか。」
冷めた口調でそう呟くと、カウスは伏せ撃ち姿勢から身を起こした。
だが、それがカウスにとって致命的なミスとなった。
膝立ちになった時、カウスは瞠目した。中庭の木々の間から、撃ち落とした筈のドローンが一体、こちらを見ているのを見て、奥歯をぎりりと噛みしめた。
コントロールを奪われたのだ。それを悟った時、赤く染まった窓ガラスから光るものを見た。
カウスは一瞬のうちに思考を切り替え、スコープを覗かずに銃口をそれに向け、引き金を引いた。
二つの銃声がほぼ同時に、灰色の空に響いて消えた。




