襲撃
それが偽りの顔を被っている
真実であったとしても
できるだけ口を閉ざしておくべきだろう
たとえ過失がなくとも
恥辱にまみれることがあるのだから
~ダンテ・アリギエーリ~
ニューヨーク市、マンハッタン。
ニューヨークは生憎の雨模様だった。どんよりとした黒い雲が高層ビルを覆い、気が滅入るような天気だ。遠くにそびえ立つ自由の女神ですら陰鬱な雰囲気を醸し出している。
先日クリーニングから帰ってきたダークグレイのスーツを着て、いつものように自宅から職場へ向かっていた。今日は朝っぱらから散々な日だ。
いつもは電車で向かうのだが、今日は20分も寝坊してしまった。仕方ないのでタクシーを捕まえようとしたが、なかなか捕まらない。苛々と舌打ちをしながら7ブロック先のオフィスまで歩く羽目になった。
新調したばかりのオールデンの革靴がうっかり水たまりを踏んだ。泥水は革靴どころかズボンの裾まで汚し、眉を顰める。
汚い言葉を吐かなかったのは、彼の斜め前にビジネススーツを着た脚の美しい女性が、高いヒールを響かせて歩いている姿に一瞬見とれたからだ。彼女は傘を差していて、残念ながら顔までは見えなかった。ただ、背中まであるブロンドの髪は、美しかった。
だが、彼は今の自分の醜態を思い出して、慌ててハンカチを取り出し、そばのベンチに座ってズボンの裾と靴を拭った。
すると、ふと目の前が陰になり、ハイヒールを履いた足が現れた。視線を上に向けようとした時だった。小さな破裂音と同時に、何かに貫かれたような激痛が2回胸を襲った。声を上げようとしたが、何故か息をすると凄まじい激痛が襲い、声にならない。目の前が暗くなり、意識が遠くなった。
それ以降、彼が目覚めることは二度となかった。
――――――――
深夜0時を回った頃、零はデスクトップのパソコンに向かっていた。この雪深い場所に、新聞など届かない。なのでインターネットなどで世間の情報を得るしかない。
日本国内だけでなく、アメリカ、ヨーロッパ、アジアのここ1週間に起こった事件事故などを一つ一つ確認していく。キーボードを打つ音が、ディスプレイの光だけの薄暗い部屋の中に響く。淡々とした作業のなか、ふと自嘲めいた溜息を漏らした。
世を捨ててこんな場所で暮らしている癖に、今までの習慣一つ抜け切れない自分がひどく滑稽に思えた。いや、捨てたというより、逃げてきたからこそなのか。
スクロールする画面を見つめていると、マウスを操る手が止まり、零の視線は一つのページに注がれた。アメリカで起きた事件の記事だ。なんてことはない世界中で起きている事件の内の一つ。
それはとても小さい記事で、ほかのゴシップ記事に埋もれて新聞にも取り上げられないような記事だった。
―――この名前…何処かで…?
確かに聞いた覚えがあった。しかし、どこでどのような状況で聞いたのかが思い出せない。何かが引っ掛かる。ニューヨークの街中で射殺された哀れなビジネスマン。犯人は未だ捕まっていない。
ただそれだけの記事に何をここまで気にする必要がある。アメリカでは年間約1万5千もの人間が銃で撃たれて死んでいるのだ。
グラスの中のウィスキーを一口飲んだ。最近酒量が多くなりつつある。限度を超えて酔ったことは一度もないが、自制するに越したことはない。
あの奇妙な居候のせいで、ここのところ散々だ。狩りでは仕留めたシカを諦めたし、バスルームの鏡を修理する羽目になった。今日こそはあの男を駅に送って、元の日常を取り戻したいものだ。
小一時間パソコンの前に座っていた為に固まった肩を、ほぐす様に回していると、ドアの向こうで気配がした。ほとんど反射的にデスクの上に置いたグロックを手に取ろうとしたところだった。
「おい、少しいいか。」と藤田の声がした。
ほっと息を吐いて、「どうぞ。」というと、ドアの向こうに背の高い痩せた男が姿を現した。
「どうかした?眠れないとか?」
「いや、先刻、どこからか見られているような気配がしてな。少し様子見に来ただけだ。」
零の顔色が変わった。この家の周辺には6か所のセンサーカメラを設置している。つい1時間前にも確認したばかりだった。映っていたのは、シカ、ウサギ、リスくらいのものだった。
「何か心当たりでもあるのか。」
「さて……考えすぎじゃない?こんな辺鄙な場所監視したって何の得があるのさ。」
「いや…ならいい。」
そういったものの、やはり気になる。暫くは見つからないと思ったが、奴らは世界中に眼がある。ここも時間の問題だろうか。
「藤田さん。悪いけど日が昇ったら出発するから。用意だけしていてほしい。」
だが、藤田は窓の外を睨みつけたまま、微動だにしない。不審に思いながらどうかしたのかと聞いてみても、「貴様には聞こえんか。」と低い声で言われ、自身も耳をすませた。
微かに、ほんの微かに、風の音だけではない何かが聞こえた。自然界ではまずあり得ない音…エンジン音だ。
「窓から離れて。」
有無を言わさぬ口調で言い捨てると、零は素早く、そして冷静に動き出した。まず、キャビネットの2段目の引き出しから二重底になっている部分を取り外し、輪ゴムでくくった札束をいくつか、弾倉と茶色い封筒、地図、そしてプリペイド式の携帯電話を取り出してデイパックに詰め込んだ。
そしてガンロッカーのカギを開け、散弾の箱を取り出した。かかっていたライフルから照準器を取り外し、スリングを肩にかけた。
「藤田さん、ちょっとまずいことになった。もしかしたら、あんたを巻き込むかもしれない。」
藤田は壁に寄りかかりながら、皮肉気に笑っている。
「身に覚えがないんじゃなかったのか?」
「ありすぎて分からないっていう意味ですよ。言葉の綾です。」
銃は使えますか?と聞くと、いつの間に取ったのか鉄拵えの刀を手に持ち、これでいい。と藤田は笑った。
「いつの間に…。よく分かりましたね。」
「俺も、大人しく寝ていたわけじゃない。探し物は得意なほうでな。」
「すいませんね。隠し事が下手で。…ライ、ここに隠れてろ、な。」
只事ではない主人の様子に、愛犬が心配そうに鼻を寄せ、大人しく言いつけに従った。
キッチンへ移動すると、零はまず灯りを落とし、すべての窓に遮光カーテンを引いた。途端に家の中が真っ暗になった。懐中電灯を点け、次の作業に移った。外のエンジン音は大きくなりつつある。恐らくスノーモービルだろう。4~5台は向かっている。時間がなかった。素早く頭の中でこれからすべき事のプランを組み立てながら、零の手は機械のように正確に作業を進めていく。
その後ろ姿を、藤田は険しい表情で見つめていた。それは獲物を見定めた狼のような瞳であった。