フォールス・ドーン
過ぎ去りしことは、過ぎ去りしことなれば、過ぎ去りし事として、そのままにせん。
~ホメロス~
ヘリのローターが爆音を響かせる中で、斎藤は夢を見ていた。
既にもうこの世にはいない仲間たちが見慣れた試衛館の道場で笑いあっている。だが、斎藤はそれを遠くから眺めているだけだった。
試衛館で過ごした日々は短いものだったが、斎藤の人生で一番かけがえのない日々でもあった。
ぼろで、人もおらぬ道場ではあったが、斎藤には特別な場所だった。
近藤は、どこの馬の骨かもわからぬ自分を笑顔で受け入れてくれた。
沖田には、自分の剣の未熟さを思い知らされた。
土方は、不器用ではあったが、誰よりも仲間を想っていた。
山南、原田、永倉、藤堂、井上。皆、気のいい仲間であった。
世間では、はみ出し者の集まりにも見えただろう。だが、そこには誰よりも深く、強い絆があった。
――ハジメ!こっちだ!
原田の呼ぶ声が聞こえる。面倒見のいい原田は、ことのほか無口で人の輪が苦手な斎藤を気にしていた。
そこへ行きたいと心が叫ぶが、声にはならず、足が鉛になってしまったように動かない。
――駄目だ。
毅然とした声が響く。厳しいが、情に溢れたその声の主を見やる。その目は、まっすぐに斎藤を見つめていた。
――君には、まだやることがあるだろう?だから、まだ駄目だ。
ああ。そうだ。俺にはまだやるべきことがあるのだ。
だから、まだ其方へは行けぬ。
――――
零はヘリの揺れで自分に寄りかかってきた斎藤を起こさぬように、アレンと通信を続けていた。
≪例のガレオン社の関連会社の所在地が分かりました。それと、悪い知らせです。≫
「悪い知らせには慣れっこだ。そちらから聞こうか。」
タクティカルベストのポケットから煙草を取り出して火をつける。ユーリにも差し出すと、顔には出さないが、嬉しそうに受け取った。
≪このテロ事件の主犯はあなただと、官邸が記者会見の場で名指ししたようです。≫
「これで私はビン=ラディンと同じ凶悪なテロリストの仲間入りだな。」
紫煙をくゆらせながら面白そうに零が言うと、前にいたユーリが笑った。
≪馬鹿なこと言わないでください。これであなたは全世界から追われる立場なんですよ。FBIや軍のみならず、賞金稼ぎ(バウンディ・ハンター)だって貴女をつけ狙う。≫
「そりゃあ最高だな。職にあぶれてるならサハロフが雇ってくれるさ。水夫の空きはまだあるからな。」
ユーリが半分冗談めかした。意外にもユーモアが分かるようだ。それを聞いて零は笑みを浮かべた。
「私はこう見えて乗り物に弱いんだよ。できれば徒歩か馬がいい。……さて、アレン。ガレオンの関連会社の所在地は?」
≪モンテネグロ領、ドルツヌイ。旧ダージニア共和国の都市です。登記上はそうなっています。≫
あの時、ブライアン・ロイドの部屋で見た本。ダージニア共和国の興亡に関する本が脳裏をよぎった。その中にあった名前。ミハイル・アドラー。
亡命直前に国家保安部に拘束され、処刑された哀れな科学者。
この人物に何かがあるかもしれない。
「アレン。ミハイル・アドラーという人物を調べてくれないか。旧ダージニアの科学者だったらしい。」
≪分かりました。その前に、会わせたい人がいます。一度ボストンへ向かってくれませんか。≫
意外なアレンの申し出に、零は不思議そうな顔をした。
「……? ああ。わかった。」
通信を終えると、アドレナリンのせいで感じなかった疲労と眠気が一気に襲ってきた。
兵士や工作員はバックアップが万全であるからこそ危険な任務に臨める。ワンマンアーミーなど映画の中のフィクションに過ぎない。
ここ最近は補給も援護もない孤立無援の状態で、緊張の糸が最大限まで張りつめていたが、漸く得た安息の時間に、それがぷつりと切れそうになる。
ボストンまで、ヘリなら一時間だ。その間に体力を回復しておきたい。
「少し仮眠を取れ。着いたら起こしてやる。」
零はユーリの申し出をありがたく受けることにした。眼を瞑り、座ったまま身体の力を抜く。傍らの斎藤の体温を感じながら、零は微睡の中へ身を任せた。
『着いたぞ。』
ユーリにそう言われる前に、零は既に覚醒していた。十分な休息とは言えないが、粗方体力は回復していた。いまだ眠っている斎藤の肩を叩いた。
「斎藤さん、一回降りますよ。」
叩かれて、はっとしたように斎藤が眼を覚ます。結構深くまで寝入っていたのだろう。普段の精彩さが感じられない。周りを見て初めて、零に寄りかかっていたことに気づき、バツが悪そうに眼をそらした。
「少しは休めました?」
「ああ。こんな乗り物じゃなければもっとよく眠れた。」
不機嫌そうな、そして相変わらずの減らず口に零は笑みをこぼした。
ヘリから降りると、クラシカルな雰囲気を残してはいるが、比較的真新しい病院が目の前に見えた。ヘリがいきなり降り立ったというのに職員の一人も出てこない。
訳ありの患者が多いのだろう。運営費をマフィアや犯罪組織が賄っている所もあるのだ。今更驚きはしなかった。
『この中だ。俺はここで待機してる。』
ユーリがそっけなく言うと、さっさとヘリの調整に入ってしまった。零と斎藤は仕方なく、ボロボロの格好のまま病院の入り口に入っていった。
「待ってたぜ。嬢ちゃん。」
聞いたことのある、ラテン・アメリカ訛りの陽気な声に零と斎藤は瞠目した。白いロビーの長椅子に、ジョーが座っていたのだ。彼は病院の中だというのに葉巻をふかしていた。呆れたように零が口を開いた。
「死んだかと思っていた。しぶとい爺さんだな。」
「馬鹿言え。俺はあのブラック・シーの戦いでも生き残った。あれくらい屁でもない。」
「グレアムとロイは残念だった。」
零が神妙な面持ちで言った。ジョーも沈痛な表情を滲ませて、大きく紫煙を吐き出す。
「ああ。彼らは戦友であり、親友だった。この世界にいる以上、突然の別れは付き物だが、いつまで経っても慣れはせんよ。 」
少しの間だけ、沈黙した。それは死んだ彼らのための黙祷であるかのように。
「それで?何の用だ。」
「お前の飼ってたネズミがケガをして、俺たちが助けた。これは貸しだ。クラフトマン。自分のケツ位自分で拭けってんだ。205号室にいる。ってもういねえか。」
最後まで聞かないうちに、零は走り出していた。斎藤をロビーに置き去りにしたのも気づかずに。いつもの冷静さもかなぐり捨てて、イライラと階段を上る。酷いしくじりだ。そう心の中で自分を責め立てながら。
205号室のプレートを見つけた。消毒液の臭いが嫌でもあの時の忌々しい記憶を呼び起こす。
扉を開ければ、白い病室内にベッドが一つ。その上にはグリーンの入院着を着た人物が横たわっていた。ベッド上のプレートにはダニエル・ブリアーニと記載されている。G.Gの本名だ。零は包帯まみれのその体に思わず声を上げた。
「G.G!」
「シーッ!ここは病院よ。お嬢さん。怪我人には優しくしないと。」
穏やかなその声に、思わず眼を見開く。振り返れば、ジョーとともにあの場にいた白髪の老女が、そこにいた。焦っていたとはいえ、気配すら感じなかったことに驚きを隠せなかった。
部屋の隅には簡易椅子に腰掛けたサラが、ラベンダー色のショールを膝にかけた格好で文庫本を開いている。老婦人はゆっくりと本を閉じ、ショールを肩にかけて立ち上がる。何気ない仕草なのに、音も、気配も殆ど感じない。
偵察、狙撃も任務のうちである兵士は、敵に見つからぬよう気配を殺し、風景の一部に溶け込むように徹底的に訓練する。零が知っている中でも、サラはその能力がずば抜けていると言っても過言ではなかった。
「生きていたのか……。」
「グレアムのおかげよ。彼の隠し通路が無ければジョーと私は死んでいた。貴女も無事で何よりだわ。」
サラが立ち上がり、ベッドに足音すら立てず静かに近づく。バイタルを示す規則的な電子音だけが部屋に響いていた。
「ロウアーニューヨーク湾で浮いているところを仲間が見つけたの。運がよかったわね。少し遅ければ死んでいたわ。」
お調子者だが、優秀な情報屋の痛々しい姿に、零は顔をしかめた。分厚い包帯に包まれたその右腕は、肘から先がなかった。
「酷い拷問を受けたみたいでね。片腕はおそらくサメにでしょうと。死ななかったのが不思議なくらいよ。」
ベッドの手すりに手をかけて、包帯と酸素吸入器に包まれたその顔を覗き込むと、微かにG.Gの瞼が開いた。その目はぼんやりとだが、零を見つめている。
「すまない。私がお前を巻き込んだんだ。リリーになんて言えばいいか……。」
G.Gが緩慢な動作で左手を動かし、人差し指を左右に振った。マスクの中でくぐもった声を懸命に出そうとしていた。
「違う……あれは俺が下手うっただけだ……。ブライアンに…ネタを売ったのは俺だ。」
その言葉に零は眼を見開いた。
「最初は上院議員の汚職に関するネタだった。だが、奴はその裏に気付いたんだ。足を踏み入れちゃならない所に辿り着いちまった。」
G.Gが苦しそうにあえぎながら、零を見た。
「奴らはそこから俺に辿り着いたんだろう……。」
「誰にやられたか分かるか。」
G.Gは微かに頭を動かした、否といいたいのだろう。
「わからない。だが恐ろしく手慣れていやがった。あれは、軍の人間だ。マフィアやギャング共とは手際が違う。」
重傷を負わせながらも、死なない程度に拷問するのは至難の業だ。ギャング達は大体が手荒く、殺してしまう事も多い。
だが、それ相応の知識や経験を積んだ軍人なら、数週間は想像を絶する様な苦痛を与え続ける事が出来る。かつて零もそれを身をもって体験した。
それに、軍関係者なら、命にかかわる肉体の切断などはほぼしない。対象者が死亡するリスクが高くなるだけだからだ。
だとしたら、命からがら逃げ込んだニューヨーク湾で、血の臭いを嗅ぎつけたサメにやられたのだろう。
零はG.Gの歪な形になった腕の先を沈痛な面持ちで見つめた。
「わかった。もういい。休むんだ。また来る。」
怒りを無理やり抑えつけるように、部屋から出ようとした時、零の足が止まった。
「……ガレオン・インダストリーズを調べてるんだろう?」
どうしてそれを。という前に、G.Gがケガのためか、ひきつった笑顔を見せた。
「ガレオンの株主のリストを見たら驚くぜ。議員どものオンパレードに、軍関係者もな。」
隣のサラが表情を険しくした。
「奴ら、インサイダーから談合までやりたい放題だ。」
糞共の巣窟だよ。と傷の痛みで時折呻きながら、忌々し気に吐き捨てた。
「G.G。今までで最高のネタだ。ウィスキー・ホテルが廃業になっちまうかもな。」
「俺はな、最高の仕事しかしねえ。分かってんだろ。」
「ああ。そうだな。もう休め。あとは私がカタをつけてやる。」
力強いその言葉に、G.Gは安心したように眼を閉じた。安定した呼吸とバイタル音がまた大きく部屋に響く。
「その件は私たちに任せて。お嬢さん。それに、この人は責任もって守るわ。」
「頼む。今はこっちの案件で手一杯だ。何かあったらすぐに連絡してくれ。」
サラは頷くと、部屋を出ようとした零を引き留めた。その手には、上品な老婦人には似つかわしくない武骨なガンケースがあった。
「これを持っていきなさい。私が昔使っていたものだけど、まだ使えるわ。」
迷彩塗装の施された傷だらけのガンケースを受け取る。ずしりとした重みが、零の手にかかった。穏やかな表情を浮かべる老婦人の苛烈な戦いの歴史を感じたような気がした。
「ありがとう。必ず、返しに来る。」
サラは何も言わず、ただ微笑んだ。
その頃、取り残された斎藤は、薄暗い病院のロビーで所在無さげに突っ立っていた。
「おい、そこの。」
零の姿を追おうか迷っていた所に、南部訛りの英語の声がかけられる。ようやく自分にだと気づくと、斎藤は警戒心をむき出しにしながら、愉快そうに笑う老齢の黒人男性を見た。
「おい、兄ちゃん。お前はここで待ってな。あー、ロイがいねぇと駄目だな。」
ジョーは戸惑う斎藤にジェスチャーを交えながら座るように促した。斎藤もなんとなく察したのか、ジョーと十分な距離を取ってから、ゆっくりと座る。
「ははは!そんなに警戒しなくても食いやしねぇよ!」
白い歯を見せて笑う老人を斎藤は困ったように見る。
「お前を見ていると、若い時のグレアムを思い出す。」
ジョーが斎藤を見て懐かしそうに眼を細めた。
「あいつはいっつも仏頂面で、俺のジョークにもにこりともしないクソ真面目野郎だったが、責任感は人一倍で、仲間想いな奴だった。」
無線越しに怒鳴りあったりもしたな。と、もう帰らぬ戦友を悼むように眼を伏せた。
「友を失うのは、辛いことだ。だが、別れはいつか必ず訪れる。それが今日か今日じゃないか。それだけのことだ。」
長い溜息をつくと、ジョーはそれきり黙り込み、もう一本の葉巻をつけた。それを咎める男はもういない。
斎藤はただ静かに老人を見つめていた。
無言のロビーに階段を下りてくる足音が響いた。斎藤が思わずその方向を見る。
「こんなジジイの独り言なんて聞かせて悪かったな……ほら、迎えが来たぞ。もう行け。ああ、あともう一つ。あの嬢ちゃんがどんなに強かろうとな、女を守れない男は男の風上にも置けねえクソ野郎だ。覚えとけよ。」
斎藤は相変わらず無言で席を立つと老人に頭を下げた。言葉は通じずとも、彼の悲しみを肌で感じていた。
ロビーには、ジョーだけが残された。2本めの葉巻がぼんやりと赤い火を灯している。
「無口なところもそっくりだ。なあ、グレアム。この仕事が終わったら、俺も少しはゆっくりできそうだ。」




