レイザー・エッジ
急斜面では目は真下を見たくなる。
しかし手を上の物をつかもうとする。
~フリードリヒ・ニーチェ~
―― 零がビリーと接触する十数分前。
その男はパーティを楽しむ客や従業員とも違う、異質な雰囲気を帯びていた。
前とは違い、黒のスリーピースのスーツ姿で、長身が更に際立って見える。
彼はプールの向こう側で細いシャンパングラスを褐色の手の中で遊ばせていた。
黒い瞳が斎藤を捉えると、待ち続けた恋人がようやく現れたかのように、笑みを描いた。
その笑顔とは対照的に、斎藤は今にもその喉元を食い破らんが如く男を見据える。
歓声と美しい光の饗宴の中、異様な緊張感が、二人の間だけに漂っていた。
そんな中、怪訝そうな若者の声が斎藤の耳に届いた。
≪斎藤さん?どうしました?動きがないようですが……≫
「アレン殿、すまん。少し気になることが…」
しかし、斎藤の言葉は最後まで声になることはなかった。
プールの向こうにいた褐色の紳士が忽然と姿を消していたからだ。
数秒、気を取られていた間であった。斎藤は自身の油断に舌打ちした。
(どこにいる……?)
煌びやかな人の群れを掻き分け、反対側へ向かう。だが、それらしき人間の姿はどこにもいない。
目の前に広がるプールでは、鳴り響く音楽に合わせて、水底のライトが青や赤など万華鏡のように鮮やかな色を水面に映し始めていた。
≪斎藤さん、45秒後に展開します。そこから離脱してください。≫
「わかった。」
アレンからの無線で、追跡をあきらめようとした時、斎藤の近くにいた白人の女性が空を指さした。
「見て!今、空が光ったわ!」
言葉は解らなかったが、眼の端で稲光の様な光が一瞬雲の切れ間に走ったのを捉え、思わず斎藤も上を見上げる。
そして、耳をつんざく様な音が空中庭園の光の中を駆け抜けた。
ものすごい水蒸気が辺りに立ち込め、突き上げるような振動が斎藤を襲い、立っていられないほどの風圧で後ろのテーブルへ叩きつけられる。
「じ、地震か!?」
誰かが引き攣ったように叫んだ。
だが、地震ではないのは明白だった。少しでも周りを見る余裕がある人間がいたのなら、タワーにほど近い商業施設が丸ごとクレーターになったのに気づいただろう。
唐突に起きた異常に、その場にいた全ての人間ですら何が起こったのか想像もできなかった。
何が起こったのか。
その場にいた人間全員がそう思っていただろう。
人々がどよめきを隠せないでいる中、斎藤がプールの方を見て眉をひそめた。プールの水が、みるみるうちに減っているのだ。
水が引いている方を見ると、まるで巨大なシャベルでこそぎ取ったかのように、
テラスの先がなくなっていた。
あまりの事態にその場にいた全ての人間が呆然としていた。だが、周りの惨状をみてようやくこの異常に気が付いたのか、凄まじい悲鳴があがり始めた。
恐怖や混乱が瞬く間に伝播してゆき、楽しいはずのセレモニーは、途端に恐慌の渦へと変わっていった。
思いがけぬ事態に困惑する斎藤に、アレンが鋭く指示を飛ばした。
≪従業員用の搬入口が東側にあります! そこから早く離脱してください!≫
弾かれたように顔を上げ、それらしき場所を探して辺りを見回す。すると、あの背の高い褐色の男が急ぎ足で搬入口の方へ消えていくのが見えた。
「あそこか!」
恐怖で逃げ回る人々の間を縫いながら男を追う。その間にゴルフバッグから愛刀を取り出していたが、この混乱で我先にと逃げ惑う人々には気にする余裕はない。
すると、いきなり目の前で泣いて何かを探すように歩いていた金髪の少年が転んだ。後ろからは、それに構わず逃げようとする群衆が迫っている。
このままでは、彼は幾人もの大人の足に踏みつけられてしまうだろう。
「くっ!」
斎藤はすくい上げる様に子供を小脇に抱えると、息を吸いこんだ。
「静まれ!子供が居るのが見えぬのか!」
腹の底から響く様な凄まじい大音声に、パニックの中にいた人々がびくりと立ち止まる。
「恐ろしいのは解る。だが皆、一度落ち着け。混乱していては見えるものも見えぬ。」
少年を立たせてやりながら、斎藤は鋭い眼光で周りをぐるりと見た。
全員が戸惑ったように斎藤の方を見る。言葉は解らないようだが、あの狂ったような騒ぎから一転して水を打ったようにしんとしていた。
警備員もいたが、斎藤のあまりの迫力に何も言えずにその場で突っ立っているだけだ。
斎藤は、未だ嗚咽を漏らす少年の青い瞳を覗き込む。
「もう泣くな。父御や母御はどこにいる。」
できるだけ穏やかな口調で言ったが、如何せん異国語など話せない。
少年は不思議そうな顔をして斎藤を見返すだけだ。
さて弱ったと眉間にしわを寄せた時、群衆の中から飛び出すように出てきた金髪の女性が少年に抱き着いた。
「ママ!」
少年の顔がパッと明るくなり、小さな手で女性にひしと抱き着く。
随分と子供を探していたのか、ドレスの足元は汚れた裸足姿で、女性は周りの目も気にせず涙を流しながら子供を抱きしめた。
安堵したように斎藤は口元を緩めると、静かにその場を立ち去った。
母の腕の中で少年は、搬入口へ歩いてゆく斎藤の後姿を見つめていた。
その手にあるのが刀だということも、彼が大好きなヒーローアニメで知っていた。
「あのサムライのおじさんがね、僕を助けてくれたの。カタナで悪い人やっつけてくれるかな?」
母親は少年が指をさす方向を見たが、既にもう誰もいなかった。
その頃、斎藤は人気のない薄暗いバックヤードにいた。
台車や段ボール箱が無造作に積まれた通路には、電灯はほとんどなく、薄暗い蛍光灯だけが点いており、黒の鉄拵えの鞘がそれを反射してぬらりと鈍い光を放った。
暗い通路を歩き続ける。悲鳴は未だ聞こえ続けているが、先程よりは落ち着いた様だ。これならば避難も迅速にできるだろう。
あの少年は、無事に避難できるだろうか。
斎藤の脳裏に泣きじゃくっていた碧眼の少年の姿が浮かぶ。
だが、前の方から人の気配を感じ、斎藤は素早く鯉口を切れる態勢に入った。
蛍光灯の光が届かない暗闇を刺すような視線で睨みつける。
やにわに、暗闇の中から乾いた拍手が聞こえてきた。
『素晴らしい演説だった。あれほどの混乱を鎮めるとはな。』
それは、アラビア訛りの英語であったのだが、斎藤に解るはずも無い。
暗闇から滲むように出てきた褐色の男の一挙手一投足を見逃さんとするがの如く、斎藤はその場から微動だにしない。
『待っていた。異国の剣士よ。』
恋人を迎えるかのように、男は両手を広げた。
『お前のそれは刀だろう?日本のサムライが持っていたな。』
男は斎藤に言葉が通じていないのが解っているのかいないのか、返答を待たずにただ一方的にしゃべり続ける。
『中国人でないのはすぐに解った。だが、お前は唯の日本人ではないな。その眼、その酷薄な気配。餓えた狼そのものだ。』
熱っぽく語る男を斎藤は真っ直ぐに睨みつける。だが、その怜悧な態度とは反対に、男の声はまるで恋人に語り掛ける様に囁く。
『お前と立ち合ってから、お前の剣閃が脳裏から離れなかった。
もう一度逢える日を待ち望んでいた。必ず俺の手で殺してやると。
…… こんなにも早くそれが叶うとは。タウス・マーレクの導きだな。』
男は、どこに隠し持っていたのか、あの黒い湾刀を手にしていた。斎藤がびりびりと殺気を放ちながら抜刀する。
ぎらりと、蛍光灯の青白い光が刀身に反射した。
男はそれを見てさらに興奮したようにぎらぎらとした笑みを描く。
『さぁ、来い。2ラウンド目だ。』
黒と銀の刀身が、火花を散らしながらぶつかり合った。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
まだ数分も経過してはいないだろう。
ガギリと斎藤が蛇のようにしなるシャムシールの一撃をいなし、一度距離を取った。
二人は、獣のように息を荒げて睨み合う。
幾合打ち合ったかもわからない。
辺りには無残に斬られ、砕かれた段ボールや椅子、資材などが散乱していた。
男の上等なスーツの肩と右脇腹は切り裂かれ、襟元には血が滲んでいた。
手には湾刀の他に大ぶりのサバイバルナイフを逆手に構えている。その刃には、赤い血がぬらぬらと青白い光に照らされていた。
それに対し、右頬にざっくりと斜めに走った傷から流れる血を拭うこともせず、斎藤は正眼から下段に構えた。すう、と荒かった呼吸が静まる。
男がそれを見てにたりと笑った。心底愉快でしょうがないという風に。
『楽しいなあ。お前のような奴は初めてだ。』
先程とは全く違う言語で歓喜の言葉を口にする。だが、全く動じない斎藤に男はつまらなそうに肩をすくめた。
「お喋りは済んだか。」
斎藤が低い声で言い放った。男が笑みを消し、ぴくりと眉を上げた。
「……来い。」
男が跳ねるように距離を詰め、長身をフルに生かしてシャムシールを斎藤の頭めがけて振り下ろした。
その一撃を、斎藤は音も無く、滑るような足捌きで左に避けた。長身の男には一瞬斎藤が消えたと思っただろう。
男が斎藤の存在を感じた時には、既に左大腿部に深々と刃が入っていた。
左右転化出身之秘太刀。限られた高弟のみにしか伝授されぬ、溝口派一刀流の極意であった。
「チッ!」
舌打ちし、傷口に手を当てた男は、己の血で汚れた掌を大きく払った。赤い飛沫が斎藤の顔めがけて飛び散る。
「うっ!」
眼の中に入ってしまった異物に、思わず眼を瞑る。その隙を男は逃さず、シャムシールを目の前の首筋めがけて払った。
しかし、斎藤はそれを読んでいたのか、腰に提げていた鞘でそれを防ぐ。金属がかみ合う嫌な音が辺りにこだました。
「ぐあっ……!」
しかし、すぐさま男の強烈な蹴りが斎藤の胸部を襲い、斎藤は後ろへ吹っ飛んだ。
あの傷でこの蹴りを放つなど正気の沙汰ではない。
斎藤がぶつかった衝撃で、がしゃんと積み重なったパイプ椅子が崩れた。
「くそ……。」
咳き込みながら、パイプ椅子の雪崩から這い出る。
この異相の刺客の剣は道場剣術という柔な代物ではない。斎藤は、そう思った。
人間の命を奪うことだけに特化した、殺人術。
最初に会った時から、この男から漂う濃厚な血の臭いを嗅ぎ取っていた。それは斎藤自身が混迷の時代を生き抜いてきて得たものであった。
これより先は、剣術など役に立たぬ。
斬られる前に、相手を殺す。
それが、己が生き残る唯一の道であった。
斎藤は視線を相手に向けたまま立ち上がり、鉄錆臭い唾を床に吐いた。顔に付いた血がその顔を凄絶なものに見せている。まるで狼が獲物を喰らいつくした後の様に。
男がそれを見て音も無く笑った。嘲笑ではなく、純粋に楽しんでいるかのような笑顔であった。
やがて二つの咆哮が、暗闇に響き渡った。
素早い刀の突きが男の心臓めがけて伸びる。
左手のサバイバルナイフがそれを防いだが、そこからの横薙ぎの払いに耐え切れず、甲高い金属音を響かせてナイフがその手から飛んで行った。
しかし、男が怯むことなく斎藤の懐に入り、その腕を巻き込むと、斎藤の視界はぐるりと回った。
背中が硬いコンクリートに叩きつけられ、息が止まる。視界の端にカラカラと刀が床を滑ってくのがかろうじて見えた。
20世紀前半、イスラエルで考案された近接格闘術、クラヴマガ。一般に普及しているスポーツとしてとしてのものではなく、男のそれは極めて殺傷力、制圧力ともに優れた近接格闘術である。
斎藤の体に馬乗りになった男は、シャムシールで斎藤の首を押し切ろうと刃を当てようとしたが、済んでのところで鞘で防いだ。
「くっ……。」
ぎりぎりと鉄の鞘に刃が食い込む。上から凄まじい力がかかり、体勢の悪い斎藤はどんどん押されてゆく。
また、稲妻の様な光が空に走った。だが、二人はそれに気づいてはいない。
次の瞬間、何かが爆発したかのような音がすぐ近くで響いた。
さっきとは比べ物にならないほどの轟音と振動が、二人を襲う。
『チッ……起動が早すぎる。』
男は斎藤の上から離れ、毒づく。戸惑う斎藤をよそに男は剣を収めて身を翻した。その先には、先程の振動で割れた窓がある。
『決着はお預けだ。剣士よ。生きていたらまた会おう。』
「待て!」
斎藤が止める間もなく男は窓の外へ飛び出し、闇の中へ消えていった。
「……くそっ!」
轟音がまた響き、今度は立っていられないほどの振動が襲う。
≪斎藤さん!無事ですか!?≫
無線機からかなり焦った零の声が聞こえてきた。雑音が酷く、所々切れ切れになっているが、零の無事に斎藤も安堵した。
「大丈夫だ!今最上階にいる!」
≪アレン!斎藤さんの位置を送れ!今迎えに行きますから、できるだけ屋外で待っていてください。≫
一方的に無線が切られ、斎藤は刀を取り、急いでバックヤードからもう一度テラスへ戻った。
「何ということだ……。」
斎藤は急いでテラスへ戻り、外への扉を開けた途端、愕然とした。
今度はテラスの真ん中が崩落していた。
煌びやかだったテラスは見る影もなく、鉄骨やコンクリートの躯体を無残に晒していた。周りには大勢の人が倒れており、生きているのか、死んでいるのかもわからない。
呆然とその中を歩く。衝撃で吹き飛んだのか、原形をとどめていない遺体も数多くある。
その中に、金色の髪の子供が母親らしき女性に守られるように倒れているのを見て急いで駆け寄った。
「おい!」
女性は頭が半分潰れ、どう見ても生きているようには見えない。
慎重に女性をどかし、子供だけを抱き上げ、心臓の辺りに耳を当てた。
顔色は蒼白であったが、鼓動はしっかりと聞こえる。見た目にも大きな怪我は無い様だ。
「……すまん。」
気を失っている少年を抱き上げ、既に冷たくなった女性に小さく謝罪した。
みしみしと嫌な音が辺りに響く。見ればテラスの端は既に崩れ去っており、他の部分も時間の問題のように見えた。
「これは……まずいな。」
料理や飲み物が無残に散乱したテーブルクロスを割き、少年を自分の背に括り付ける。
そんな時、ずん!という振動が斎藤を襲う。足元が斜めに傾き、椅子やテーブルが耳障りな摩擦音を響かせて滑りだしている。
スカイラウンジ自体が大きく傾きだしているのだ。
「まずいぞ!」
滑り落ちてくる調度品や遺体を避けながら、上を目指す。
既に傾きは45度近くなろうとしていた。このままではスカイラウンジとともに地表へ落下するだけだ。
鋼鉄の支柱に掴まりながら必死に脱出口を探す。
その間にも、崩壊の時は刻々と近づいていた。
「斎藤さん!」
もはやこれまでかと思った時、微かに零の声が聞こえた。
最初は幻聴かと思っていたが、違う。
瓦礫の隙間から這い出すようにして黒い影が現れ、しっかりと斎藤の腕を掴んだ。力強いその感触に、斎藤は安堵したように息をつく。
「遅かったな。待ちくたびれた。」
「寝坊しましてね。さあ、脱出しますよ。……スカイラウンジだ!回収してくれ!もうあと何分も持たない!」
零が無線機に怒鳴る。傾きはますます酷くなり、衝撃でボロボロになったスカイラウンジはその重みに耐えきれず、半ばから折れるようにして崩れ落ちた。
轟音と炎が吹き上げて、タワー3にぶつかりながら地表に落下してゆく。
「ヤバいぞ!上へ!」
傾いた床を死に物狂いで登り続ける。しかし、この空のタイタニック号と成り果てたスカイラウンジに逃げ場等どこにもない。
「もう先は無いぞ!」
斎藤が歯噛みしたように叫ぶ。だが、零は何かを待っているかのように黙り込んでいた。
不意に聞こえてきた建物の軋みや崩落ではない爆音に零が顔を上げた。
まばゆい光を放ちながら灰色の小型輸送ティルトローターが下から現れ、辺りの細かな破片を吹き散らす。
激しい風に二人は顔を腕で覆う。
「こっちだ!」
ハッチが開き、バラクラバを被った兵士が縄梯子を下した。零は斎藤を先に掴まらせると、自らも梯子に掴まった。
「よし!出せ!出せ!」
兵士が操縦席に向かって怒鳴り、ヘリが炎と煙を噴き出すアクエリアス・タワーから離脱する。
背後では轟音の断末魔を残して残り半分のスカイラウンジが崩れ落ちていった。
零が内部に引き上げられた時、アクエリアス・タワーの三棟のうち一棟がまさに崩れてゆく最中であった。
苦々しい表情で、零たちはじっとそれを見つめるしかできなかった。




