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Lone wolf  作者: 片栗粉
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インディゴ・ブルー

悪は善の事を知っているが、善は悪の事を知らぬ。


~フランツ・カフカ~

温暖な地域であるマイアミは、冬でも18度以下になることはない。なかでも4月はそれほど暑くもなく、ハリケーンの心配もない絶好のリゾートシーズンである。


そのリゾート地の新しい象徴であるアクエリアス・タワーは、バカンスを満喫しに来た観光客で非常に賑わっていた。


広々としたガラス張りのエントランスには一面に蒼と白、そしてクリーム色の砂浜が映り込み磨き上げられた真っ白な大理石の床が空色に染まる。


宿泊客を極上の非日常へ誘うという謳い文句は伊達ではなかったようだ。


「……落ち着かんな。」


白を基調としたソファは、最低2万ドルはするイタリア製の高級ブランドの物で、斎藤はそれに居心地悪そうに座りながらぼそりと言った。


近くには相棒の姿はなく、彼は飛び交う異国語と明らかに別世界の人間たちが行きかうのをぼうっと眺めていた。


(同じ国でも、ここまで違うものか。いや、時代が変わっても貧富の差は変わらぬということだな。)


幕府が消滅し、明治政府が生まれ、その時代の変流に乗って富を築いた者も、取り残されて悲惨な末路を辿った者もいた。


それを間近で見てきた斎藤は、それと重ね合わせるかのように、この光景を複雑な思いで見つめていた。


ニューヨークでも、お世辞にもいい暮らしをしているとは言えない人間や浮浪者も多数見てきた。その一方で、このような贅沢な場所に自らが身を置いているということが、強烈な違和感となっているのかもしれない。


そんな事をぐるぐると考えていると、後ろから柔らかな女性の声に意識を引き戻された。


「お待たせしました。行きましょう。」


フロントでチェックインの手続きを済ませてきた零が漸く戻ってきた。今は赤毛のセミロングに淡いブルーのロングドレス、という装いで、毎度のことながらその変装技術には毎度拍手を送りたいほどだ。


その場の雰囲気に一切の違和感なく溶け込む。耳に胼胝ができるほど聞かされて分かってはいるのだが、やはり慣れぬ生活様式、文化の国では至難の業だ。


満面の笑みで腕を絡めてきた零に、斎藤は表情を硬くしないように最大限務めていた。


――――――


零はチェックインを済ませると、素早くロビーを見渡した。挙動の不審な人間はいない。監視カメラも不自然な動きをしている様子はない。それをごく自然な様子で確認すると、ロビーに夫を待たせているハネムーン中の妻の如く振舞った。


淡いグレーのジャケット姿の斎藤に腕を絡ませる。服装は零が見立てたものだ。少し強張った斎藤の表情に、大きめのサングラスを少しずらしてじろりと見た。すると、ようやくぎこちないが笑みの形にその表情が変わり、満足そうに笑みを浮かべる。


コツコツとミュールの高いヒールの音を響かせながら、前で大きなトランクを転がすポーターに話しかける。


「このホテルで、良いバーはあるかしら?」


「それでしたら、最上階にスカイラウンジが御座います。そこからの眺めは最高ですよ。」


スカイラウンジ。屋上のプールに併設されているはずだ。下準備はアレンがしてくれていた。まだオープンして間もないこのリゾートホテルは、予約が2年先まで埋まっているほどだ。


ホテルの宿泊リストにアレンが少しだけ細工をし、そのおかげで表向きは日系人実業家とその妻として訪れることができた。それくらいの細工は彼にとっては朝飯前らしい。コーヒーを飲みながらものの5分でそれをやってのけたのは、彼が優秀なハッカーだというなによりの証明であった。


「へえ。行ってみたいわ!ねぇ?アナタ?」


いきなり、「Darling?」と言われて、一瞬固まった斎藤だが、幸いエレベーターが到着し、会話は中断された。


「こちらがお部屋になります。ごゆっくりどうぞ。」


どうもありがとう。と零が少し多めのチップを渡すと、ポーターは営業スマイルをより輝かせてドアの向こうへ消えた。


閉められた瞬間、零は女性らしい柔らかな笑みを消し去り、すぐさまドアの外へ「Do not disturb」の札をかけて鍵をかける。そして乱暴にミュールを脱ぎ捨てながら、リビングに入っていった。


すぐにトランクを開け、必要なものを取り出した。その中には女性らしいものは一切入っておらず、銃器や電子機器、その他の装備品で占められていた。


計ったようにスマートフォンが鳴る。零はすぐさまそれを取った。


「入ったぞ。良い眺めだ。ハネムーンにはもってこいの場所だな。」


《茶化さないでください。出来るだけベストな位置の部屋を選んだまでです。》


むっとしたようなアレンの声に、いや、良い仕事をしたと言いたかったんだ。と言い訳すると、零は鋭い目つきで向かい側のビルを睨んだ。恐らく、タワー3のスイートルームに、奴はいる。


《19時から23時にかけて、1周年記念セレモニーが開始されます。海側で大量の花火が上がるはずです。》


「それは好都合だ。衆目がそちらへ向いているうちに、乗り込める。」


派手好きのラスベガスのカジノメーカーが開催するセレモニーだ。かなり大掛かりな催しになることだろう。


≪アナタなら、白昼でもするりと入り込めそうですけどね。≫


アレンが冗談ぽく言った。受話器からは頻りにカタカタとキーボードをたたく音が聞こえている。


「ここのシステムはどうだ?君でも難しいかな?」


零はスマートフォンをスピーカーモードにさせ、一つ一つ丁寧に装備品をベッドの上に並べた。


アレンが作った特殊なジャミング装置のおかげで、特定の周波数の通信機器以外はこの部屋で使うことは出来ない。それはこの部屋が完全なスタンドアロンになった事を意味していた。


≪冗談を。どんなに最新式のセキュリティと謳おうが、僕たちにとっては半年前のシステムなんて骨董品同然ですよ。それよりも、上層階周辺から発せられてる強力なジャミングで、その周囲のカメラのハッキングに時間を取られそうです。≫


ああ!またダミーだ!と忌々しそうにキーを叩きながらアレンが舌打ちしたのが聞こえた。


「それは逆を言えば、奴がそこにいる証拠だな。過ぎた臆病は逆に身を亡ぼす。」


零は話しながら、ゴルフバッグに入っていた刀を斎藤に手渡す。彼はすぐに鞘を払い、刀身を寝かせて刃こぼれや異常がないかを確かめ始めた。


斎藤は零にどこかでまた、あの異相の剣士と剣を交えるだろうと零していた。一度刃を交えた以上、今度こそ、相手は此方の首を全力で狩りに来る。それを危惧してなのか、何時もより入念に手入れをしているようだった。


「決行は19時。セレモニーが終わるまでが勝負だ。それまで休みましょう。」


「ああ。分かった。」


2人は、これからの予定と段取りを念入りに確認し、少しの間だけ休息を取ることにした。




『沖田先生、人を斬る極意とは、如何なるものでございましょうか。』


『ん? やだなァ。簡単なことだよ。斬られる前に斬ればいい。』


『……は?そ、そのような事でよろしいのですか?』


『そりゃあそうでしょう。斬られたら大変だもの。だから斬られる前に斬らないと。』


『……はぁ。』


『沖田さん、その辺でよろしいでしょう。副長が探しておりましたぞ。』


『ああ!いっけねェ!』


『沖田さん。そしてそれは俺の草履です。あんたのはこっちだ。』


『あっれぇ?そうだったっけ?まあいいや! 一さん、それ使っててくださいよ!』


『あ!ちょっと!』



―――あの時は、心の底から笑えていた気がした。


―――だが、もうあの温かな時はもう還っては来ない。


―――それは、分かっている筈だった。




斎藤は、ゆるゆると瞼を開いた。あの慣れ親しんだ稽古場の天井とは全く違う。白い天井は既に窓から差す橙色の光に染まっていて、思わず外を見た。

熟した柿が地に落ちるかのように、夕陽が海の向こうへ消えようとしていた。


京で見た夕陽とはまるで違うのに、なぜか、酷く郷愁を掻き立てられた。それは微睡みの中で見た、一瞬の夢のせいだろうか。


「斬られる前に、斬れ。か……。あんたらしい。」


この言葉の意味を理解できたのは、いつだっただろうか。学ばずともその言葉がするりと出る辺り、彼はやはり天賦の才を持っていたのだ。

斎藤は、疲労の溜まった体をゆっくりと起こすと、相棒は既に起きて忙しげに動いていた。零がその視線に気づき、手を止めて斎藤を見た。


「いい夢でも、見ましたか?」


思わぬ言葉に、斎藤は眉間に皺を寄せ、何故だ、と聞いた。


「なんだか、とても穏やかな顔をしていたので。」


「……少し、昔の夢を見ただけだ。」


「そうですか。あと40分ほどで、セレモニーが始まります。大丈夫ですか?」


未だ夢の中を彷徨っているかのような斎藤に、零が傍にあった水のペットボトルを手渡した。


「ああ、問題ない。……それが、現在いまの戦装束か。」


「ああ、まぁ、そんなとこですかね。」


興味深げな斎藤の声音に、零がクスリと笑った。全身を黒に身を包んだ零の姿は、顔さえ出ていなければ、まるで夕焼けの大地に色濃く滲む影のようで。


黒を基調とした戦闘服は、夜間の隠密作戦行動に最も適したもので、全てアレンに調達させたものだった。この短時間に零のリクエストに全て答えた彼の手腕は賞賛すべきだろう。


零は、バカでかいトランクの殆どを占めていた装備品たちを丁寧にタクティカルベストや、ポーチに入れ、最後にグロックと、サプレッサーをつけた小型ライフル、コルト・コマンドーを肩にかけた。


分厚いグローブに覆われた指が、腕にはめた時計のボタンを押した。デジタルの文字盤が浮かび上がり、タイマーがセットされる。


タイムリミットは、セレモニーが終わるまで。それまでにビリー・スパイクを確保しなければならない。零は斎藤に何度目かの確認を行った。



「時計の読み方はわかりますよね?私が出て一時間経過したら、エレベーターに乗って外で待機しているアレンに合流してください。

絶対に一人で別の場所へ行ったりしないように。場所がわからなければ、すぐに無線でアレンが誘導してくれますから。」


念を押すような零の言葉に、斎藤は渋面を作り「もう耳に胼胝ができたぞ。」とごちた。


「いいですか。勇気とか忠誠とか得意げに掲げるのは脳味噌まで筋肉でできたバカの言うことですよ。現場で一番大事なのは、『確認と検査チェックとテスト』 これに尽きます。」


そう、勇気だけでは作戦は遂行できない。職人が作った機械仕掛けの時計の如く、精密かつ迅速に、そして一分の狂いも許されないのだ。


「……わかっている。」


斎藤が刀を入れたゴルフバッグを肩にかけ、厳しい顔で頷いた。零は窓の外を見る。

既に夕陽は水平線の向こうへ消え、群青色の帳が降りつつあった。


美しいはずの景色なのに、零には美しいとは思えなかった。


その奥深い闇の底は、辺獄に繋がっているかのように昏く、今にもプルートゥの呼び声が聞こえてきそうだ。だが、導くウェルギリウスはいない。自らの手で道を切り開くしかないのだ。


「長い夜になりそうだ。」


真っ暗になった室内で、斎藤の低い声がぽつりと響いた。

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