Interval~Blue chip~
40年間法を執行していく中で、私が見て来た何千という犯罪者達には一つの共通点があった。誰もが嘘吐きだということだ。
~ジョン・エドガー・フーヴァー~
「いいんですか?ボスに知られたら今度こそ減給じゃ済みませんよ。」
珍しくハンドルを握る赤毛の青年に、トーマスは聞こえないふりをして、タバコを一本咥えたが、隣からの視線を感じて顔を上げた。
「あのぅ。この車、禁煙なんですけど。」
深いネイビーのコンパクトカーは、デイヴがレトロ趣味の父から貰い受けた1970年代製のフィアット500で、時折青白い煙を出すが、今なお現役だ。細いハンドルを握りながら、今にも火をつけようとしている助手席のトーマスをじろりと睨んだ。
「……わかったよ。相変わらず狭いなこの車。」
窮屈そうにトーマスが身じろぎ、不満を漏らす。デイヴはそれを見てムッとしたように口を尖らせた。
トーマスがどんな女より愛してやまない日本製のスポーツカーは、只今修理に出ていて不在であり、渋々デイヴが車を出すことになったのだ。無論公用車を使えば記録が残るので私用車を使う事になるのだが。
「先輩のGT-Rは流石に廃車ですか。」
「馬鹿言え。エンジン系統は無事だ。修理するに決まってんだろ。ああ、かわいそうな俺のGT-R。いいか、俺はコールマンを絶対許さんぞ。俺の愛車をあんな姿にしたんだからな。」
「……ワオ。マジかよ。」
穴だらけのボディに唖然としながら、新車を買ったほうが安いと整備士は言ったが、トーマスは断固として聞かなかった。
この先数か月は修理費のために働く事になるだろうが、トーマスには職務と同じくらい車の方が大事なのだ。だが、そんな心情など一ミリも分からないデイヴは、肩を竦めてため息をついた。
「着きましたよ。流石にもう市警の捜査員もいないでしょう。」
トーマスはブライアン・ロイドのアパートメントを見上げた。上司であるアルベルトの命令を無視しているわけではない。
此処を調べる事が、コールマンの目的を知るのに必要だとトーマスの経験と勘が言っている。頑固な奴と揶揄されようが、後は行動するのみだ。
ちょうど出てきた管理人らしき女性が不審そうに二人を見つめていたので、トーマスが警戒させないようにバッジを取り出し、挨拶をした。
「また警察の人かしら?」
「突然お邪魔して申し訳ない。FBIのギブソンと申します。こちらはアルトマン。」
トーマスに紹介されて、デイヴは仏頂面の初老の女性に無理矢理ひきつった笑みを浮かべて頷いた。
「まだ犯人は捕まらないのかしら。いつまで経っても修繕できなくて困ってるんだけど。それに警察の人はどうして荒らすだけ荒らして片づけていかないの?片づけるこっちの身にもなってもらいたいわね。」
大の男二人に怯むことなくストレートな嫌味をぶつける女性に、トーマスは素直に大変申し訳ない。と謝る。その態度に少しは気が収まったのか、女性の表情が若干だが和らいだ。
「まぁ、あんた達も仕事だろうからねぇ。ロイドさんの部屋のカギよね?今取ってくるわ。」
「あ、それとですね。」
トーマスが女性の背中に声を掛けた。
「亡くなったロイドさんの事で少しお話を聞きたいんですが。」
思わぬ質問に女性は一瞬首を傾げた後、周りをきょろきょろと気にしながら、少しも小さくない声で喋り始めた。
「流石、ダウンタウンのおばちゃんはよく喋るなぁ。」
げんなりとしたようにデイヴが肩に手を当てながら、狭いアパートの階段を上っていた。あの管理人に話を聞いてから1時間半近く経っていた。
「ああいう手合いは娯楽に飢えてんのさ。しかも噂話が大好きなタイプだ。こっちから振ればファービー人形みてぇに喋りだす。」
娘の結婚の話にまで及ぶと流石のトーマスも顔が引きつったが、普段のトーマスではありえないほど辛抱強く、それでいてさり気なく話題を逸らしていて、そばで聞いていたアレンも感心する程の物だった。
「お前も聞き込みくらいまともにできるようになれ。パソコンとにらめっこしてるだけじゃあ現場は務まらねぇぞ。」
「分かってますよ。もう。最近説教臭くなってません?オッサン化した証拠ですよ。」
トーマスは憎まれ口を叩く部下に、うるせぇ!と後ろから小突いた。
「だけど、ロイドはエディ・デルマーと親しかったんですかね。デイリータイムスではそんなこと聞きませんでしたけど。」
エディ・デルマーの名前はブライアンの職場、デイリータイムスで初めて出たものだ。
デイリータイムスでの片っ端から話を聞いたが、ロイドは社交的で人当たりもよく、殆ど悪い噂は聞かなかった。だが、出入りのフリージャーナリストを名乗るエディという男の評判は最悪で、落ち目のスターのゴシップ記事を無理矢理売りつけるような質の悪い輩だとロイドの同僚は口を揃えて言っていた。
しかし、大家の女性の話では、エディらしき男が何度かロイドを訪ねるのを見たというのだ。親しげな様子で、特に険悪な様子も見られなかったと彼女は言った。
「まぁ、これから判るかもしれん。…… いや、見つけるぞ。必ず。」
トーマスは、ポケットからラテックスの手袋を取り出しその手に嵌めた。デイヴもそれに倣う。
銃弾の痕も生々しいドアの前に幾重にも張られた進入禁止用の黄色いテープを潜ると、二人の捜査官は己の戦場へ入っていった。
「……こりゃ酷いな。」
トーマスがリビングに足を踏み入れての第一声はため息と共に吐き出された。
リビングは戦闘で滅茶苦茶になっていたが、市警の捜査員が引っ掻き回したのか、それ以上に荒れていた。
「ったく。現場保存ってのは警察学校で習うもんだろうが。」
「粗方押収されてますよ。ここより市警の証拠品倉庫を探したほうがいいんじゃないですかね。あれ?主任?」
デイヴが辺りを見回すと、トーマスがそばにいない事に気づいた。いつもこうだった。彼は現場では常に自分の経験と直感に従って歩く。言い換えれば自分勝手に動き回るということなのだが、それ故に彼と組みたがる人間は少ない。
「……おい。デイヴ、見ろ。このデスク。」
トーマスがパソコンの置かれた古いアンティークの机の前にしゃがみ込んでいた。ラテックスの手袋をした指がそのカギ穴をなぞっていた。
「あ、最新式のMacブックじゃないですか。いいなぁ。」
デイヴがデスクの上のシルバーの薄いノートパソコンを羨まし気に眺めているのを、トーマスが呆れたように手を振った。
「バカ。違ぇよ。この鍵穴だ。こじ開けた形跡がある。お前はこっちのパソコンを調べろ。」
はいはい。とデイヴがノートパソコンの電源を入れ、トーマスが机の引き出しを開けた。しかし、中にはペンが数本と、メモ帳しか入ってはいなかった。
「そりゃあ、この机の中の物が目的なら何も入ってないですよね。」
背を向けるトーマスの上から、デイヴが引き出しの中を覗きこもうとした時だった。
急にトーマスが立ち上がり、それに反応できなかったデイヴの鼻に後頭部がぶつかった。
「痛ッ! ちょっと、いきなり動かないで下さいよ!」
「うるせぇぞ。ちっと黙ってろ。」
結構な勢いでぶつかった筈なのにけろりとした上司を恨めし気に見つめながら、「くそ石頭め。」という言葉をどうにか飲み込み、
メモ帳と鉛筆を持ったトーマスが次に何をするのかが気になっていた。
暫くメモ帳をパラパラと光にかざすように見つめていたと思うと、メモ帳をパソコンの脇に広げ、あろうことか鉛筆で黒く塗りつぶし始めたではないか。これにはデイヴも慌てて止めようとした。
「ちょ!何やってんですか!」
「まあ、見てろ。」
真っ白だったメモ用紙がみるみる鉛色になっていく。トーマスは力を入れすぎないようにして鉛筆を動かし続けた。
「あっ!」
デイヴが何かに気づいた。黒くなるだけだと思っていたメモ用紙には、うっすらと、白く文字が浮かび上がっていた。
「筆圧が強い奴で助かった。 ……これは、恐らく電話番号と、アルファベットだな。 『G.I』?なんだこりゃ。」
首をひねるトーマスに、デイヴが自信たっぷりに言った。
「じゃああとは僕の出番ですね。その番号と、パソコン調べてみますよ。」
「分かった。俺は寝室を調べてくる。何かあったら叫べよ。」
「やだなぁ。僕もう25ですよ。」
トーマスはデイヴの肩を叩くと、荒れ果てた寝室へと消えて言った。その背中を見送ると、デイヴはキーボードに両手を置いた。かつて最強のハッカー集団『C.D.C』 において、30年に一人の逸材と謳われた若者は、新しいおもちゃを与えられた子供のように爛々と目を輝かせて、呟いた。
「さぁて。何が入っているかな。」
トーマスは荒れた寝室へ足を踏み入れた。上等そうなベッドは無惨にも穴だらけで、クッションから飛び出したのか白い羽毛がそこらじゅうに飛び散っていた。
「改めて見れば、派手に暴れたもんだな。」
舞い上がる白い羽を鬱陶しそうに払いながら、トーマスはひとりごちた。
クローゼット、サイドボード、ベッドを入念に調べる。ペンライトを点けてベッドの下を覗きこもうとした時だった。
ピリリリリ!
ポケットから振動とともに電子音が鳴り響き、トーマスはぎくりと硬直した。
あたりを見回してから、ポケットの中のスマートフォンを取り出した。
未だ、着信は鳴りやまない。手の中の液晶画面には、非通知と記載されている。トーマスは眉根を寄せて電話に出た。
「……はい。」
『ああ。やっと出た。君の銃と身分証を返すのを忘れていた。ギブソン捜査官。』
スピーカーの奥から、ハスキーな女の声が聞こえた。そして、その声はつい最近聞いたばかりだと思い当たり、トーマスの表情が厳しくなる。
そして、ごく限られた人間にしか教えていない私用のスマートフォンの番号を突き止められた事にまず疑問が口をついて出た。
「お前……どうやってこの番号を……。」
『君の組織の人間に聞いたわけではないから安心しろ。私の正体は分かっているだろう?』
「コールマン……。人質は無事なのか。彼を解放しろ。」
トーマスが厳しい声音で問いかける。
カフェで人質に取られていたアジア人男性の事だ。様々な大使館に掛け合ったが、該当する人物がなかなか見つからず、捜査は難航していた。
『彼は大丈夫。すこぶる健康だし、五体満足だ。……少し君に頼みたいことがあってね。夜中の0時、ヘルズ・キッチンの7番街『ブラック・フラッグ』に来てくれ。君の優秀な部下のハッカーも一緒にな。』
「おい!待て!」
トーマスは慌てて会話を引き延ばそうとしたが、スピーカーからはツー、ツー。と切断音が空しく響くだけだ。
クソ!とトーマスが声を荒げてスマートフォンを持つ腕を振り下ろした。
「……主任?」
その声を聞きつけたか、デイヴが寝室の入り口から顔を覗かせている。
「ああ、電話がな……いや、後で話す。何かわかったか。」
「ええ。バッチリ。ハードディスクのデータはきれいさっぱり消去されてましたが、復元するのなんて簡単ですよ。」
よくぞ聞いてくれましたという風に、デイヴが得意げにロイドのパソコンを開いた。ディスプレイにはなにやら良く分からない文字列が連なっていて、トーマスは眉間を指で押さえた。
「デイヴ。俺はこういうのを見たら蕁麻疹になっちまうんだよ。」
「ここ。閲覧履歴なんですが、ある特定のページを何度も見ています。」
「特定のページ?」
デイヴが右手のマウスを動かし、ウィンドウを開いた。現れたのは企業のホームページだった。青空をバックに先進的なデザインのビルが映し出され、『次世代の技術は世界を導く』というキャッチコピーが掲げられていた。
「ガレオン・インダストリーズ。あの電話番号も、此処の番号でした。」
「巨大複合企業だな。外食から兵器、果ては宇宙開発まで。手広い企業だ……。」
ガレオン・インダストリーズ。文字通り、ガレオン船の如く巨大な複合企業だ。外食産業から、カジノ、医療、宇宙開発まで。この企業の名前をテレビで聞かない日はない程、認知度は高い。
スクロールされるページを見ながら、ふとトーマスが考え込むそぶりをした。
「確か……死んだブライアン・ロイドは政治部の記者だったな。」
「ええ……主任、まさか。」
「何やらキナ臭くなって来たな。そのまさかだ。ロイドはなにか良からぬ事を見つけちまったのかもしれん。」
思わぬ手がかりにトーマスは笑みを浮かべたが、先刻の指名手配犯からの電話を思い出していた。トーマスはどうも腑に落ちなかったのだ。CIAからの合同捜査。アレクシス・コールマンの経歴。そして指名手配に至った経緯。全てがうまくかみ合わないのだ。まるで誰かがシナリオを書き換えたかのように。
「ああ、そうだ。お前今夜空いてるだろ?飲みに行こうぜ。」
急にトーマスが顔を上げた。いつも頑なにプライベートの時間をを守ろうとする若者を、懲りずにパブへ誘おうとする上司は、今度ばかりは怖い程に真剣な様子でいつもと同じセリフを口にした。
「何ですか急に。今日はネットで買った荷物が届いてるはずなので……」
「いいな、今日11時に迎えに行く。お前も来ないと困るんだ。分かったな。これは命令だ。」
いつもはあっさりと諦めるのだが、今日ばかりは上司の有無を言わさぬ口調に、横暴だと文句を言いつつも赤毛の若者は不承不承ながら頷いた。
「……アレクシス・コールマン。お前は一体何者だ……?」
デイヴに聞こえないように放たれた独り言は、トーマスの疑念をより一層膨らませ、その胸の奥底にずしりと重たく沈んでいった。
――――――――――――
ヘルズ・キッチン。ニューヨーク市マンハッタン地区にあり、ミッドタウン・ウエストとも呼ばれる。
19世紀半ば、産業発展期の中心地でもあったこの場所は、工場とそこで働く労働者で栄えて来た。だが、その頃からギャング団の活動が活発化し、『アメリカ大陸でもっとも危険な地域』と呼ばれ、現在の名に至る。
通りにはカラー・ギャングらしき若者の一団がたむろし、その治安の悪さゆえか独り歩きの女性などほとんどいない。それはそこら中に立っているポン引きを除いてだが。
極彩色のネオンに彩られたメイン・ストリートから少し離れた裏通りに、ぽつんと建っているそのバーは、その看板のネオンと共に異彩を放っていた。
屋根の上には光るBlack・Flagのネオンと、海賊旗を表す髑髏マーク。店の前には古いオーク樽で作られたテーブルが並び、労働者と思しき男達が酒精を匂わせながら猥談に興じている。
その光景はどこか、大航海時代の海賊達が集まる酒場を彷彿とさせた。
その騒がしい店内に、厳しい眼差しを送る男がいた。ライトグレーのスーツをノーネクタイでラフに着た男は、れっきとしたFBI捜査官、トーマス・ギブソンだ。彼はカウンターに腰かけ、不機嫌そうに、煙草をくゆらせている。
久しく散発していない髪と伸び始めた同色の無精髭のせいであまり素性のいい人間には見えないが、周囲に溶け込むにはちょうどいい。
しきりに腕時計を気にしていたトーマスは、後ろのテーブル席に座る赤毛の若い男、デイヴを見た。デイヴも彼を見返し、首を振った。
もうすぐ、時計の針は真上を指そうとしていた。
苛々とトーマスが何本目かの煙草に火をつけようとした時だった。
「どうぞ。」
バーテンダーがライムの乗ったカクテルを差し出した。ジンとライムジュースだけのシンプルなそれは、その名の如く錐で突き刺すような刺激が喉を通り抜ける。
「俺は頼んでないが。」
トーマスが訝し気にバーテンダーに言うと、彼は無言でカウンターの隅の席を見た。
そこには、金髪のロングヘアをふわりと背中に流した派手な身なりの女が、蠱惑的な笑みを湛えてこちらを見ていた。酔客の冷やかしには目もくれず、大胆なスリットが入った真っ赤なミニスカートからは太腿が惜しげも無く晒されている。
「ギムレットにはまだ早すぎるって?ギブソン捜査官。」
「……コールマン。」
トーマスはその見事な脚には身もくれず、険しい表情で女を見た。そこには、合衆国を挙げて探している、最重要手配犯アレクシス・コールマンが、静かにグラスを傾けていた。
メイクの仕方なのか、どこから見ても別人にしか見えない。手配写真を見ても同一人物だと思える人間のほうが少ないだろう
「返すよ。あんたの銃とバッジ。」
女が猫のように悪戯っぽく笑い左手を動かすと、黒い金属の塊とバッジがカウンターを滑りトーマスの前で止まった。
「何故俺を呼んだ。お前を待ち伏せして逮捕するとは思わなかったのか。」
それを聞いて女は可笑しそうに笑った。
「あんたは局内でもはみ出し者だろ?でも優秀だ。頭でっかちのエリートとは違う。だから疎まれるのさ。」
その言葉に赤毛の若者が吹き出しそうになる。すぐさまトーマスが睨み付けバツ悪そうに俯いたが。
「ブライアン・ロイドの部屋に来たのも、何か思うところがあってきたんだろう?頭でっかちのホワイトカラー共なら無視するような事案だ。だからあんたは信用できると思ったのさ。」
「下らないセリフばかり抜かしてやがるなら、今すぐ豚箱にぶち込んでもいいんだぜ。」
トーマスが鋭い視線を向けると、女はより一層笑みを濃くした。
「怖いわぁ。そんな眼で見ないでよ……悪いが、私は誰の暗殺計画も立てちゃいないし、テロの計画だってしてないさ。全ては仕組まれていたことだ。ラングレーの誰かに。」
女は大仰な仕草でしなをつくると、トーマスだけに聞こえるくらいの声でつぶやいた。
「それをどうやって信じろと?」
相変わらず敵意の目を向けるトーマスに、女はため息をついた。
「ブライアンの部屋に、ガレオン・インダストリーズの名前があっただろう?」
それを聞いてトーマスがぴくりと眉を動かした。
「あんたらも辿りついたか。私はこの一連のテロの実行犯の居場所を知っている。」
「何だと!」
思いのほか大きな声に、酒場は一瞬静まり返った。ばつが悪そうにトーマスが咳払いをする。
「実行犯といっても黒幕はまた別にいる。これは、元CIA…いや、とあるスパイが命を懸けて手に入れた情報だ。」
女が席を立つ。トーマスは咄嗟にその手首を掴んだ。細い女の手首だと思ったのも束の間、押すことも引くことも敵わず、びくともしない。この細い体の全てが鋼の様な筋肉なのだと気づき、トーマスは思わず手を離した。
「あら。ごめんね。今夜は店仕舞いよ。」
からかうように女が言うと、周りの酔客がどっと笑った。振られちまったな、若いの。という周囲の言葉など耳に入らないかのように、トーマスはコンタクトで彩られた青い目をを睨み付ける。
相変わらず人を食った笑みを浮かべている女が、おもむろにトーマスの耳元へ唇を寄せた。それは酷く官能的な光景に見えた。
「私はマイアミに行って実行犯を確保する。ガレオン船の方はあんたに任せた。ワームウッドのワクチンプログラムは実行犯にしか作れない。もしここで私を拘束すれば、これ以上の被害が出るぞ。」
チュ、というリップ音を残して、金髪の美女は颯爽と歩き去った。
「待て!」
トーマスがすぐさま追いかけようとしたが、すでに遅かった。ドアの外には寒々しい夜空と閑散とした路地が拡がり人っ子一人歩いてはいなかった。
「主任……。」
デイヴが戸惑ったようにトーマスを見る。
「デイヴ。お前はガレオン・インダストリーズを調べろ。徹底的にな。俺は今からマイアミに行く。」
「は!?今からですか!?」
「そうだ。だから空港まで送ってくれ。」
この一年で、上司兼相棒の無理難題に散々付き合ってきた赤毛の若者は、うんざりしたような、だけどどこか面白そうな表情で、判りました。とつぶやいた。




