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Lone wolf  作者: 片栗粉
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ベルウェザー

老いたる者の中には智慧あり、寿長者の中には頴悟あり


~旧約聖書「ヨブ記」~

「話は変わるが、君はブライアン・ロイドに会ったのか。」


唐突にグレアムが投げかけた。質問の意図が分からずに、じっと灰色の瞳を見つめているとグレアムが口を開いた。


「ああ、すまない。質問の仕方が悪かった。君は6年前、ブライアン・ロイドと名乗る人物と接触したかね。」


その名前を聞いた途端、当時の記憶が蘇った。監禁場所から這う這うの体で逃げ出し、アフリカ大陸の広大なサバンナを朦朧としながら彷徨い歩いた。


昼は容赦なく照り付ける太陽と喉の渇きに耐え忍び、夜は寒さと猛獣や毒虫を警戒して眠らずに歩き続けた。


そして、ついに脱水症状で意識すらも保つ事ができず、その場に倒れ、死を覚悟した。その時に、車のエンジン音を聞いたのだ。


最後の気力を振り絞って、声を張り上げ、ジープの前に倒れこんだ。殆ど朦朧としていたが、彼らは零に水を与え、応急処置を施し、ジープに乗せられた所までは覚えていた。


「あの時、殆ど意識がなかったが、男がブライアン・ロイドと名乗ったのは覚えている。紛争地域の取材のために来たという事も。」


「君が彷徨っていたあの場所は、当時、ソマリア政府に反発するイスラム系ゲリラ組織の縄張りだった。アメリカ、ヨーロッパ系のジャーナリストを拉致し、真っ先に処刑するような過激な輩だ。命知らずのジャーナリストでさえ、あの場所は避けて通るほどだった。」


零がその言葉に眼を見開く。


「じゃあ、あの記者団は……?」


忌々しい過去の記憶を必死に呼び起こす。男の顔はおぼろげで、覚えていない。だが、その眼だ。見られた瞬間に、背筋が凍りつくかのように怖気が立った。その根底に激しい獣性をひた隠しているような眼だった。


「あの時分、ソマリアにいた全ての外国人ジャーナリストの身元をあたった。全部で265人。あの場所を通った人間はいない。」


「……。」


冷たい何かが、首元を凪いだようにぞくりとした。

やはり、あの男が何らかの鍵を握っている。


「お茶を淹れましょうか。此処は冷えるものね。ロイ、手伝ってちょうだい。」


不穏な空気を払拭するようにすみれ色のストールを羽織り直すと、サラが立ち上がった。白髪の混じったブラウンの髪を一つに束ねた後姿は、とても年配の女性とは思えないほどに若々しく、丁寧な所作一つ一つに気品が漂っていた。


前島といい、彼らはいったい何者なのか。ストールを羽織った細身の背中を見ながら、零はそう思った。


「あんた達は皆、軍、もしくは政府の関係者だったはずだろう?こんなことしなくても、老後に困らないくらいはたっぷり貰ってるはずだ。」


それを聞いてジョーが笑った。愉快でたまらないというように、肩を震わせている。


「俺達はな、今更娑婆で生きていけるほど器用にできちゃいないのさ。世間から隔絶された場所で、昔負った傷を互いに舐め合っているだけだ。あんたも、そうだろう?だから敢えてあんな厳しい場所に隠れた。」


零は答えなかった。確かにあのトムラウシ山の厳しさと清冽な空気は、自分の全てを包み込み、浄化してくれるような気がしていた。


雑多な街で暮らすより、犬とともにあの厳しい山で過ごした日々は、人生で一番穏やかだった時間かもしれない。


「マカイバリ茶園のファーストフラッシュよ。クッキーとよく合うの。試してみて。」


零の前にサラがいつの間に戻ってきたのか、紅茶の入ったカップと、チョコチップが散りばめられたオートミール・クッキーの入った皿を置いた。高級なダージリン特有のマスカットを思わせる芳醇な香りがカップから漂い、ふと胸の中の氷が解けていくような気にさせられる。


零も今度は素直にカップを口に運んだ。その温かさにほう、と息をついた。隣を見れば、どうやらこの紅茶をいたく気に入った様子の斎藤が、前島にしきりに解説をせがみ、感想を述べていた。


おもむろにジョーが葉巻を取り出して、先端をシガーカッターで切り落とした。しゃきり、という音と聞いたグレアムがじろりと咎めるように睨む。


「ジョー。ここは禁煙だぞ。」


「固いこと言うなよ。これだからイギリス人は。頭が固すぎる。」


しゅっ、とマッチが擦られ、ちいさな火がジョーの顔の辺りを仄赤く照らした。


「何度も言うが、私はスコットランド系だ。全く。何度言わせるつもりだ。」


グレアムにとって、ジョーは気の置けない友人の一人のようだ。会話の端々にそれが見て取れたが、この陽気な老人にグレアムは随分気を許しているのだという事が感じられた。


苦虫をかみつぶしたような表情のグレアムを尻目に、葉巻をうまそうに吹かすジョーが口を開いた。


「かと言って何もしないのは苦痛でな。たまにこんなビジランテ(自警団)もどきの事をしてるのさ。」


昔の色々なツテを頼りながらね。と老人は葉巻を加えたまま口の端を歪めた。その言葉尻をひったくるように、グレアムが続ける。


「……だが、今回ばかりは老いぼれの遊びの域を遥かに超えた事態だ。」


グレアムが盤上を軽く叩くと、動画が流れ始めた。夥しいフラッシュの嵐の中、スーツ姿の男が、星条旗をバックに神妙な顔で何事かを話している。その顔は、CNNやタイムス紙などで見ない日はない、この国のトップ。アメリカ合衆国大統領だった。


「一時間前、国家非常事態宣言が発令された。」


金融機関サーバの乗っ取り、各国の爆破テロ。航空管制乗っ取りによる航空機事故、あのニューヨークのマンホール騒ぎ。


ニュースによれば、既に政府は国家非常事態宣言を発動させ、全力で調査に乗り出すと、緊急記者会見で発表されたようだ。


「……何故、そんな事態にも関わらず、私のような部外者を頼ったのか。」


全て合点がいったと、零の黒曜石の瞳が灰色の隠者の眼を見据えていた。


「シナリオライターは政府の内部にいる。違うか?」


グレアムが眼を閉じ、長い溜息をついた。それは否定ではなく、肯定なのだと零にはわかった。


「まだ、推測だ。が、可能性は十分にある。一連の事態の対応の遅れは、完全にこちらの動きを読んだものだ。香港で爆弾テロに巻き込まれただろう。 実はその前後にベルギー、フランス、ロシア、ドイツで同様の爆弾テロがあった。 実行犯は全て別の人間とされているが、裏で糸を引いた者がいる。」


「全ては、布石だったということか。」


ディスプレイ上に映る世界地図を見やる。このテロの終着点は何処なのか。それが引っ掛かった。



「……君は、フラッシュメモリを手に入れただろう。」


零はポケットの中の小さなフラッシュメモリを取り出した。エディ・デルマーがKnightから預かった鍵の中身。ついにその中身が暴かれる時が来た。


「このノートパソコンに、接続してみてくれ。君も何が入っているか見たいだろう?」


少し逡巡するそぶりを見せてから、零はグレアムから渡された小さめのノートパソコンにフラッシュメモリを差し込んだ。


数秒、ロードした後直ぐにびっしりと何かのソースコードがディスプレイに映し出された。零には何のプログラムかもさっぱりわからないので、降参の意を両手で表しながら、画面をグレアムに向けた。


「……やはりな。ワームウッドのソースコードだ。更に改良されている。恐らく、ビリーがコーディングしたものだ。」


「これがあれば、ワクチンプログラムが作れるか?」


「ああ。出来るだけ早くやってみよう。」


ワームウッドの生みの親であるグレアムなら、可能だろう。この史上最悪のサイバーテロを食い止める方法が見つかったのだ。しかし、安堵の空気が流れたのも束の間の事だった。


「なんてことだ……!」


スマートフォンを見ながら、アレンが悲鳴のような声を上げた。全員の注目がアレンに集まる。



「どうした。アレン。」


アレンはそれに答えることなく、盤上のディスプレイを操作し始めた。世界有数のシェアを占める動画投稿サイトのウィンドウが大きく表示された。


「つい、今しがたアップロードされた動画です。」


アレンが再生のマークをタップした。真っ黒な背景の奥から不気味な蒼い馬に乗った死神の姿が現れ、耳障りな人工音声が語り始めた。


『我々は、黙示録の騎士。この不浄なる世界を終わらせる為に遣わされた。』


場面が切り替わり、瀟洒な白い建物が映った。そこは、この国で、あまりにも有名な観光地であり、政府機関の中枢。


「……ホワイトハウス…。」


誰かが、呻くように言った。全員が言葉を失ったかのように、その画面を見つめていた。


ホワイトハウスを映していた画面は、徐々にズームアウトし、その周りにいる沢山の観光客や、住民が映し出される。


『この中の誰かに、爆薬をつけた。ジャッジまで猶予をやる。今から30分以内だ。1秒でも過ぎれば、白い壁が赤く染まる。』


神の祝福があらんことを。の言葉を最後に、動画は終了した。


口の中が乾いていくのを感じていた。今頃、関係機関はてんやわんやになっているだろう。しかも、具体的な要求が何もない。捜査の攪乱が目的なのは眼に見えていた。


「グレアム。とうとう動き出したようだな。」


監視カメラのモニターを見ながら、厳しい声音でジョーが言った。もはや彼は陽気な老人ではなく、歴戦の兵士の顔つきに変わっていた。


分厚い壁越しからでもヘリのローター音が聞こえ始め、零は小声で斎藤に敵の襲撃を伝えた。


「チヌークか。こんな老いぼれ共相手に、どんだけ詰めてきやがったんだ。」


「先手を掛けてきたか。やはりな。」


ジョーとグレアムがほぼ同時に呟いた。彼らはこういう時も気が合うらしい。


画面に屋敷の外の庭園が映し出される。マットブラックの野戦服を纏った兵士達が、整然と隊列を組んで、こちらへ向かっていた。


訓練を積んだ兵士であることは一目瞭然だった。外には8か所のカメラがあるが、画面上から見て、30人近く確認できる。


「……脱出口はあるのか。」


零が脇下のグロックを抜き、弾倉を確認した。あと、カートリッジ2本と8発しかない。


「あるさ。もちろん。」


グレアムが頷く。前島が油断なく部屋の出口へ誘導し、先ほどの談話室へ移動した。


「さあて。久しぶりに暴れようか。」


ジョーが葉巻を咥えながら、壁際の可動式本棚を動かし、その裏側に隠されていた扉を開けた。


そこには6畳ほどの小部屋に、ウォルマートの品ぞろえまでとはいかないが、銃弾薬、手りゅう弾の類が揃えられていた。もはや、この屋敷に何があろうと今更驚くことはなかった。


「嬢ちゃん。好きなのを選びな。」


「凄いな。次はバットモービルでも出てくるんじゃないのか?」


零は軽口をたたきながら、グロックの弾と手榴弾をいくつか、そして壁にかかっていたヘッケラー&コック社製のアサルトライフル、MP5を手に取った。


マガジンを装填しコッキングレバーを引くと同時に、零の思考は戦闘態勢に切り替わった。既に外では銃声が響いている。


庭園に仕掛けてあった動体センサー付きの自動発射式機関銃セントリーガンが火を噴いているのだろう。これで敵が減ってくれるのを願うばかりだ。


「この人数では、到底敵わんぞ。」


腕を組んで壁にもたれていた斎藤が皮肉気に言う。この切迫した状況をどこか楽しんでいるようにも見えるのは、気のせいだろうか。その手には既にバッグから取り出した刀が握られていた。


談話室では、サラとジョーが窓から敵を迎撃している。老人とは思えない流れるような手つきで排莢、装填の動作を繰り返す。


「奴の狙いは私とこのフラッシュメモリだろう。……ロイ。」


「畏まりました。」


銃声の僅かな合間に、グレアムが口を開いた。前島を呼ぶと、前島はそれだけで全てを悟ったように小さく頷く。


「アレン。君は彼らを連れて脱出しろ。」


「ちょっと待ってください!あなたは……いえ、あなた方はどうするんですか!」


半ば叫ぶようなアレンの言葉に、グレアムがアレン、零、斎藤を順に見つめた。その眼は死地に向かうものとは思えないほどに穏やかなものだった。


後ろでは、銃弾が窓を貫き、外壁に当たる音がひっきりなしに聞こえる。


「……今、我々老兵のなすべきことは、唯一つだけだ。」


「アレン。」とグレアムが若者を見つめる。


「君の弱みに付け込み、こんな事に巻き込んでしまってすまなかった。だが、君ならワクチンプログラムを作れるはずだ。」


アレンが今にも泣きだしそうに、目の前の老人を見た。


「いいえ。僕は自分の意志でここへ来たんです。Mr.グレアム。貴方に会えて光栄でした。」


決意を秘めた瞳で、アレンは失礼します。と静かに言うと前島に続いて部屋を出て行った。


そのやり取りを見ていた零は、斎藤の耳元で後から行くと言い置くと、グレアムに向き直る。最後に聞いておかねばならない事があった。


外から鈍い破裂音と金属が破壊される音が響いた。セントリーガンがRPGで破壊されたのだ。それを待っていたかのように一斉に屋敷に向かって弾丸が撃ち込まれ始める。


「一つだけ、教えてくれ。【トランぺッター】とは、何なんだ。」


二人の目の前を銃弾がかすめた。壁に身を隠しながら、外に向かって零もMP5の引き金を引き、手榴弾のピンを抜いて放り投げた。


「……全てはビリーが握っている。奴を探せ。今の動画の発信元を探った。奴は今マイアミにいる。」


わかった。と短く返事をして、零は壁から素早く飛び出し、アレン達の後へ続こうとした。すると、後ろから「お嬢さん。」という言葉をかけられて一瞬立ち止まる。


「男と女は、恋だけが愛の形じゃないのよ。覚えておいてね。」


何のことかわからずに、首を傾げる。レミントン狙撃銃を軽々と扱いながら、柔らかな笑みを浮かべる老婦人はうふふ、と少女のように笑った。


「ほらほら、もう行け。ここは俺達がどうにかするから。」


逃げた羊を集めるかのような気安さで、ジョーが葉巻を咥えたまま手を振った。すぐに頭の上に窓ガラスが撒き散らされ、舌打ちをしながらM4機関銃を撃ち続けている。


屋敷内に敵が侵入するのも時間の問題だった。


肩越しに、グレアムを見た。


「……次は私が珈琲を淹れてやるよ。」


「悪いが、珈琲は好みではなくてね。次はグリーン・ティーを用意しよう。」


今度こそ、零は背を向けて談話室を後にした。いよいよ襲撃者の猛攻が始まろうとしていた。次がないのは承知だ。


だが、敢えて次と言ったのは、零なりの餞だったのかもしれない。


嵐のような銃声を背に、零は走り出した。






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