ゴールデン・ルール3
永遠の闘争によって人類は成長した。
永遠の平和において人類は破滅するのだ。
~アドルフ・ヒトラー~
そこは、英国様式のアンティークな洋館の中にいるとは思えないような、近代的なオフィスの様相を呈していた。いや、普通のオフィスではない。両側の壁一面を埋め尽くすようにに並んだ黒い長方形の箱。
その間をまるで血管のように黒い配線が這っている。その中は応接間と打って変わってひやりとした冷気に包まれていた。
斎藤が驚きのあまり喉の奥で唸り声を上げる。零は黒い箱を見ながら感心したように呟いた。
「……スーパーコンピューターか。これだけの機材なら国中の通話だって盗み聞きできるだろうさ。」
「君は知らんだろうが、あの通信傍受システムを構築したのは私でね。それくらいは訳もない。」
グレアムが車椅子の肘掛けを何やら操作すると、コンピュータ室に明かりが点いた。改めて、年代物の洋館の中とは思えない程、近未来的だった。真っ白な壁に灰色のリノリウムの床。青白い無機質な明かり。壁一枚隔てたこちら側とはまるで別世界だ。
「こちらへ。足元に気を付けて。」
グレアムの後に続く。二人の後ろをアレンと前島が半歩遅れてついてきた。零は両脇にずらりと並ぶ、大規模コンピュータのHDを見やった。あまりこちらの分野には専門家程は明るくはないが、これだけの機材をそろえるには、それなりの資金が必要になるはずだ。
「これはある大学が国際大会で使ったものでね。学生の就職先を口利きする代わりに安く譲ってもらったのさ。無論カスタマイズさせてもらったが。」
零の疑問を見透かしたように、グレアムが言った。
「処理速度も中々のものだ。やはり日本製は信頼できるよ。」
「6年前、私は嵌められた。全て知っているんだろう。なあ、親方」
零がグレアムを遮る形でその背中を睨みつけた。その声には怒りが滲み出ているかのように震えていた。グレアムはその問いには答えず、ただ無表情に前を向いているだけだった。
「一度だけあんたの声を聞いたことがある。あれはソマリアへ入国する前のジェッダの空港だ。衛星電話で話したな。それが最初で最後だったが。」
全ては、あのソマリアから始まったのだ。零はそう確信した。6年の時を経て、何かが暗闇の中で蠢いている。
静かだが斬りつけるような言葉の応酬に、室内の空気がピリピリとしたものに変わっていく。
コンピュータの回廊が終わり、少しだけ広くなったスペースにぽつんと置かれたデスクの周りに全員が集まった。
「まずはこれを見て欲しい。」
磨かれた黒い天板が、手をかざした途端にぼうっと光りだした。このテーブル全てがマルチタッチパネル液晶になっているようだ。
画面には3D化された世界地図の映像が映し出された。そこのアメリカ大陸をクローズアップさせる。
至る所が白い点が外からの矢印と繋がっていて、白い点が密集しているところは赤い色に変わっている。
「これはここ数年の我が国へのサイバー攻撃を可視化したものだ。」
グレアムが右手をかざすと、その隅にグラフが表示された。
「ここ最近、その攻撃が異常に多くなっている。去年の暮れ、主要ネットバンクのシステムが一斉にダウンする事態になったニュースは知っているな。」
「ああ。たしか何千万ドルかの被害が出たとかだろう?」
「5千万ドルだ。何者かが口座から金を吸い上げた。」
ぴゅうと零が口笛を吹いた。ネットバンクは不正アクセスを阻止するためにワンタイムパスワードを導入している所が多い。それを犯人は逆手に取ったのだろう。
言葉のわからない斎藤には、前島が丁寧に通訳をしているようだ。5千万ドルが如何に大きな金かを聞いて驚いていた。
「今時、マスクをかぶって銀行強盗なんてナンセンスってか。時代の流れだね。」
「そして、全てのシステムを調べて分かったことがある。画面にいきなりトランペットを吹くビデオゲームのキャラクターが現れたと言うことだ。」
――【トランぺッター】
その言葉が、零の脳裏をよぎった。ウィリアム・カーティスが、今際の際に言い残そうとした言葉。ポケットの中の小さなメモリの存在を無意識に指で確かめた。
「君は、Wormwoodを知っているか?」
唐突にグレアムがディスプレイから顔を上げた。いきなりの質問に零が怪訝な顔をする。
「聖書か?楽園から追放された蛇が這った後に生えたと言う草だろう。」
「違う。まったく新しい形のコンピュータウィルスの事だ。知識欲と支配欲を備え、学習する。一度感染したら、たとえ末端からだとしてもメインシステムに辿り着き、思うままに支配できる。ハッカーの間では都市伝説として知られているようだが……私が作ったものだ。」
思わぬ告白に、驚いたようにその灰色の眼を見つめた。グレアムはディスプレイの光をちらちらと映した瞳で、何の感情も表わすことなく淡々と続けた。
「ウィルスに知識欲と支配欲を植え付け、システムに侵入させる。イラク戦争の頃からその構想はあった。国家は国を上げて人材を発掘した。新しい戦争に打ち勝つために。私は、生まれながらにして歩くことができなかったが、ディスプレイを通して世界を見続けた。」
グレアムの淡々とした声が、コンピュータールームに響く。その奥底には、何らかの感情を押し殺しているように聞こえた。
「そして、そのワームウッドを完成させたのが、私がスカウトした男だ。」
テーブル上のディスプレイに画像がスライドされる。どこか退廃的な匂いのする痩せた若い男だ。髪は長く、眼はジャンキーのように落ちくぼんでいる。
「ビリー・スパイク。コードネームは仕立屋。君の同僚だった男だ。今はネット上でKnightと名乗っているようだが。」
零が顔を上げる。Knight。そう、エディ・デルマーの口からその名前を聞いたのだ。だが、その前の言葉に衝撃を受けた。
「同僚だって?Knightとやらは、【ギルド】の隊員だったのか?」
「彼は後方支援専門で、特に電子戦のエキスパートだった。君は多分面識すらないだろうがな。」
おそらくは、過去のいずれかの任務で関わりはあったのかもしれないが、仕立屋とは直接面識はなかった。【ギルド】では横のつながりは一切ない。隊員同士が接触することは許されなかった。
全ては親方を通じてのみ任務が下され、それぞれの任務を遂行する。役割としては、職人、庭師、執事が実行部隊。作家、神父、仕立屋が後方支援として機能する。
たとえ誰かが捕らえられても、素性も顔も知らない仲間の情報が漏れることはない。隊員が死亡すれば新たな隊員が補充され、各々の役割を果たすのだ。簡単に補充できる日常の消耗品のように。
「当時、政府は激化するサイバー攻撃に対応するために、人材発掘プログラムに力を注いでいた。」
グレアムが思い出すように、目を細めた。
「新進気鋭のIT会社のシステム開発のためのテストと銘打ち、特定のプログラムに侵入できるかどうかをネットに広告した。すぐにギークたちが食いついたよ。だが、ビリー・スパイクだけは群を抜いていた。彼は私のコーディングしたプログラムを10分足らずで破ったのだ。CIAシステム開発の専門チームでも破れなかったプログラムをね。」
そういったプログラムやシステムに関しての詳しい事は零も専門外だったが、CIAの専門官が束になっても敵わなかったという事実には驚いた。どこの分野にも、野に隠れた天才はいるものだ。
「それじゃあこいつが今回のテロの首謀者って事か?何の目的で?金だってお得意のパソコンでどうにでもできる筈だろ?」
その言葉にグレアムが首を振った。
「奴は、自分の知識と実力を試したいという強い欲求があった。私はそれに付け込んだ。ヒーローになる気はないか?と。すぐに乗ってきた。それから、私が彼を教育した。が、彼に伝わったのは技術と知識だけだったようだ。」
ヒーローという言葉に、零は怒りすら覚えた。英雄など、政府やマスコミが大衆向けに都合よく作り出した虚妄の産物だ。その陰で、何千の人間が無惨に死んでいるかなど、彼らには関係ないのだ。
戦場で、幾多の人間を手にかけて、名誉も誇りも感じたことなど一度もない。ヒーローなんて物は、コミックスの中だけの代物だ。
「彼は任務をどこか仮想現実だと思っている節があった。ゲームだよ。君達がプレイヤーキャラクターで、彼が操作する。しかし、想定外の事態には対応しきれない事があった。彼は言われたことは完璧にこなすが、自らの思想でテロを計画するような器ではない。」
画面上の痩せた長髪の男を見る。資料を見れば、入局した時にはまだ19歳だったようだ。普通なら大学へ通い、友人を作り、恋人だっていただろう。こんな場所に足を踏み入れたばかりに、彼の人生は波乱を含むものになってしまった。
それは彼だけのせいではない。国防を免罪符に、人の人生を食い尽くす。なんと汚いやり方だろうか。言いようのないやるせなさが、零の胸に渦巻いた。
「だが、彼はプログラムに関しては天才だった。これだけはいえる。」
「あんたの【ワームウッド】を完成させたからか。」
「そうだ。奴はプログラムに欲求という概念を持たせることに成功した。そしてそれが恐ろしいウィルスになるということもな。」
暫しの沈黙が、部屋の中を支配した。HDのファンの音だけが響く。零は無意識にポケットを探る。異様にタバコが吸いたかった。
咎められようが関係ない。一刻も早くここから出て、タバコの煙とともに、胸に渦巻くこの胸糞悪い感情を吐き出したかった。
苛立ちを鎮めるかのように零の指がテーブルを叩く。そしてずっと考えていた疑問を投げかけた。
「……あんたは、私を嵌めた奴がいると言っていたな。6年前のアイアンバード作戦。あんたの知ってることを全て話してもらいたい。」
アイアンバード作戦。忘れもしない、ソマリアでの極秘作戦。その作戦中に零は拘束され、過酷な監禁生活を送った後、謂れのないCIA局員殺害の汚名を着せられた。
その後の数年にわたる逃亡生活はそれ以上に屈辱で、過酷だった。極東の小さな島国に落ち着くまで世界中を転々とし、常に命の危険と見えない追跡者を警戒して眠る事さえ出来ない日々が続いた。
「……あの作戦の目的は、巻き餌だ。」
淡々と言葉を紡ぐグレアムに、零の表情が険しくなる。必死に滲み出る怒りを抑えるように、拳を握り締めていた。
自分達は餌として使われた。零は生きて帰れたが、死んだ二人を思うと、怒りで目の前の老人の頭を銃で撃ち抜きたくて仕方がなかった。その衝動を、血が滲む程に拳を握り締め、耐えた。
傍らの斎藤がその怒りを感じたのか、その拳を痛ましそうに見つめる。
「巻き餌……ね。それで局員2名の命が失われた。」
「内部からの告発で、どこからか国防に関する情報が漏れていることが分かった。だから早急に特定する必要があった。しかし、あそこまで早く君らの身元が特定されたのは想定外だった。」
悔恨の念がその言葉の端々に現れていた。深く刻まれた眉間の皺が、長い間の苦悩を物語っていた。
「彼らの命が失われたことも、君が拘束されたのも、全ての対策が後手後手に回ったせいだ。私達は裏切り者を探し出すことに気を取られ過ぎていた。」
すまなかった。とグレアムが首を垂れる。零はそれをじっと見つめていた。
「気づいた時には全て遅かった。黒幕は【ギルド】全体を国家の反逆者に仕立て上げ、我々を追放させた。私はすぐに隊員達に伝達した。野に下り、来るべき時まで隠れろと。君を助ける事が出来なかったのが、心残りだった。」
零はたまらずに横を向いた。今更そんなことを言われても、どう返していいものかわからなかったのだ。零も作戦の指揮を執った彼の苦悩も痛いほどわかる。
だから尚更責める事が出来なかった。【ギルド】は隊員の生命が危険にさらされようと、任務の達成、及び組織の秘匿が最優先とされる。だからこそ、グレアムは苦悩したのだ。
「レイ、あんたは分かっているはずだ。グレアムがどれほど苦悩してたかもな。だから激しく責める事が出来ないんだろう。だけどな、あんたは十分過酷すぎる務めを果たした。大丈夫。俺たちは分かってるよ。あんたが潔白だという事も。」
沈黙を守っていたジョーが口を開いた。不思議と凝り固まった猜疑心と敵意が解されていくような、低く落ち着いた声だった。
「グレアムはこう頑固で融通が利かない所があるが、筋の通らないことは絶対にしない。必ずあんたの潔白を証明する。だから、あんたも俺たちを信用しちゃあくれねぇか。」
ジョーが皺だらけの黒い顔に白い歯を光らせて、屈託なく笑った。
「頑固で融通がきかなくて悪かったな。」
グレアムがぶすっと呟いた。気難しい老紳士は、この黒人の陽気な老人に、随分心を開いているようだ。サラと前島がくすくすと笑う。部屋に張りつめていた緊張が、ふと和らいだ。
「……私は老人を苛める趣味はない。が、あんたたちを100%信用したわけじゃない。」
「それでいいさ。私は君を信用しているがね。」
零が怪訝そうにグレアムを見た。
「君は常に最高の結果を残してきた。それがどんな過酷な状況でも。私が今まで出会った中で、一番優秀なエージェントだったよ。」
ダブルオーセブンの次にだがね。と片目を瞑るグレアムに、零もようやく笑みを返した。




