ゴールデン・ルール2
真の友は、共に孤独である。
~アベル・ボナール~
「やっぱりこのお坊ちゃんはあんたのとこの飼い犬か。」
後ろに控えるアレンをちらりと見ながら、零が吐き捨てた。アレンは下を向いたまま、零を見ようともしない。
「あの時、私にGPSか何かつけたんだろう。だから動きが筒抜けだった。」
前島が零達とグレアムの前に繊細なデザインのティーカップを置いた。薄い紅色の表面からふわりと湯気が立ち上る。
グレアムはティーカップを手に取り香りを楽しんだ後、口元へ運んだ。だが、零はそれを冷ややかな目で睨み付けるだけだった。
「今年のマカイバリのセカンドフラッシュはいい出来だ。君もいかがかな?」
「結構。私は泥水みたいなコーヒーが好みでね。」
おどけたように肩を竦める。零はいつまでも本題を言おうとしない目の前の男に対していい加減うんざりしていた。
出来ることなら、クソ野郎と罵りながらドアを蹴り開けて帰りたい気分だったが、この紳士然とした車椅子の老人には、計り知れない不気味な何かを感じていた。
零は相手の目線、仕草、表情で思考や感情をある程度読み取れるように叩き込まれてきた。
しかし、ここまで何も読み取らせない人間は初めてだ。話せば話すほど、彼の灰色の眼に全てを見透かされている気がするのだ。
「アレンは優秀な人材だ。分析官としては勿論、ハッカーとしても。君の居場所をすぐに突き止めたし、車の運転もなかなかのものだ。分析官として置いておくのが惜しい位だ。」
アレンが戸惑ったように、グレアムを見る。零はアレンの横顔を横目に、彼の経歴を思い返していた。何故彼が長期の療養休暇に入っていたのかを。
アレンは頑なに銃を持つことはしなかった。その理由が、自分にあるであろうと言うことも分かっていた。だが、今更悔やんでも仕方のないことだ。
気の毒ではあるが、あの旗に忠誠を誓い、国防に関する任務に就くと言うことは、異国の地で果てることも覚悟しなければならない。少なくとも自分はそうだった。
「あんたの無駄話に付き合っている暇はないんだ。散々人を振り回しておいて、こんな所で爺共の暇つぶしか。いいご身分だな。」
「君が怒るのも無理はない。だが、事態は深刻だ。……今、何が起こっているのか、なぜ君が狙われるのか。それを話そう。君にも大いに関係があることだ。クラフトマン。」
クラフトマンという呼び名に一瞬零が顔をしかめたが、グレアムは構わずソーサーにカップを置いた。電動車椅子のスイッチを入れると、静かなモーター音とともに、車椅子が動き出す。二人が後に続こうとすると、前島が声をかけた。
「Mrサイトーはこちらでお待ち下さい。キャッスルトン茶園のファーストフラッシュをお淹れ致しましょう。」
困惑するように斎藤が零を見たが、零はグレアムに向かって日本語で言った。
「待った。こちらからの条件だ。彼も一緒に来てもらう。」
何の関係もない斎藤を巻き込んでしまった事を気にしてないと言ったら嘘になる。だが、もう引き返せない。此処まで来て、彼を部外者として追い出したくはなかった。
出会ったときは疑念と警戒すら抱いていたが、日本からずっと共に行動してきたこの奇妙な男を、信頼し始めているのも事実だ。
グレアムの灰色の眼が、斎藤を真っ直ぐに捉えた。全てを見通すかのような、酷薄な光をたたえている。
「驚くことに、彼の素性は私達ですら把握できなかった。我々の情報網に何一つかからなかったのだ。そんな素性も知れない人間を連れている君の考えを聞こうか。」
グレアムは、斎藤が何者なのかここで明かしてみろと言っているのだ。もし、明かせないのなら、ここで殺すと。その目は語っていた。
どう説明したものか。まさか、タイムスリップしてきたサムライだとでも言うのか。そんなバカげた話を信用するほど、彼らはお人好しでもあるまい。
「それは、」
「某は、斎藤一と申す。播磨国明石藩の生まれだ。かつては、会津藩御預 新選組にて副長助勤を務め申した。吉村殿には、危うく命を落とすところを救って貰った恩義がある。仔細はようわからぬが、もしも、この女に危害を加えようものならば……」
斎藤は飛び交う言葉すらわからなかったが、彼らが自分の事で揉めているのだと雰囲気で感じていた。同時に、この足萎えの老爺のただならぬ気配もだ。斎藤は彼の敵意を敏感に感じ取っていた。
もはや彼らは、偶然巻き込まれた行きずりの二人ではなかった。
それは、男女の特別な感情でもない奇妙なものだ。いわば、群を失った個体同士が自然と寄り添うものに似ていた。本人達が自覚していなくとも関係ない。それは、戦いを生業とするものに備わった本能なのかもしれない。
バッグの中から黒い鉄拵えの刀を引き抜いた。スラリと眩い位に磨き抜かれた刀身が露わになる。斎藤自体が一振りの刀身のように、鋭い殺気に満ちていた。
前島が素早く袖の中からワルサーPPKを取り出してその銃口を斎藤に向けた。その動きは余生を平和に過ごしている老人の動きではなく、長い間訓練された精兵のそれであった。
アレンやサラ達が眼を見開き、刀を八相に構えた斎藤をまるで別人を見るかのように凝視する。
「全力で、お相手仕ろう。」
「斎藤さん!」
零が慌てて右手で制する。ここで戦闘になれば、圧倒的に不利だ。彼らは唯の老人ではない。おそらく軍に身を置いていた人間だ。老人とはいえ、それ相応の訓練の経験もあり、地の利と数に勝る彼等に無傷で勝つのは難しい。
グレアムは、相変わらず鉄色の瞳を無表情に向けている。銃口を油断なく二人に向けたまま、前島がグレアムの耳元で何事かを囁く。斎藤の言葉を訳しているのだと感じた。零は、じっと彼の言葉を待った。
「私は、半世紀以上をこの国に捧げてきた。その間、たくさんの戦友を亡くした。全て覚えているよ。彼らがどんなふうに笑い、どう死んだかも。」
グレアムが、今は亡き誰かを悼むように眼を閉じた。灰色の瞳が長い年月を刻んだ瞼に覆われると、唯の孤独な老人でしかなかった。
「君たちを引き離すのは、難しそうだ。Mrサイトー。カタナを納めてほしい。彼女に、いや君達に危害を加える気はない。」
前島がそれを通訳すると、ようやく斎藤は刀を納めた。霧が晴れるように、斎藤の殺気が霧散する。アレンがほう、と安堵したように息をついた。
サラとジョーも次いで緊張を解く。彼らはどこから取り出したのか、その老体には似つかわしくないイスラエル製の自動拳銃をそれぞれ構えていた。
「クラフトマン。君はよき仲間に出会ったようだな。」
「Mrグレアム。先に言っておこう。私は零。レイ・ヨシムラだ。そう呼んでくれ。その名前は、もう聞きたくない。」
「わかった。レイ。すまなかったな。」
ほぼ無音で動く電動車いすの後姿を見守る。車椅子は、応接間の壁に掛けられた絵画の前で止まった。
その絵画は、馬に乗った黄金の騎士が描かれており、オーストリアを代表する画家、グスタフ・クリムトの作品、『人生は戦いなり』だった。
その絵画をグレアムはおもむろに指でなぞりだした。複雑な幾何学模様を描くように、その指は絵画の上を滑る。
すると、騎士の姿が渦巻くように消え、絵画が青いディスプレイに変わった。油絵具の質感を彩度や光度の調整でディスプレイに映し出していたのだろう。かなり高度な偽装だ。
『認証終了。ロック解除。』
機械音声が絵の中から響き、グレアムが少しだけ下がる。すると絵画を飾っていた壁が重い音を立てて、動いた。それを間近に見た斎藤が瞠目し、零も流石に驚きを隠せない。
ラスベガスの金庫のような分厚い鋼鉄の扉がゆっくりと開く。
「ようこそ。我らの秘密基地へ。」




