Hard Days Night 2
生物学的に考察すると、人間は最も恐ろしい猛獣であり、
しかも、同じ種族と組織的に餌食にする唯一の猛獣である。
~ウィリアム・ジェームズ~
エディ・デルマーは機嫌よさげにタバコに火をつけた。眼の前ではきわどいランジェリー姿の女が髪を振り乱しながら、鉄製のポールに悩ましい肢体を絡ませる。薄暗い店内に、周りの男達がひやかすように口笛を吹き鳴らした。
職場には数日前から行っておらず、留守電にはボスからの最後通牒が入っていたが、聞く気にはなれなかった。ブライアンに渡した鍵を取りにいかなければ。自分が持つにはリスクが高すぎる。だが、この仕事が終われば一生をプーケットで送れるだけの金が手に入る。それが待ち遠しかった。
ダンスが終わり、女が舞台の端にチップをねだりににじり寄ってきたので、50ドル紙幣を数枚、ガーターの間にねじ込んだ。女がチュッとリップ音を奏でて離れる。そろそろ約束の時間だった。
チェックを済ませ、店を出る。アルコールで火照った体が外気に触れる。白い息が冷たい光を放つ街灯に交じって消えた。
ジャケットのポケットに両手を入れ、背中を丸めて歩き出す。路地の向こうでホームレス共がゴミ箱を漁っていた。侮蔑の入り混じった表情で唾を吐き出すと、また歩き出した。だが、エディは背後から忍び寄る気配に気づかなかった。
「エディ・デルマーだな。」
エディはそれに答えようとしたが、首筋に強い圧迫感を感じたのと同時に、その意識は暗闇へと吸い込まれていった。
―――――――――
薄暗い倉庫内に人影が3つ。一人は椅子にうなだれるように座り、二人はそれを取り囲むように立っていた。黒髪を後ろに撫でつけた男が頷くと、髪の短い女が口を開いた。
「起きろエディ。おしゃべりの時間だ。」
零は少し癖のある英語でそう言うと、アイマスクと猿轡を噛まされているエディにバケツの中の水を勢いよくぶっかけた。後ろ手に椅子に縛られているエディがくぐもった悲鳴を上げる。
猿轡を噛まされてる奥歯が小刻みに震え、半裸の体がのけぞった。暖房設備など無い古びた倉庫の中だ。氷のような冷たさが、エディの身体を突き抜ける。暫く様子を眺めて、零がゆっくりと猿轡を外した。
「なぁエディ。私はあまり気が長いほうじゃないんだ。」
掠れたハスキーボイスで睦言の様に囁かれた言葉は、甘い蜜の味をした劇薬そのものであった。
「違う!俺はアンタらを裏切ったわけじゃねぇんだ!信じてくれよ!」
エディは零達を誰かと勘違いしているのか、酷く狼狽していた。
零はブライアンの部屋で鉢合わせたブロンド女は、何処かの国のエージェントかそれに雇われたフィクサーではないかと当たりをつけていた。エディは図らずもこのテロに関わり、その副産物である情報を他国に横流ししていたと言うわけだ。他にも、ジャーナリストという立場を利用し、運び屋紛いな事をしていたようだ。
彼の渡航履歴やネットのアクセスログ等から辿れば、たどり着くのは容易だったとあの女好きの情報屋が得意げに話していたのを思い出した。
「あのカギは何処だ。」
「ブライアンに渡した!この前もそう言っただろ!?嘘じゃねぇ!」
「あの男は死んだ。」
氷のような声音に、倉庫内の空気が数度下がったような気がした。エディが凍り付いたように息を飲む。その姿を見ながら、零がタバコを銜えた。カチリというライターの音が倉庫内にいやに大きく響き渡る。
「…お、俺を殺すのか……?」
エディが震えながら問いかける。水をかけられた寒さだけではなく、純粋な恐怖からの震えであった。
「それはお前次第だ。じゃあ質問を変える。あの鍵は何処の鍵か教えてもらおうか。」
肺一杯に吸い込んだ煙を、アイマスクをしたままのエディに吹きかける。
「あれはトランクルームの鍵だ!場所はブロンクスの…」
零は即座にその住所を頭に叩き込む。一度聞いたり、見たりすれば忘れない。忘れてはならない。そう訓練されてきた。
「あの鍵は誰から預かった?」
「それは…。」
口ごもるエディに、零は銜えていたタバコを手に取ると、半裸の胸に押し付けた。ジュッという音とともに、絶叫が倉庫内に響き渡る。すかさず斎藤がその頬を平手で張ると、静寂がその場を支配した。
「今、お前の命は屠殺場の家畜と同じだ。分かるよな?」
「す、素性は知らないんだ…ただ、ハンドルネームは【Knight】しか分からねぇ。ブツも所定の場所から場所へ持っていくだけで、直にあった事はねぇんだ。」
「中身は?」
「知らない!奴と俺はネットの掲示板で知り合っただけだ!俺はただの運び屋!1回3000ドル!割のいい仕事だと思った!」
泣きながら絶叫すると、エディはがくりと頭を垂らした。すすり泣くような嗚咽が、倉庫内に響く。しかし、零は容赦なく次の質問をぶつけた。
「だが、お前はその中身が何かは見当がついているはずだな。」
「知らねぇ!俺はただ……」
「ブライアンのIDは誰に売り渡した?」
思いもよらぬ質問に、エディはぽかんと口を開け、アイマスクをしたままの顔を零に向ける。
「え……?」
「彼のIDを誰に渡したのかと聞いているんだ。答えろ。」
「そ、そいつだよ同じ奴だ。嘘じゃない。プラスでっ6000て言われりゃ誰だってやるさ!」
零はふん、と鼻を鳴らすとさも愉快そうに笑った。
「彼は鍵を無くしたそうだ。お前に金は入らない。だが、お前を殺しに来る奴は現れるだろうな。これからずっとだ。」
酷くショックを受けた顔で、そんな!と悲鳴をあげる男を尻目に、零はエディの後ろへ回り込み、アイマスクはそのままに拘束を解いた。斎藤がエディの腕を掴むと、ヒィ!という情けない声が上がった。
零が錆びついた倉庫のシャッターを開ける。斎藤に引きずられるようにしているエディが、より一層絶望の色を濃くして泣き喚いた。
ずっと無言だった斎藤が低く唸った。その言葉に、零は少し意外だとでも言うように眼を見開く。確かに、零はあれよりももっと過酷で凄惨な拷問も、眉一つ動かさずにやってのけられる訓練もしてきた。
しかし、この男は自分のような訓練も受けていないと思われるのに、冷静に状況を観察していた。たいした胆力だと零は感心したが、同時に疑念も抱いた。この男は何者なのかと。
「斎藤さんならどうしました?」
「そうだな……逆さづりにして、足に五寸釘を穿ち、蝋を灯す。そうすればどんな口の堅い者も吐く。」
そりゃあ痛そうだ。と苦笑しながら、いつもの仏頂面で見返され、肩を竦めた。
「ま、でも身体に痕跡を残さずに情報を引き出せるに越したことはないですからね。死んだら元も子もない。」
そういうものか。と考え込む男を横目に見ながら、零は思考を巡らせた。この姿を見た限りでは、零がいなければまともに飲み物すら買えない事など到底信じられない。
過去から来たと言う言葉はともかく、今は敵でなければそれでいい。いや、そんな物ではない。寧ろ彼に仲間意識さえ感じている。もう、捨てたはずの感情だった。
零は、エディをシャッターの開いた入口の真ん中に膝立ちさせ、両手を後頭部に置かせた。
「そのまま100数えろ。もしも途中でアイマスクを取ったり、逃げたりしたら永遠にこの世からオサラバだ。」
耳元でくつくつと笑うと、男は喉の奥で悲鳴を上げた。そしてゆっくり震える声で1…2…と数え始める。
「……もうここに用はありません。行きましょう。」
後ろの斎藤に小さく日本語で告げると、二人はそのまま倉庫を後にした。
「少し手ぬるいのではないのか?」
思考があらぬ方向へ逸れていき、思わず頭を振り思考を引き戻す。エディから新しい手掛かりが得られた。【Knight】と鍵の中身だ。まずは正体が分かっている鍵。ブロンクスのトランクルームに何が入っているのか調べねばならない。
「あの男は生かしておいて大丈夫か?」
斎藤がさらりと物騒な事を言う。
「ええ。下手に殺すと証拠が残りますから。奴も叩けば埃が出る身だ。あのまま警察に駆け込むほど馬鹿じゃないでしょうしね。」
淡々とした零の物言いに、斎藤がふ、と口を歪めた。姿形は似ても似つかないが、冷徹無比で徹底的に合理性を追求する姿勢は、やはりあの鬼によく似ている。人使いが荒いところもそっくりだった。
「ブロンクス地区か……クソ、ここから一番遠いじゃないか。クソッたれが。【Knight】とやらを見つけたらケツに鉛を嫌と言うほどぶち込んでやる。」
ぶつぶつと文句を言う零を見かねて、斎藤が口を出す。今まで生きてきて、ここまで口の悪い女を見たことがなかった。
「女がそんな言葉遣いをするものではない。見苦しいぞ。」
「お褒めに預かりファッキン・シットでございます。生憎貴族様の出自じゃないんでね。」
悪びれた風などこれっぽっちもない台詞に、斎藤は溜息をついた。
ふと、今だ震える声で数字を呟く男の姿を振り返った。哀れなやつだ。と心の中で思いながら、先を行く零をゆっくりと追い始めた。
―――――――――――
引っ切り無しに鳴り響いていた無線から解放され、パトカーの中は漸く落ち着きを取り戻した。
NY市警65分署のジャレット巡査部長は、当務の間中この一連の騒ぎで多発した事故や窃盗にかかりきりで、ほとほと疲れ果てていた。
後数時間でこの勤務も終わる。隣を見ると、ハンドルを握る相棒のハリーも眼の下に隈が出来ている。
ハリーはティーンのガキ共と追いかけっこが出来るほどタフな男だが、さすがに今日は疲れたようだ。
気怠い空気が漂うパトカーの中に、緊急通報のアラームが鳴り響き、瞬時に二人の表情が引き締まる。ジャレットが助手席前の無線機を取った。
≪全車応答。コード3。バン・コートランド湖で男性とみられる遺体があるとの申報。付近の車両は至急向かわれたい。≫
「こちらX-23。コード3了解。現場へ向かう。位置を送ってくれ。」
≪了解。X‐23。≫
バン・コートランド湖ならジャレット達の車両が一番近い。ここからならば10分もしないで着くだろう。
「ついてねぇな。他はマンホール騒ぎで出払っちまってる。後2時間で交代だっていうのによ。」
「仕方ねぇさ。とっとと終わらせて、刑事課の連中に引き継ごうぜ……おい、ちょっと待て。あれ見ろよ。」
ハリーがスピードを緩め、前を指差す。ジャレットが薄暗い路地に眼を凝らすと、モスグリーンのモッズコートを着た男が歩いていた。奇妙なことに、肩にはゴルフバッグをかけている。フードを被ったその頭が、こちらを避けたように見えた。
ジャレットが頷くと、ハリーが短くサイレンを鳴らして男の前にパトカーを停めた。ジャレットがすかさず助手席から出る。銃に手をかけたまま、マグライトの光を男に向けた。
「動かないで。バッグを置いて両手を頭の後ろに。」
男がゆっくりと両手を上げた。相変わらず顔はうつむいたままだった。
「ゆっくりパトカーの方へ歩いて。ボンネットに両手をついて。」
その時、後ろで発砲音と悲鳴が上がった。驚いて振り返ると、同じモッズコートを着た男が、倒れた相棒の傍らで、右手を突き出していた。その手は無慈悲にも虫の息の相棒の頭にゆっくりと向けられつつあった。
ジャレットがよせ!と言ったのと同時に、破裂音が響き、ハリーはびくりとしたのを最後に動かなくなった。ジャレットは怒りで目の前が赤くなるような錯覚を覚え、男に向かって引き金を引き続けた。
銃声が夜の静寂を稲妻のように引き裂く。男は素早く身を翻すと、狭い路地へ消えていった。ジャレットは急いでハリーへ近づくと、胸の無線機へ怒鳴った。
「ハリー!畜生!こちらX-23!警官が撃たれた!救急車を急いで向けてくれ!」
「悪いが、もう手遅れだ。」
背後から、声がした。感情を微塵も感じさせない、無機質な声だった。振り返る間もなかった。
「え……?」
激痛が胸を貫いた。倒れているハリーの顔に、生温い液体がぼたぼたと垂れている。自分の血だと気づいた時には、もう手遅れだった。胸からぞぶりと何かが抜かれるのを最後に、ジャレットの視界は黒く染まり、その身体はハリーに折り重なるように頽れた。
モッズコートの男は、たった今殺した警官に向けて、短い祈りの言葉を捧げた。細長い片刃の長剣に付いた血を白いハンカチで拭う。じわりと白い布地が赤く染まった。それには鍔はなく、刀身は真っ黒で、つや消し工が施されていた。流れるような動作で鞘に納め、その時代錯誤とも思える武器をバッグに戻した。
傍らに同じ背丈の同じ服の男が歩み寄った。だが、その手には銃が握られ、もう片方には不釣り合いなギターケースを持っていた。剣の男のほうが、まったく感情を感じさせない声で銃の男に話しかける。
「サハム。警官が来る。直ぐに離れないとまずい。」
「少しタイミングが悪かったな。あの男は始末したのか?」
「ああ。ベラベラとうるさかったから首を切り落としてやった。見ていたはずだろう?」
「分かっている。確認しただけだ。お前の腕は俺がよく知っている。」
コピーしたように、全く同じ声と顔の二人は、ほとんど同時に顔を見合わせた。
「奴と接触した人間は全て消せとの事だ。行くぞ。」
「ああ。」
双子の殺し屋は、静かにその場を後にした。後に残ったのは主を失ったままのパトカーと、二つの死体だけだった。
最悪の獣が解き放たれた事を、未だ零達は知らなかった。




