ロード・ランナー
狂った世の中で狂うなら気は確かだ
~シェークスピア~
斎藤が一度抜いてしまったイヤホンを慌てて付けようとした時であった。
寒風吹きすさぶカフェテラスに居た数少ない客が、その音のほうを見て悲鳴を上げた。
ガシャンとガラスが砕け散るようなけたたましい音の方を見ると、先程アパートに入っていった相棒が、ひしゃげたワンボックスの屋根からよろよろと降りるところだった。
辺りに異常を知らせる甲高いカーアラームが鳴り響き、通行人の視線を集めた。
斎藤は咄嗟に駆け寄ろうとしたが、相棒の鋭い視線に、行ってはならないと本能的に感じ、その場で立ち止まった。
零は斎藤の方へ一直線に駆け寄ると、右腕を背中の方へひねり、何を考えたのかその手にあった銃を斎藤のこめかみへ突き付けた。
一瞬何を考えているのか混乱する斎藤だったが、零が何やら異国の言葉で叫びながら、アパートの窓を睨みつけているのを見て、問いかけるのを止めた。窓からは短髪の男が何やら叫んでいる。
耳元に、小さな日本語で相棒が語りかけてきた。
「すいません斎藤さん。そのままついてきてください。」
コートの襟首を掴まれ、引きずられるようにして、その場から離れ、後ろの相棒が傍に停められていたセダンの助手席に斎藤を押し込んだ。ドアが閉められ、隣の運転席に零が乗り込んだ瞬間、斎藤は声を荒げた。
「零!一体何のつもりだ!」
そんな抗議の声を聞く耳も持たず、窓の外へ向って2回引き金を引いた。至近距離からの発砲音に思わず斎藤は眉をしかめる。
そして直ぐに零はアクセルを思い切り踏みつけると、二人の乗るセダンは唸り声をあげて、ものすごいスピードで狭い路地を荒馬の様に走り出した。
ーーーー
ワンボックスの屋根がクッションになったからと言って、直に金属板に叩きつけられた背中が痛くない訳ではない。
じんじんと熱くなる痛みを無視して、零は驚いたようにこちらを見ている斎藤のコートの襟を後ろから掴んで腕を捻り上げ、その陰に隠れると、アパートの窓から銃を突き出しているだろうFBIの捜査官に向かってハリウッド・アクションの解りやすい悪役のようにコルトを目の前の頭へ突き付けて、叫んだ。
『動くな!一歩でも動いたらこいつの頭をぶち抜くぞ!』
目の端にアパートへ入る時に予め目星をつけておいたセダンの位置を確かめ、できるだけ斎藤の陰に隠れながら、引きずるようにして移動する。
銃を持った暴漢がカフェテリアの客を人質に逃亡する。これこそが零が考えていた緊急時のプランだった。
たとえ、どちらかが捕まったとしても、零が斎藤を人質に行動するという事実を認識させる事によって、斎藤だけは罪に問われることはなく、保護してもらえるであろう。というのが零の計算だった。
パスポートも零が強引に作らせたと言えばそれまでだ。何せ零は米政府、いや、今や全世界に指名手配されるほどのテロリストとなっているのだ。
既にそこかしこからサイレンの音が聞こえる。さすがNY市警。仕事の速さに舌を巻いた。
セダンのエンジンは唸り声を上げながら狭い路地を疾走する。狂ったようにクラクションを鳴らせば、通行人が蜘蛛の子を散らすように道路の端に避けた。
凄まじい速さで周りの景色が流れ、斎藤は思わずしっかりと助手席側の取っ手を掴んだ。
フロントガラスに避けきれなかったゴミ箱が大きな音を立ててぶち当たり、入っていた生ごみが目の前に撒き散らされ、ワイパーの動きに右へ左へと流される。
路地からメインストリートへ出ると、続々とパトカーが集まってきた。ハンドルを素早く切りながら、車列を縫うように走り抜ける。だが、後ろから青のGT-Rが猛烈な勢いで追い上げてきているのをバックミラー越しに確認した。あのFBI捜査官だ。短髪の方がハンドルを握っている。中々運転が上手いと変な所で感心してしまう。
「何か策はあるのか!?」
斎藤の怒鳴り声が車内に響く。そんなものはない。アドリブで行くしかない。
「斎藤さん!舌噛まないでくださいよ!」
勢いよくハンドルを切ると、タイヤが煙を上げながらスピンし、ちょうど真横になる形になった。零は素早く銃を抜くと、青いスポーツカーに向かって撃ちまくった。
ガンガンという耳障りな音と同時に、GT-Rのフロントガラスに何発か放射状のヒビが入り、大きく横に逸れた。だが、青い日本製のスポーツカーは、隣のゴミ収集車にぶつかりそうになるのを辛うじて避け、追撃を開始してきた。
零は舌打ちをして、アクセルを踏みぬいた。
「FBIには、随分と腕の立つカウボーイがいるみたいだな!クソッたれ!」
せめて、ハイウェイまで乗れればどうにかなるのだが、このままブルックリンまで行ってしまうと半島のどん詰まりに来てしまう。それだけは避けたかった。
ふと、視線を向けると、印象的な地球儀のオブジェが目に入った。フラッシングメドウズコロナパークだ。
零は赤信号に変ったばかりの交差点に向け、躊躇することなくハンドルを切った。トラックとぶつかりそうになりながら右折しようとしたが、タイヤが滑り、ポールをなぎ倒しながらスピンしてしまった。標識が、バンパーに当たった拍子にくの字に折れ曲がる。
「左から追手だ!」
助手席の斎藤の声に眼を向けると、パトカーが数台、サイレンを鳴らしながら追いかけてきていた。
反対側からは、あのFBIのカウボーイが追って来ている。挟み撃ちだった。上空にはヘリも集まってきている。
もう迷っている暇はない。アクセルペダルを折りそうな勢いで、右足を踏み込んだ。
―――――
トーマス・ギブソン捜査官は、部下であり相棒のデヴィットの軽口にああ言ったが、実のところ驚きを隠せなかった。
唯の強盗殺人という市警の見解に納得行かなかったギブソンは、被害者であるブライアン・ロイドの住居を尋ねると、女が二人、血みどろの殺し合いをしていたのだ。
分署時代から『当番の日にギブソンがいると飯も食えない』と揶揄される位、事案に関しては【引き】が強かったが、本人にしては不名誉なうわさでしかなかった。
だが、この部屋に来た甲斐があったというものだ。この2人は何か事情を知っているに違いない。ギブソンはそう思った。いつものように、弁護士を呼び、黙秘する権利に関する文言を言おうとした時だ。
後頭部に手をついていた女が、勢いよく全身でぶつかってきたのだ。床に背中を強かに打ちつけた時、鳩尾に後頭部が入り、一瞬息が止まった。その十数センチ上を何かが素早く飛んで行ったのが見えた。
セミロングの女が、赤いコートのブロンド女に向けて引き金を引くのを見て、自分のコルトが奪われたと気づくのに数秒を要した。それくらい、女の動きは素早く、無駄がなかった。
女はそのまま身を翻し、戸惑うことなく窓から身を投げた。一連の動きからして、軍隊経験者だろうと思うのと同時に、口をあんぐりと開けて突っ立っているデイヴに、鋭く叱声を飛ばした。
「デイヴ!応援要請だ!間抜け面してんじゃねぇ!」
割れた窓から身を乗り出すと、向かいのオープンカフェに走り去る女を認めた。その先には、ダークグレイのコートを着た東洋人らしき男が、呆然と突っ立っている。
まずい!とギブソンが飛び降りようとした時だった。女が銃をこちらに向けたのを見て、身を隠す。その間に女はコートの男を人質に取り、車に押し込んだ。最悪の展開だった。
ギブソンは要請中のデイヴから無線機をもぎ取り、声の限り怒鳴った。
「女は約170センチ、ダークブロンド、黒い上衣にジーンズ、東洋人男性を人質に取り、白のセダンで東に逃走中!行ける車両は全て向かえ!それ以外は495線合流地点に検問用意!」
無線を切ると、ギブソンは転げ落ちるように階段を下り、目の前に停めていた愛車のGT-Rに乗り込んだ。私用車を使っているのは、今日は非番であり、予定もなかったデイブを無理矢理誘ったのだ。
遅れて助手席に乗り込んだデイヴが、息を切らしながら文句を言った。
「全く!とんだ休みですよ!これならマンガ・カフェに行くんだった!」
喚きつつも、しっかりとシートベルトを締めた。ギブソンの部下になってまだ数か月だが、この車に乗って凶悪犯を追いかける際、エチケット袋が必要になったのは言うまでもない。
「ニューヨークは入り組んでますよ。ナビゲーターが必要ですか?」
デイブが皮肉気に言うと、ギブソンがにやりと笑った。
「誰に物を言ってんだ。俺が居たのは地獄の75分署だぜ?」
GT-Rのエンジンが、悍馬の如く嘶くと、アスファルトの上を凄まじいスピードで疾走し始めた。




